※運のいい女と同ヒロイン。
薄暗い室内。ほのかな明かりを捕らえた薄く濁った瞳に、鋭利な刃先が写り込んだ。
ギラギラと鈍色に光る刃先が“相手”の首元に押しあてられたが、相手はピクリとも動かず黙ってただそこに横たわっている。逃げる様子は無い。もはや事切れているのかもしれない。
「クフフ……」
10人が聞けば全員「不気味だ」と答えるような気味の悪い笑い声が薄闇に響く。奇妙な笑い声を洩らした男の、普通の人間にはあり得ない色の目が薄く細められた。
刃先が柔らかな皮膚にめり込んだ途端、男の口元が緩く弧を描く。笑い声にまぎれて、ズッと肉が断ち切れる音がかすかに聞こえる。しかし数秒もしないうちに、刃先の侵入はあるところで止まった。首の骨に刃が引っかかったのである。
違和感に気付き男が手を止めると、切り開いた箇所からどろりと赤黒いものが流れ落ちた。液体はゆっくりと傷口を伝い、相手が横たわる場所に徐々に浸食していく。
「ふむ」
男は何かしら考え込むような仕草をした後、空いた片手を相手の頭に添えた。グッと力をこめて相手の頭をねじ伏せるように押さえつけ、刃物を握った手を力任せに押しつける。
グギッと骨の折れる音の後、刃物が固いものに当たる音がやけに大きく響いた。相手の頭部は無残に胴から切り離され、首から赤黒いものを垂れ流している。
自らの手によって行われた惨状を前にして、男が満足そうに笑った。
「さあて、次はどうしましょうか。肉を削いで……皮を引きはがして……刻んで……クフフ」
笑い声交じりにそう呟き、刃物を胴に当てた。
――のも束の間。いきなり部屋がパッと明るくなる。
男がハッとして顔を上げた時には、すぐそばに人影が立っていた。場にそぐわない、きょとんとした顔が男を見上げる。無垢な視線に射抜かれ、男がややたじろいだ様子を見せる。
人影が背伸びをして男に顔を近づけると、男が目を見開いた。
「何ですか。キスして欲しいんですか?」
言いながら骸は手にしていた刃物を作業スペースの上に置いた。
「ちゅーとか骸君ってばいっつもそんな事ばっかりだねえ」
人影もといがのほほんと間延びした声で言い、男もとい骸の前髪を手のひらで押し上げる。そうして自分の前髪も手のひらで押し上げ、額同士を合わせようとしたが、がいくら背伸びしても骸に若干額が届かず、というか骸自身が届かせないよう身を引いたので、“熱を測る”という行為は未遂に終わった。
「骸君て変なとこでイジワルだよね」
不満そうにが呟くが、それが面白いのか、骸が目を細めて微笑んだ。
「ほら、“好きな子ほど虐めたくなる”って言うでしょう」
「私だったら“好きな子ほど甘やかしたい”かなー」
なんて言いながらは骸の前髪を元に戻し、手のひらをそっと額に添えた。5秒くらいした後手を離して、その手を自分の額に持ってくる。
「……うーん、熱は無いなあ」
そう呟きながら、は手を下ろした。
「見てわかるでしょう」
「あー、うん。……えーと、いや、そうなんだけどね」
あはは、と乾いた笑いで。その笑顔の真意がわからず、骸が首をかしげると、はあちらそちらに目をやってから、さっきまで骸が手にしている刃物を見た。刃渡り20センチほどの出刃包丁にはねっとりと血がついている。それから視線少しずらせば、木製のまな板が置いてあり、そこには見るからに新鮮そうな魚が横たわっていた。秋刀魚である。それも頭を落とされた。
流しを見れはビニール袋に氷とともに入れられた秋刀魚が5匹。恐らく近くのスーパーで投げ売りされていたのを買ってきたのだろう。
が気まずそうに口を開く。
「だって骸君、たかがお魚捌くのに、キッチンの電気消して、なんかブツクサ呟きながらニヤニヤしてるんだもん」
あー、と納得したように骸がぼやく。対するは言葉を紡ぐたびに視線が下へ下へと移っていく。
「見守ってるこっちとしては、“熱でもあるのかなー?”と思っちゃうわけで」
「いや、その、なんとなく雰囲気を出したくて」
「ごめん、意味がわかりません」
不意に冷蔵庫のドアが開いた。冷気が漂ってくる。と骸が一斉にそちらを見れば、髑髏が牛乳パックを取り出しているところだった。その後ろには犬の姿もある。
「、気にしちゃダメ。骸様はいろいろこじらせすぎただけなの」
「こじらせたっつーかもう手遅れだぴょん」
棚からコップを取り出す髑髏から、犬は牛乳パックを奪い取る。変わりに持ってあげるのかと思えば、おもむろにパックに口を付けて飲み始めた。
「ちょっと犬汚いですよ。ちゃんとコップに注いで飲みなさい」
骸がそう窘めたあと、怪訝そうな顔になる。
「てか、こじらせすぎたとか手遅れだとか何の話ですか」
「まんま、こじらせすぎた話だぴょん」
思う存分牛乳を飲んで満足したのか犬は髑髏に牛乳パックを押しつけ、ふらりとキッチンから出て行ってしまう。髑髏もコップに牛乳を注いだ後、空になってしまった牛乳パックを流しに置いて、骸とに見向きもせずパタパタと小走りで去って行った。
そうして、静まり返る空間の中、顔を見合わせる2人。
「……うーん、よくわかんないけど」
が言いながら骸の方に手を伸ばす。ぽん、ぽん。と2回、骸の頭を優しく叩く。
「よしよし」
「何やってるんですか」
骸に不満そうに問いかけられても、は気にした様子なく、再度、ぽんぽんと叩く。
「だから、よしよし。……嫌?」
首をかしげてが聞き返すと、骸は珍しく気恥かしくなったのかから視線を逸らした。
「別に嫌じゃないですけど」
嬉しいのか怒ってるのか落ち込んでいるのかおよそ判断がつかないかなり微妙な表情の骸に、が微笑んだ。もう片手を骸の頭に乗っけて、「よーしよしよし。ムツゴロウさんの真似ー」なんて言いながらは骸の頭をわしゃわしゃと撫でまわす。骸の髪が乱れるのもお構いなしにだ。
しかしそんな事をされている骸は嫌がるそぶりを見せず、むしろ呆れた風に苦笑を浮かべて「ハイハイ」と適当に相槌を打ってやる。
ゆっくりとの手が止まり、骸の前髪を適当に整えてが手を下ろす。
「よし。それじゃあ私も手伝うね」
なんて意気込みながらが腕まくりをして、下の棚の扉を開けて新たに包丁とまな板を取り出した。
「いいですよ。あっちで座って待ってて下さい」
言いながら骸がキッチンの外を指さすが、はふるふると首を振った。
「だってそうしたら骸君また1人でニヤニヤしながらお魚に話しかけ始めちゃうでしょ?」
「いやそれはその」
に無邪気に問いかけられ、骸が口ごもる。
「そんな骸君を黙って見過ごすわけにはいきません。ね?」
意地になって反論したところで、易々と勝てる相手でもなし。そう判断した骸は静かにため息を吐いた。無言で放置されっぱなしだった魚の方に向き直り、まな板を端に寄せる。がその隣にまな板を置くと、流しの方にほんの少しはみ出したが、けれども丁度良くおさまった。
「じゃあがんばるねー」
エプロンをつけつつ呑気に言いながら、が袋の中から魚を一匹取り出した。
「クッフッフッフ……やりました、やってしまいましたよ」
「……」
「クハハハ! 首と胴が離れればもう助かりませんね!」
「……」
「もう貴方が生きていた事なんか誰ひとりわからないでしょうね、このザマじゃ」
「……」
「貴様が細切れになるまで、いくらでも切り刻んでやりますよー! フヒヒ―!」
「……ちょっと、煩いですよ」
「うーん、骸君の真似してみたんだけど、やっぱダメかあ」
「棒読みすぎてこれっぽっちも似てない以前に、僕そんな事言ってません」
2009/09/11