※お嬢さんの設定は19-03.htmと同じ
「傷をつけてみてもいいか?」
以前に、こんな事を彼女に問うた事がある。
彼女の腕を見ていると、戦闘中に平気な顔をして神槍を振り回しているのが嘘のように思えてくる。まるで風のようにするりと敵の大群の中へ滑り込み、槍を振り回すその腕は細くて艶めかしく、そして折れそうなほど華奢だ。そんな彼女の腕には――いや、腕だけじゃない、首や腹や足の先の至るところまで、彼女はいつだって生傷が絶えない。
レダとの目的はひっくるめて言えば一緒だ。一緒だが、エクセルが行方不明になってからは、二人が共に行動するという事は皆無に等しくなっていた。陽が昇ると同時に、はレダに何も告げず勝手にどこかへ行き、何かしらの目的を遂行して、いつの間にかレダのもとに帰ってくる。大抵は血まみれになって、だが。
の攻撃は意外にも、斧使いのマリスをも凌ぐ破壊力がある。敵の群れを一振りで薙ぎ払えるほどだ。だがしかし、その攻撃力に反比例するかのように、彼女は守りが浅い――というか、守りのスキルが一切ない。傷つけられたら防ぐという、当たり前の行動をまるでしないのだ。
自分が傷つけられた分だけ、倍にして相手を傷つける。それしか脳がないのだと、レダは最初の頃そう思っていたのだが、どうやら違っていたらしい。暫らくの間彼女と行動を共にして、彼女がディヴァインを得る代償としてロストしたものは“痛み”だと知り、そうしてやっとレダは悟った。
“防御したくてもできない”のではなく、“防御する必要がない”と彼女自身が判断しているのだと。
といえば、まさかレダがそんな発言をするとは、と暫し茫然とレダを見つつ、予想もしていなかった事を問いかけられ、気まずそうに目前の焚き木の炎へと視線を移した。ゆらゆらと燃え滾る炎が彼女の瞳の中に映り込み、炎がゆらゆら揺れるたびに、彼女の瞳の中の炎もゆらゆらと揺れた。それっきり、まるで反応がない。彼女は珍しくも相当困惑しているようだ。
レダが無言での返答をじっと待っていると、その威圧感に気圧されたの唇が少しだけ動いた。最初に出てきた言葉は「あー…」と気まずそうに呻く声。そのまま彼女は固まった後、ややあってまた唇を動かした。
「いや、うん。えーと……レダが何を言いたいのか、私にはさっぱり解らない」
「ああ…」
レダはそう呟き、考え込む素振りを見せた。どうやら自分でも何を言いたいのかよくわからなかったらしい。レダは自分が彼女に伝えたい事をなんとか頭の中で整理する。
「本当に、お前は痛覚をロストしたのか?」
「うん」
あっさりと言われてしまったレダは、そうなのか、と返して終わらせようかという気にもなったが、なぜか彼女の腕に傷を付けたくてしょうがなかった。自分は歪んでいるのだろうかとレダは自問自答して、諦めの溜息を吐いた。もうここまできてしまっては、自分が異常だと素直に認めざるを得ない。
今にも朽ち果てそうな倒木に座っていたレダは無言で立ち上がり、向いの木に凭れ掛るようにして座っているの傍へやってくると、その場に腰をおろした。の呆れたような微かなため息の音が耳に届く。細い腕をそっと掴むと、がレダに向けて苦笑した。レダはそれが気に障ったわけではなかったが、何か反論しなければ自分の体裁が保てないような気がしてしょうがなかった。
「変だと思うなら思えばいい」
レダは言ったあと、情けなくも自分が言い訳をしているのだと気づいた。
「はは、大丈夫。レダはいつも変だから」
の言葉は励ましとれるが、それ以上にフォローになっていなかった。――――いやむしろ、これは自分に対する嫌味なのだろうか。…どうせ嫌味のつもりで言ったんだろう。今の気持ちを誤魔化すためにそんな事を考えながら白い腕に爪を立てる。改めて彼女の腕を見れば、腕全体がうっすらと獣の噛み痕にまみれていた。魔物の群れに突っ込んでいく、勇ましいようで馬鹿なの姿が簡単に想像出来る。この無鉄砲さがなくなる日はくるのだろうかと考えつつ、治りかけの傷をえぐるように、爪を引き下ろす。
「い゛っ…」
そんな呟きが聞こえてやっと、が顔をしかめているのに気がついた。慌てて手を離すが遅かった。ぷくりと血が滲み出し、傷口に溜まった血液が筋となって零れ落ちる。暫し無言の後に、が場を和ませようとしたのかあははと軽く笑って見せた。
「なんつーか、その…敵意のある攻撃は痛くないけど、それ以外は普通に痛いんだ」
が笑いながら傷口をぺろりと舐める。直後にうぇっと顔をしかめる姿を見て、レダは妙に居た堪れない気持ちになってきた。
「…何で言わないんだ」
「勉強になったでしょ?」
無邪気な彼女の笑顔からは、いつもからかわれてるお返し、という意図しか汲み取れなかった。そういうことしか考えられない自分は、心が荒んでいるのかとレダは思ったが、彼女の晴れやかな顔を見て、いやそんな事はないな、と何かを振り払うように緩く首を振った。
――それをまさか、今になって思いだすとは。
石畳の上に散らばる羽毛の中、血まみれで横たわるを見下ろしながら、レダは顔を少し上げての傍にいる人物を見据えた。
黄金色に光る、まるでいかづちの形のような神剣エクセリオンを構えている、まだあどけなさの残る少年は、呆然と、崩れ落ちるようにその場に座り込む。その拍子に少年の手からエクセリオンが滑り落ちた。
からん、と物悲しい音を立てて地面に転がり落ちるその剣には、赤い血がべったりと付いていた。エクセルの背後にいる少女たちが携えている武器それぞれにも、赤い血がついている。彼女たちには大した怪我はない。この血が誰のものであるかは、幼子でも解りそうなくらい一目瞭然だった。
5対1とはなかなか一方的すぎる状況だ、とレダは眉をひそめる。いくらあのでも、勝つか負けるかくらいは想像できただろう。この状況を回避する術は無かったのだろうかと、横たわるの身体を見下ろして、レダは微かな吐息を溢した。
日頃から「なんとかなる」とか「為せば成る」とかを格言として生きているようなやつだ。彼女は完全な勝利までに至る経緯をシミュレートはしない。自分に有利な結果に至るまでの経緯なんてものは殆ど気にしない性質だろう。
それに多分、1対1の状況に持ち込めれるほど、彼女はそんなに賢くはない。
レダは羽を動かして地面に降り立つ。散らばるの羽毛を踏むことに申し訳ないと思いつつ、の傍にしゃがみ込むが、目の前にいるエクセルは何の反応も示さなかった。エクセルの虚ろな両の眼は、だけしか捉えていないように見える。エクセルが珍しく無表情だという事が、尚更レダの不安を掻き立てた。
血まみれで横たわるの顔は、この状況に見合わないくらい、寝顔のように穏やかだった。レダはゆっくり手をのばして、の血だらけの指に触る。の指は酷く冷たかったが、まだ死んではいないはずだ。天使が死ぬ時は人間とは違い、未練がましく肉体も魂も常世には残さない。とすれば、まだ可能性はある。レダはの鼻先から口元までを覆うように手を当てた。レダはいつも以上に真剣な顔で自分の手を見つめ、何秒かした後、口元から手を離した。レダの掌にの微かな吐息が当たったのだ。
どこまで運がいいんだと、レダは口元をゆるめる。柄にもなくほっとしてしまう。
しかし、は見るからに虫の息だ。彼女が負っている傷も、ポーションやエリクサーで治るような傷には到底見えない。の命が消えるまでの時間は残り僅かなのだろう。そんな状況で、何を優先すればいいのかレダは自問自答する。
エクセル達は神罰の発動のためには邪魔な存在であり、また断罪の対象だ。ここでローレライを振り上げ、心身ともに衰弱しているエクセルを殺すことなど簡単だろう。
―――だが、どうしても、を見捨てることも、エクセルを断罪することも、レダにはできなかった。
の背中と石畳の間に手を滑り込ませて、壊れ物を扱うかのように抱きあげる。意識不明状態だと全身の筋肉が緩み重くなるのだが、それでもはレダにとっては軽かった。
エクセルの後ろにいる少女たちを見てから、を見る。肉体的には同年齢だというのに、はあまりにも細くて華奢すぎた。思い返せばはレダと居る時いつも寝ているかぐったりしているかのどちらかで、食事をとるという事をあまりしなかった。その時に何かしら食事を作ってやればよかったと、レダは今更後悔してしまう。はどれだけの苦労をこの小さな背中に背負いこんできたのだろう。レダは無性に自分が腹立たしく思えてきて、持て余したその衝動を抑えるために唇を噛んだ。
いくら治癒力があるレダでも、他人の傷は治せない。レダは神のために、敵を倒すために、告死天使として生を享けたのだ。他人を治す術を知らないのは当たり前のことである。いくら知識があるとエクセルや彼の使い魔に言われても、自分の知識は肝心なところでは役に立たないのだ。それを今、思い知らされたような気がした。
「エクセル」
未だ呆然としたままのエクセルに、レダは優しく声をかけた。ややあって、エクセルが顔を上げる。
「こいつを手にかけて後悔しているならば、手を貸せ」
を救うために敵に助けを求めるなんて、どれだけ浅はかなのだろうと、レダは内心自嘲した。神や七賢――ヘクターの命に背いた事になるし、ましてや敗北し、天に召されようとしている告死天使を自分の都合で助けようとする行為は、他人を尊重しない自分のエゴだ。しかしどうしてもだけは助けてやりたかった。自分がどんなに利己的だ、傲慢だと罵られようと構わなかった。自身が自らの意思で死を選んでいたとしても、ならば尚更助けなければならないと思った。
「――手を、貸してくれ。頼む」
言い終ったあと、まさかエクセルに頼みごとをする日がくるとは思わなかったと、レダは口元を緩めた。対するエクセルはゆっくりと目を見開いてレダを見据えた。エクセルの両の眼に光が差し込む。
「…僕を、許すの?」
「許すも許さないも、それを決めるのはコイツだ」
レダは腕の中のを顎で示した。エクセルがレダの顔とを見比べてから、俯いて目をグローブでこすった。立ちあがってレダをまっすぐに見つめ返すエクセルの顔は、いつもの凛々しい顔に戻っていた。
****
窓から入る微風が頬を撫ぜ、その刺激ではうっすらと目を開けた。靄か霧がかかっているかのように視界がぼやけて、あたりがよく見えない。何度か瞬きをしてからは目を擦った。視界がはっきりするまで思う存分目をこすり、そうして初めに目にしたのは、煤けて木目がはっきりと見えない天井だった。次第に、だんだんと全身の感覚が脳に伝わってくる。首から足のつま先まで、柔らかい布に覆われていて、身体のあちこちに妙な圧迫感を感じた。だんだん脳がはっきり覚醒してくると、続いて焼けるような痛みが身体を襲う。は顔をしかめて身じろぎすると、何かがぽとりと頭のすぐそばに落ちた。それは水に濡らして固く絞ったタオルにしか見えない。
「目が覚めたか?」
聞きなれた声に、は声のした方に顔を向けた。そこにはちょうど、椅子から立ち上がろうとするレダの姿。は何度か瞬きをして、レダの動きを視線で追った。レダは椅子から立ち上がってが横になっているベッドによると、の頭のすぐそばに落ちたタオルを拾い上げた。サイドテーブルの上にある、水がなみなみと張っている洗面器にそれを浸し、固く絞る。久しい水の音に、は妙な懐かしさを感じた。
タオルを手にしたレダは、の額ににじむ汗をそれで拭き、濡れて額にはり付いた髪の毛を除けて、長方形に折りたたんだタオルをの額に乗せた。その冷たさにびっくりしたのか、はやや目を細める。完全に脳が覚醒すると、体はだるいわ、頭は痛むわ、全身が焼けるように痛むわで、はげんなりと顔を歪めた。それから、どういった経緯でこんな状況になったのかを必死に思い出そうとするが、この部屋に入った記憶はない。それどころか、エクセルの一撃を受けてから後の記憶が、まるでないのだ。
「レ、ダ」
普通に声を出したつもりだったのに、酷く掠れた声が喉から零れた。
「ど、して……ここ、どこ」
いつも通りに喋りたいのに喉が痛くて声が出せなかった。まるで身体が自分のものではないかのように言う事を聞かない。うまく動いてくれないという腹立たしさに、歯を食いしばりそうになる。
「ここは…エレンディア、というところらしい」
レダの口からは、今までで聞いたことがない単語が出てきた。
「え、れん、でぃあ?」
思わず聞き返してしまう。聞き返されたレダは素直に頷いて、口を開いた。
「お前はエクセル達と戦った後、怪我と疲労で気を失った。その時傷口から雑菌が入り込んで、高熱を出して4日間眠り続けていたんだ。……――今日を含めれば5日か」
レダなりに気を使ったのだろう、レダの口から出た言葉はいつものように淡々とした物言いではなく、やや抑揚をつけた、ゆっくりした喋り方だった。けれども最後の呟きはいつも通りだったが。
「レ、ダ」
「何だ?」
は熱に浮かされていても、しっかりとレダの顔を見つめている。レダは相変わらずの無表情で、の声を聞き取り易いように身をかがめた。
「ご、めん」
きっと彼にかなりの迷惑をかけてしまったに違いない。が言うと、レダはほんの少しだけ口元を緩めた。笑った、とは心の中で驚いたようにつぶやく。
「謝るな」
レダがそう言って、その場から離れようとするので、は慌ててレダの手を掴んだ。手を掴まれたレダは一瞬驚いたような顔をしてから、いつもの無表情に戻る。どうした? と視線で訴えられ、は困ったように眉を寄せた。正直なぜ今レダを引きとめたのか、自分でも解らなかったらしい。困った顔のまま、レダの手を放そうとはしなかった。レダが、呆れたように息を吐いてから、唇を動かす。
「…痛むのか?」
はレダを見上げて、
「すこし」
と言うと、レダは息を吐いて、の手を振りほどいた。そういえば手を掴んだままだったと、ははっとする。
「あ、ごめ…」
言いかけただったが、次の瞬間、口を引き結んだ。レダに自分の頬を手の甲で撫でられてしまい、は驚きのあまり言葉を失った。汗ばんだ熱い頬に冷たい体温が触れるたびに、そこから冷えていく気がした。
なんだ、なんだ今のは、とレダを凝視するが、対するレダはそんな事は気にも留めない様子で、
「人を呼んでくる」
そう言って名残惜しそうにの頬を一撫でした後、踵を返し、服の裾を翻して部屋を出て行ってしまった。
残されたは茫然と天井を見てから、額に乗ったタオルを持ち上げ、綺麗に畳まれているにもかかわらずそれを広げ、火照った顔を冷やすために顔全体を覆うようにかけた。
2008/02/25