薪割りをしていた時だった。
「バルサさまっ」
声が聞こえて初めて、チャグムは少女の存在に気がついた。斧を振り下ろしていた手から力を抜いて、相手を見据える。
言い得て奇妙だった。
別に腕が3本あるとか、頭が2個あるとかいう、人間の枠に入らない格好をしているとかの奇妙ではない。それに、目の前の人は別に町でありきたりな服装をしている村娘――とはいっても襟が鼻先まで覆い隠すほど幅があったり、着物の袖が膝まであったりと少々民族っぽさがあるが、別段一般人と大して変わらない服装だ。
しかしどうしても奇妙だといいたくなるのが、目元を覆い隠している赤い布だ。赤い、といってもバルサの着物のように鮮やかな色ではなく、血が固まったようなややどす黒い赤い色をしている。そこに白く刺繍された白い目二つが、なんともいえない陰気臭さを漂わせている。その白い目を取り囲むように、四角や五角形で組み合わされた不思議な模様が色とりどりに刺繍されていて、なんとも儀式めいた感じを思わせた。
一瞬、目が見えないのかとチャグムは思ったが、彼女は器用に地面に転がる障害物を避けてバルサの前まで行くものだから、驚きのあまり掲げていた斧を落しそうになった。
「お久しぶりです」
少女の淡々とした態度とは対照的に、バルサは嬉しそうに口元を緩めて少女の両肩に手を置いた。
「ほんと、久しぶりだね。見ないうちに大きくなったじゃないか」
「はい、それなりに」
ゆっくりと、少女が頭を下げる。知り合いなのかと、チャグムは斧を切り株に差し込んで二人の様子を伺った。席をはずすべきか、それとも気にせずに薪を割ればいいのか考え込んでいたとき。
ぞくりと、背中に悪寒が走った。
「ああ、アレはチャグム。わけあって預かる事になってるんだ」
バルサがチャグムのほうを向きながら言っていたが、チャグムの視界にバルサは入らなかった。呼吸するたびにヒーヒー音が出て、酷く喉が渇いて仕方がなかった。逃げ出したい衝動に駆られるが、足を何かで括り付けられたみたいに全く動かなかった。こめかみから流れた汗が、頬を伝って、ぽつりと地面に落ちる。身体がガクガク震えて、自分の歯がぶつかりあいガチガチと鳴る。だというのに、命の危機は全くといっていいほど感じなかった。
布で覆われた“見えない”瞳に、射抜かれるのを感じる。心臓を抉り取られる、全身があわ立つ、すべてを吸い取られる、そんな感覚に囚われる。本能で危険だと思うのに、チャグムには目がそらせなかった。
「チャグム、しっかりしろ」
耳元でそんな声が聞こえると、一気に視界が暗くなる。最初、自分の目が見えなくなったのだと思ったが、それは違ったようだった。目元を覆う暖かな温度に、チャグムははじめて、タンダに目を覆われている事に気がついた。
「何をやってるこの馬鹿者!」
バルサたちがいたほうからトロガイの、怒声にも似た声が聞こえて、チャグムはびくりと身体を震わせた。ゆっくりと、手が離される。ぼやけた視界に真っ先に映ったのは、トロガイが自分の杖で少女の頭を思いっきり叩く、まさにその瞬間だった。
少女の名前は“”というらしい。チャグムと年の頃はそんなに変わらないので仲良くするのもいいと言われたが、「とは絶対に目を合わせるな」とトロガイに念を押されてしまい、チャグムはただ頷くだけだった。
「しかしまあ、お前、年々ひどくなってるぞ」
トロガイの言葉に、チャグムはぴくりと反応して、部屋の隅を見る。がこちらに背を向けるようにして、トロガイと向き合って座っていた。時折、トロガイがの目に手をかざして何事かをぶつくさ呟いてから、赤い布に得体の知らない粉のようなものをすりこむ。何かの儀式だろうか、とチャグムは目でタンダに訴えてみたが、タンダは苦笑しながら首を振った。お前は知らなくていいことだ、と。
「ったく、死人の目だなこりゃあ。……昼間、かなり辛いだろう?」
こくんとが頷く。トロガイはやれやれといった感じで盛大にため息を吐いてからまた意味不明な言葉の羅列をぼそぼそと呟いて、そばに置いてあった杖を手に取りの頭を一回だけこつんと叩いた。
それで、終わったらしい。が顔をしかめると、の膝の上にトロガイの兎がひょいと飛び乗る。が小さくくすりと笑う声が、かすかにチャグムの耳に届いた。
は目を覆っていた布をトロガイから受け取り、目隠しをする要領でそれを巻きつけ、頭の後ろで結び目を作る。それからトロガイに一礼したあと、また深く礼をして、最後に綺麗な土下座をしてからゆっくりと立ち上がった。立ち上がる素振りも淡々としていて、それでいて無駄がなく、綺麗だと思わさせる。じーっとチャグムが見ていると、視線に気づいたのかがチャグムを見た。チャグムは慌てて視線をそらす。
「ほら、も食べろ。疲れただろ」
タンダの言葉に頷いて、はタンダの傍――チャグムの真向かいに座ろうとしたが、やや固まってからバルサの隣に座った。チャグムは内心安堵の息を吐く。それをにやりと笑って見てから、タンダの隣にトロガイが座った。タンダから汁物の入った碗を受け取り、は礼をしてから、顔半分を覆っている襟を下げて碗に口をつけた。小さく喉がなり、の頬が微かに緩む。
「そんなに悪いのか?」
タンダがぼそっと、隣のトロガイに耳打ちする。
「悪いね。かなり悪い」
しかしタンダが声を低くして言ったにもかかわらず、トロガイは声を潜めることなくしれっと言いのけた。タンダがはあ、と盛大にため息を吐くが、トロガイはけろっとした顔で。
「このまま治らないようじゃ、取るしかない」
何を取るんだ、とチャグムは聞きたかったが、が箸を銜えながら小さく頷くのを見て、チャグムは開きかけた口を閉ざした。
チャグムがバルサの名前を呼ぶと、なんだい、と優しげに言いながらバルサは口元を緩めて振り返った。チャグムがバルサの近くに座ると、バルサは手入れ中の槍を膝上に置いて、身体ごとチャグムのほうを向く。
「あの人は目が悪いのか?」
先制するように言って、チャグムは窓の外の向こう側、何をするでもなく田んぼばかりを見つめているの後姿を見つめた。それからバルサに視線を戻す。バルサは申し訳なさそうに苦笑していた。
「あれはただ目が悪いんじゃない。まあ…お前と毛色はかなり違うが同じ“わけあり”だね。でも、わたしはそれをお前に言える立場じゃないんだ」
チャグムが不満そうに眉を寄せた。
「すまないね。けどチャグムだって、自分の嫌な過去を他人にべらべら喋られたら不快に思うだろう?」
「それは…そうだけど」
嫌な過去、とチャグム王宮にいた頃の事を考えた。チャグムは窓の外にいるをちらりと見てから、またバルサを見上げる。じーっと、純粋な瞳でまっすぐに見上げられたバルサは、耐え切れなかったのか苦笑して首を振った。
「悪いけど、教える事はできないよ」
チャグムの頭を乱暴に撫でて、バルサはまた槍の手入れに集中し始めた。
簡単に教えてくれると思ったのに、とチャグムは小さく息を吐く。それに見かねたのかトロガイが煙管をふかしながら、一言。
「知りたいのかい?」
と聞いてきた。バルサがはねるようにトロガイのほうに顔を向け、目を見張った。しかしチャグムはそんなバルサを気にせず、勢いあまって立ち上がりながら、
「うん、知りたい」
静かに、だけど切羽詰ったようにそう言って、トロガイのほうへと歩み寄った。ふとバルサが気になってチャグムがバルサのほうを見るが、バルサは何か物言いたげそうにトロガイに視線を送っていただけだった。
「なぁに、死にはしないだろう」
ゲラゲラと笑うトロガイにすっかり毒気を抜かれたのか、バルサは小さくため息を吐いてまた槍の手入れに集中し始めた。チャグムはそれを満足そうに見て、トロガイの正面に座り込む。トロガイは何かしばらく考え込んでから、煙管をふかした後、ぽつりと呟いた。
「何から話したらいいのかねぇ。…まぁ、お前もわかってると思うが、あの子の目は生まれつきおかしくてね」
こくりと、チャグムが頷く。確かにアレはおかしいと思うのだ。布で目を覆い隠してるにもかかわらず、まるで見えてるかのように振舞うし、はてまた目が合えば金縛りのような変な感覚に囚われる。王の目ならともかく、一般人の目にそれはありえないだろう。もんもんとチャグムが考え込んでいると、トロガイがくつりと小さく笑みをこぼした。
「呪詛であの子の一族の体質がそうなっているんだ」
じゅそ、とチャグムがそれを復唱する。言葉の意味はあまりわからないが、雰囲気からすると好ましい事ではないと察する事はできた。
「呪いをかけた呪術師はあの子らを殺したいのか、一生暗闇で生かしたいのかそこら辺がさっぱりわからんが、もうあの子の目は瞳孔が開ききっていて、日が出てる明るいうちは目隠し無しで外に出る事なんかできないんだ」
チャグムは思わず首をかしげた。するとトロガイがああ、と呟く。
「そうか、お前は瞳孔がどういうものか知らないか。…瞳孔ってのは、目の中にある黒い丸のことだ。これは目に入る光の加減を調節するものでな、明るい場所だと瞳孔は小さくなり、暗い場所だと瞳孔が大きくなる。暗い場所にいる状態がいわゆる、瞳孔が開いているってことだ」
トロガイが自分の目を指すので、チャグムは少しだけ近寄ってトロガイの目を見つめた。小さな黒い丸が、トロガイの瞳の中心にある。トロガイはやや拍を置いてから、まるで遠くを見るかのような仕草で自分の右目の上に手を当て、影を作った。すると、黒い瞳孔がじわりと散瞳していく。
そう言う事なのか、とチャグムは感心したように頷いた。
「瞳孔が開いているってことは、目にとって暗闇が一番適した環境なんだ。その状態で外なんか歩いたら太陽の光に耐え切れなくて瞳孔が拡散しちまうだろう。で、失明してしまう。まあこんな感じだな。でも、呪いはそれだけじゃない――」
トロガイが煙管をふかしてから、膝の上に丸まっている兎の毛並みを撫でた。
「目を合わせると、相手に何かしらの術を施してしまう目になっちまったからなぁ。そこが問題なんだよ、大問題さ。人と話すたんびに、いちいち相手を気絶させたりしてりゃ、人っ子一人近寄らんさ。人は一人では生きていけないって、お前はわかるだろう?」
「うん」
チャグムが自信満々に頷くと、トロガイは満足そうに笑った。
「あの、聞きたい事があるんですが」
「ん?」
「その、術っていうのは、動物には効かないものなんですか?」
夕食時、がトロガイに何か術を施してもらっていたあの時。確かにはあの兎の瞳を見たはずだ。なのにあの兎は何事もなかったように元気に飛び回っている。これはきっと、何か関係あるに違いないと踏んだチャグムの呟きに、トロガイはかっと目を見開いた。その反応を見て、何か言ってはいけないことだったのだろうかとチャグムは少しだけ身構える。不安げにトロガイの反応を待っていると、トロガイはにやりと口元を緩めた。
「こりゃあ、驚いたね。そこまで気づいているとは」
チャグムは目を数回瞬かせてから、ゆるゆると身体の力を抜いた。
「察しの通り、あの術、何故か動物には効かないんだよ。まあ、例外を除いてな」
「…れい、がい?」
チャグムが首をかしげながら聞くと、トロガイは煙管をふかしながら、
「そう。例えば狼や熊とかには術が働くんだが、栗鼠とか兎とか、自分に危害を加えなさそうなものに術が働いたのを、わしは全く見たことがない。――要は、信頼できるか否か、で判断しているんだろうね」
と言うと、にやにやと笑ったまま煙管のケムリをふーっと、チャグムに吹きかけた。
外に出て、チャグムがに声をかけようとした寸前、が気配を感じ取ったのか腰にさしてある剣の柄に手を当てながらこちらを振り向いた。金縛りの事を思い出して、チャグムは慌てて視線を斜め上へと向ける。が、何をそんなに脅える必要があるのだと、チャグムは視線をへ戻した。
その動きを察したのか、がはっと息を呑む。剣の柄からばっと手を離した後、気まずそうに指先でほっぺたを掻き、何事かを呟いた。しかしチャグムは彼女が何を言ってるのかわからずやや首をかしげて見せると、はぴくりと反応してから急いだ様子で襟を引っ張って下ろした。
「トロガイ氏に術を施してもらいましたから、目があったとしても、お昼のときみたいな事にはならないと思います」
言いはじめのあたりは緊張しているようだったが、いい終わるあたりからは物悲しさが混じりはじめた気がした。チャグムがゆっくり、そろそろとのほうへ近づくと、がぴくりと震えて後ずさりするので、チャグムは足を止めた。が申し訳なさそうに苦笑する。
「とはいっても、やっぱり危険です。あまり近寄らないほうが、身のためかと」
言い終わってから、考え込むような素振りをして。
「何か御用でしょうか?」
そう聞いてきた。特に大して用事もない――しいて言うならただの目に興味を持った、等とは絶対に言えないチャグムは、あちらこちらを見回しながら、えーと…と口篭る。それを布越しに見ていたは小さくくすりと笑みをこぼした。その笑い方はまるで、チャグムの母親のような、一般人がするとは思えないような上品な笑い方である。もしや、それなりに身分が高いのではないのかとチャグムは考えるが、あまり詮索はしないほうがいいだろうとその考えを思考から追い払った。
チャグムの答えを待っているらしくまっすぐにこっちを見てくるにやや引け目を感じながら、チャグムは視線を斜め下にそらしたあと。
「特に、ないけど…」
呟いた。相手の様子を伺うように視線をへ戻す。意外にも口元が笑っていた。
「そうですか」
言っては田んぼに視線を戻してから、小さくため息を吐いて、またチャグムのほうに視線を戻す。
「そういえば先程、トロガイさまとお話しているのが聞こえましたが――」
ぎくりと、チャグムの顔が強張る。その顔がおかしかったのか、またくすりと笑ってから。
「目が“こう”なので、その分聴覚が発達したみたいだと、トロガイさまが仰ってました」
一瞬意味がわからず呆然としていたチャグムだったが、ややあって意味を理解すると同時に妙な焦りを感じてしまう。チャグムは耳をすましてみるが、家の中の声など微塵も聞こえはしない。
「……そこにいて、おれとトロガイ氏の声が聞こえたのか?」
「はい。地獄耳ですから」
ふふ、と口元に手を当ててさも可笑しそうに笑う姿には、なんともいえない可愛さがあった。
「わたしの目に興味がおありですか?」
ストレートに聞かれてしまい、チャグムはうろたえるように視線を泳がせてから申し訳なさそうに頷いた。だがは嫌そうな顔をせず、やっぱり上品に笑ってみせる。
「特異に興味を持つのは人として当然の事ですから、そんなに気にしないでください」
もしかしなくても気遣われているのではないかと思うと、チャグムの気は沈んだ。チャグムが恐る恐るの顔色を伺うと、はきょとんといった風な感じで首をかしげる。気遣われている以前に、自身が自分の目をそんなに気にしていないのだろうか……なんて考えてしまったが、絶対にそれはないだろう。
何を話せばいいのか、暫く無言のままチャグムが考え込んでいると、がやわらかく苦笑した。
「何か聞きたいことがありましたら気にせず言ってください。こういうの、慣れてますから」
そう言われると逆に申し訳なくなって聞きづらくなってしまう。なんだか自分の単なる幼稚な好奇心がを傷つけてはいるのではないかと思えてきて、チャグムは眉を下げてごめんと小さく謝った。するとはぽかんと口を開けて、暫くしてから気まずそうにほっぺたを掻いた。
「えと、そういう意味としてとらなくても…。本当に慣れてますから」
チャグムはうーと少しだけ唸ってから、申し訳なさそうに口を開いた。
「その、目隠ししてても、見えるのか?」
は目を覆っている布に手を当てながら、こくりと頷いた。
「トロガイさまの術がかかってるんです。この白い糸で刺繍された目が、わたしの目の神経と繋がるように、って。――とはいっても、ぼんやりとしか、見えませんけど」
そうなのか、とチャグムは呟いたあと。少しだけ首をかしげて。
「目隠しを取っても、見えるのか?」
がはっと息を呑むので、チャグムは聞いてはいけなかったんじゃないかと心配になったが、がゆるゆると苦笑するので、チャグムはほっと息をついた。
「はい。何なら、目隠しを取って見せましょうか?」
「えっ!?」
昼の事を思い出してチャグムが何度も瞬きを繰り返すのを、くすくす笑いながらが見ている。そこではじめて、チャグムはからかわれたのだとわかった。だがチャグム自身、嫌な気はまったくしないのが不思議でたまらなかった。多分の穏和で丁寧な喋り方がそう思わさせるんだろう。
ふとチャグムは、目隠しを取ったが笑う姿を見てみたくなった。
「…目隠し、取ってくれるのか?」
本当に取ってくれるのではないかと期待を込めつつチャグムが聞いてみると、今度はが驚く番だった。まるでさっきの仕返しと言わんばかりのチャグムに、がやや戸惑った様子を見せる。どうやらからかうのは慣れているらしいが、逆の立場になる事は滅多にないらしく慣れていないようだ。
「え、えと。いや、あの…それは無理です」
「どうして?」
すると、はうーっと口篭ってから。
「トロガイさまが死人の目だと言っていました。だから、見てもいい気はしないと思います」
「おれは死人の目なんて見たことないから、違う風に見えるかもしれない」
チャグムが自信満々に言うと、がう、と言葉に詰まった。田んぼの水面に視線を移すので、チャグムはゆっくりに近寄る。意外にもが後ずさることはなかった。じーっと見つめてくるチャグムの視線に耐え切れなかったのか、が眉を下げて小さく息を吐いた。
「あの、その。お願いがあるんですが…」
「なに?」
がチャグムを見る。
「思っても、気持ち悪いとは、言わないで欲しいです。……気持ち悪いと思ったときは、死人の目だと言ってください」
震える声で言われて、チャグムはややあってからゆっくり頷いた。それを見てから、意を決したように下唇をかんで、が首の後ろへと両手を回した。下を向いて結び目を解いて、ゆっくりと目隠しを外す。それを両手で折りたたんで、ゆっくりとした動作で顔を上げた。
眼球の白い縁どりが灰褐色に濁っていた。黒い瞳孔は暗い泥沼のようなにび色に光っている。月の光が瞳の中に差し込んでいても、それが生きているとは思えないほど、本当にどんよりとしている。まるで冬の曇り空みたいだ。
じーっと見ているチャグムと、無言の空気に耐えられなかったのか、が目を伏せがちにしてやや俯いた。するとチャグムは慌ててと視線を合わせるように身をかがめる。は目を見開いてから、うーっと唸って視線をそらした。
「あ、あんまり見ても、気味悪くなるだけですよ…?」
ぼそぼそと呟くに対し、チャグムはふるふると首を振った。
「おれは別にそうは思わないけど」
がぴくりと震えてから瞬きしてチャグムを見る。青みがかった瞳孔がチャグムを映している。
それを素直に、黒真珠みたいに綺麗だなあと思ったのは事実。
「そうだなあ…しいていうなら」
「えっ…?」
の身体が少しだけ強張る。
「銀色で綺麗だなと、おれは思う」
言うと、が目を見開く。しばらくチャグムがじーっと見ていると、が慌てた様子で首ごと視線をそらした。下げていた襟を元に戻すのでチャグムが首をかしげると、が申し訳なさそうに俯いた。じわじわ、といった感じで、の頬が赤くなっていく。
「すみません。もう見ないでください…」
「え…どうして?」
チャグムが聞くと、が目隠しを目に当てながらぽつりと。
「……な、なんていうかその、トロガイさま以外に近くで目を見られたことがないので、その」
はずかしいんです、と消え入りそうに呟くから、チャグムは慌てて一歩分後ずさった。確かに近かった気がしないでもないような、と思うと、チャグムは妙な気恥ずかしさにとらわれた。が後頭部で結び目を作り、チャグムにぺこりと頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。本当に、すみません」
言って、小走りで家の中に戻っていった。
夜が明けて翌日。朝食の時間だというのに、トロガイとは昨日と同じく部屋の隅で向かい合って座っていた。どうやらまた目を診ているらしい。チャグムがぼーっとそれを見ているとバルサに肩をつつかれ、チャグムは慌てて視線を囲炉裏のほうへ戻すが、耳は二人の会話へとかたむけたままだった。
「、おまえ、昨日何をしたんだ?」
トロガイの言葉に、がびくりと身を強張らせる。
「と、特に何も、してないですけど…」
「そうかい?」
ふん、と鼻で息をしながらトロガイがの目に手を伸ばす。瞼の肉を押し上げて眼球をじろじろ見た後、が気まずそうにぼそっと呟いた。
「そういえば、チャグムさんに、目を見せました」
自分の話題が出た事に口から心臓が飛び出そうになるほど驚いたが、チャグムはなんとか平静を装ってみせた。碗に口をつけて汁をすする。
「うーん、…まさかねぇ、それはないだろうが…でもなぁ」
「?」
トロガイがぶつくさと呟くので、が何事かと首をかしげる。不安そうに眉を寄せるに、トロガイはやや苦笑した。それから、ぎょろりとした目を天井へ向けて。
「皇族を見たら目が潰れる、か…」
などと呟いたので、チャグムは驚きを隠すことなくトロガイのほうを振り返った。タンダとバルサもそれが気になったようで、揃ってトロガイのほうを見る。するとトロガイがさも嫌そうに顔をしかめてみせた。
「なんだい、そろいもそろってこっちを見て。気色悪い」
はあと盛大にため息を吐いて、顔の前で虫を払うようにばたばたと手を振るので、タンダとバルサは苦笑してトロガイから視線を戻した。しかしチャグムだけが、トロガイをじーっと見たままだ。
「トロガイ氏、どうかしたのか?」
チャグムが聞くと、トロガイがに目隠しの布を渡す。それから重たそうに腰を持ち上げて、囲炉裏のほうへとやってきた。ゆっくりと、タンダの傍に座り込む。
「…いや、の目が少しよくなっただけだ」
えっ、とタンダが大声を上げた。それを不快に思ったのかトロガイが眉をひそめてタンダを見る。だがタンダは大して気にしてはいないようだった。
「よくなった? あの状態で?」
「ああ。不思議なもんだねぇ」
呟くと、が囲炉裏の傍にやってきて、昨日と同じくバルサの傍に座り込んだ。チャグムがちらりとそれを見ると、視線に気づいたのかがそれを見て、慌てて視線をそらす。意図的なその仕草に、チャグムは知らず眉を寄せた。
「思うに」
トロガイがぽつりと呟くので、皆の視線がトロガイに集中する。
「の“悪いほうの目”を、チャグムが“潰した”んじゃあないか?」
ぱちくりと、トロガイ以外が瞬きをする。
「ありえるんですか、それは?」
タンダが苦笑交じりに、汁物の入った碗を渡しながら呟くので、トロガイはそれを受け取りながら不満そうに息を吐いた。
「知らん。予測にしかすぎんからな」
チャグムがきょとんとした顔をしてから、を見る。はタンダから碗を受け取って、それに口をつけていた。の喉が少しだけ動いて、口元が緩む。なんというか、美味しそうに食べる子だなあと思いながら、チャグムはトロガイに視線を戻した。
「トロガイ氏」
「なんだい」
「おれがと目をあわせると、の目は治るのか?」
なんか自分でも変なことを言っているなあと思いながらも、抱いた期待は捨てられなかった。が軽くむせていたが、それよりもトロガイの言葉のほうが重要だった。
「まあやってみないとわからん」
「そうかぁ…」
呟いて、チャグムがを見る。するとははねるようにチャグムから視線をそらした。
チャグムとの間に挟まれたバルサは、なんなんだろうねこりゃ、と苦笑交じりに二人を見比べていた。
2007/09/10