ファビアンが数年ぶりに見た夢の中にでてきたのは、もう疎遠になってしまった父親の姿だった。胸のあたりで腕を組み、中年太りによる出っ張った腹を強調させるように仁王立ちする父親の顔は、何かを堪えているように不満げだった。おおよそ、「家督を継げ」とでも言うつもりなのだろう。
冗談じゃない。それが嫌だから、軍に入ったのだ。無意識に噛み締めた奥歯がギリっと音をたてたあと、ファビアンは横たえていた身体を起こした。胃の中がむかむかしてしょうがない。口元を押さえながら、暗闇の中手探りで手に取った携帯を開き、青く光る液晶を見つめた。午前3時だ。朝にはまだ早すぎる。
とりあえずむかむかする胃をどうにかするため、ベッドから降りて冷蔵庫に向かいドアを開けて中を覗き込んだが、ドアポケットに目当てのものはなかった。洗面台に目をやったが、水道水などまずくて飲めるわけがない。
軍の施設内で水を買うにも、今の時間帯は購買など開いてはいない。となると、少々高くなるが自販機で買うしかない。幸いにもこの階には、階段の側にある談話スペースに自販機がある。そこはファビアンの部屋からさして遠くはない。水を買って部屋に戻ってくるのも、走ればそんなに時間はかからないだろう。
ファビアンは無言で冷蔵庫のドアを閉め、軍服のポケットから財布を取り出し、静かにドアを開け廊下に出た。夜間は人が出歩くことが少ないので、どこの廊下もたいてい電気が落とされている。けれども足元を視認できるくらいの明るさを放つランプはついているのだ。それを頼りに階段の方まで進むと、自販機の明かりが見えてきた。
「ふざけないでよ!」
いきなり、劈くような怒声があたりに響いて、ファビアンは身を竦めた。何事かとあたりを見回すが、人影らしい人影は見当たらない。
「何でそんな事簡単に決めちゃうの! 私の意思はどうなるのよ!」
もしかして、とファビアンは恐る恐る階段の方に近づいた。案の定、踊り場に誰かが立っている。ファビアンの方に背中を向けているので誰かはわからないが、どうにも聞き覚えのある声だ。ファビアンが必死に思案を巡らせている最中、踊り場の人影は真夜中だというのに所構わず身振り手振りを加えて叫んでいる。左手を耳元に持ってきているので、多分誰かと電話中なのだろう。
「冗談じゃない! そんなの絶対お断り…」
叫び声がどんどん尻すぼみになっていく。
「…そんなに危ないの?」
伺うような声のあと、人影はうーんと唸って。
「ああもう、わかったから! だから泣かないでよー…」
気が抜けたように盛大に溜息を吐いて、二言三言空返事のあと、人影は電話を切って右手で顔を覆った。そしていきなり左腕を振り上げ、携帯電話を床に投げつけようとして、寸前でピタッとやめた。不安を払拭するように何度か首を振って、階段のほうに視線を向け、ファビアンを視界にとらえるとあからさまに嫌そうな顔をして見せる。
「ファットマン…」
「ファスト、マンだ!」
細身のファビアンにとって本名の“ファットマン”は禁句だ。ファビアンが言いなおすが、人影はさして気にした様子はない。
「いつから聞いてた?」
「…ほんのさっきから」
言いながらファビアンはばつが悪そうに目をそらし、「悪ぃ」と小さくつぶやいた。人影――はファビアンの姿をじっと見つめたあと、視線を手元の携帯に落として足を踏み出した。
「あのさ、ファビアンのお父さんて――」
お父さん、という言葉にファビアンは嫌悪感をあからさまに顔に出した。
「言うな。その話は絶対するな」
「――左様ですか」
ふーと肩をすくめて、が階段を登り切り、そのままファビアンの傍を横切り、上の階に行こうとする。
「おい、どこ行くんだよ」
「仕事」
振り向かずにひらひらと手を振ってくる。なるほどよく見れば彼女はまだ作業着のままだ。整備班に所属しているの事だ、大方整備に納得がいかずに一人で何かゴチャゴチャやっているのだろう。ならば邪魔するのはよしたほうがいい。
「そか。じゃあお休み「あ、やっぱ待って!」
ファビアンの口から、ええええええ、と気の抜けたような声が漏れた。振り返ってを見上げれば、階段の手すりに寄りかかり、こちらに身を乗り出して、何やら必死そうな面持ちをしていた。
「ちょっと聞きたい事があるんだけど、時間いい?」
「…というわけでして」
階段の二段目に二人にして並んで腰かけたあと、そうが言い終ると、辺りがシンと静まり返った。ファビアンはさもつまらなさそうな顔での浮かない顔を見たあと、一つ息を吐いて足下を見下ろした。
の相談事を大筋で言うなら、“父親の経営する会社がつぶれそうなので、ある会社の息子さんと結婚してほしいと父親に頼まれた”との事だ。所謂政略結婚というやつだが、何故が浮かない顔をしているかというと、その結婚相手の男の年齢がより20も上なのだ。これがまだ格好いい人なら救いはあるが、ファビアンはその当人を知っていた。以前実家のパーティーで会ったことがあるが、その人はさえない顔をしていて、中年にありがちなメタボリック体系で、自分の父親と同列だった。
「難しいな」
正直なところ「自分の好きにすりゃいいんじゃねえの?」と言いたかったが、の父親が経営している会社は一流アパレルメーカーで、の家は一応富豪の部類に入るくらいだ。ここで無責任な発言をすれば一つの服飾ブランドが潰れるという事だ。そんな事は許されない。ファビアンはの立場を自分に置き換えることでどうにかその言葉を絞り出した。
「…ですよねえ」
「で、お前んとこの会社はどんくらいやばいんだ?」
「詳しい事は聞いてないけど…しいていうなら株価が去年の三分の二に」
がはぁ、と盛大に溜息をついた。
「…ファビアンは今までそういう話は来たことないの?」
「あるに決まってんだろ」
「え!? それでどうしたの?」
「全部蹴った」
がぽかんとした顔でファビアンを凝視した後、ふっと微笑を浮かべた。
「うん、そっかー。それで正解だと思うよ。相手の幸せのためにね」
「そっちかよ!」
2009/04/16