「姉さん、その、相談があるんだけど…」
世界が平和になった、うららかなある日の午後、光風館の庭にて姉弟揃って久しぶりに紅茶を嗜んでいる最中、クララクランは実弟におずおずと話を持ち出された。
「ん? どうかしたの?」
いかにも高そうなティーカップをことりと置いて、クララクランは女神ばりの美しい笑顔を浮かべた。
「その…のことなんだけれど」
という言葉に、クララクランは瞬時になじみの顔を思い浮かべた。傭兵としてカリスやクララクラン達と共闘し、キリヤが唯一心剣を引き抜く事ができなかった少女だ。何を考えているかわからない、不思議な空気をまとっている。のだが、しかし実際のところ極度の人見知りというだけで打ち解けてみればころころ表情は変わるわ何もないところで転ぶわと、ちょっと抜けているところを見せてくれるので、クララクランは彼女にこれでもかというくらい母性本能をくすぐられた。まあ要は愛らしい少女なのだ。できれば妹にしてしまいたいとクララクランが思ってしまうくらいに。
昨日だったか一昨日だったかに、『りんごだ!』と叫びながらりんごの木に登りだしたせいで、心配したシーナがぐるぐるとその木の周りを回っていたのを思い出す。そのときは木を降りる際に小枝で頬に切り傷を作ってしまったが特に気にせず、わざわざ自分に『王女様、りんご、あげます』と言ってにこーっと笑い赤いりんごを差し出してきたあの愛くるしさは言葉にあらわす事など到底できない。いやできるわけがない。
ふと、よだれが口の端からこぼれそうになって、いけない、とクララクランは悦楽に満ちてだらしない表情を、いつもどおりの王女然とした凛々しい顔へと変えた。一瞬の変化だった。
「がどうかしましたか?」
「…これから先、も、傭兵として、どこかに行ってしまうのかなって」
その言葉にクララクランははっとした。
もう、戦いは終わってしまったのだ。彼女を雇ったのは、戦いに役立つだろうという理由なのだからもう依頼は完了している。となれば彼女がここにいる必要など微塵もない。明日明後日にでもここを出て行ってしまうかもしれない。
「…そう、ですね」
キリヤもクレハたちとともにエルデに帰ってしまうと聞いた。一緒に戦った仲間たちがあるべき場所に帰っていく。その事を想像すると少し、寂しくなる。
「姉さん、あの、もしも、もしもだよ?」
「はい」
俯いていた顔を上げてをカリス見れば、頬を染めて俯きがちになっている。いくら病が治ったといえ、俯きがちになっている事などカリスには決してないことだ。具合が悪いのではないかと心配になってきたころ、カリスがぽつりと呟いた。
「を、側近としておきたい、って言ったら、姉さんはどう思う?」
「…と、いうわけなのです」
早朝、クララクランにおはようの挨拶のあと、つらつらとカリスのことについて喋られ、寝起きでまだ覚醒しきってないキリヤは、とりあえずうーんと唸って頭を抱えた。
「えーと、何故、それを俺に?」
とりあえずこの王女様は暗に手伝って欲しいと言っている気がして、キリヤは少しばかり身震いをした。キリヤはあまりの事を好いていない。というか、根本的に苦手なのだ。理由はよくわからない。だが心剣を引き抜く事ができなかった事は全く関係していないと自信を持って言える。
「他に相談できる方は、キリヤ殿しかいないと…」
「そ、うか…」
不安そうに見てくるクララクランの横で、これまた彼女にそっくりな顔立ちのカリスが同じように見上げてくる。無性に頭が痛くなった。
しかしまあ、とキリヤは思う。14歳とはいえど結構やんちゃなカリスのことだから、まだ異性については興味ないと思っていたのに。王子といえどやはり人の子なのだろう。なんだかほほえましい。
「かあ…。なんか、難しそうだけどな」
は何処にもとらわれることなく、飄々と流れるように生きてるような感じがする。根本的に、縛り付けられるのが嫌いなのだろう。よく言えば自由奔放、悪く言えば自分勝手だが。
「…てゆーか」
そもそも何故、自分に相談する必要があるというのか。
「本人に言っちまえばいいだろ?」
「それができたら相談なんかしてないよ…」
しゅん、とうなだれるカリス。確かにそうだなあ、とキリヤは一人納得してから、はて?と疑問に思った。カリスとは普通に、というか結構、仲がいい。謎の病に侵され城の中で療養生活を送っていたカリスが元気になり、城から出て初めてできた同年代の友達がだったということもあってか、が釣りに出かければカリスもついてくし、カリスが本を読むために書庫に行けばもついていく。楽しそうに話している2人を見ているとキリヤは身分の差なんてものは些細な事なんだと思えてしまう。まあそのくらい仲がいいということだ。
となれば『城に来て側近になってほしい』と普段どおりの流れで言えそうなものだが。いや、むしろ断られるのが怖くて言い渋っているとか? ――カリスに限って、それはないだろう。カリスはそういうのを気にする性質ではない。では何故に。
もんもんと考え込んでいると、後方から小さな足音が聞こえた。カリスの顔を見ればこれでもかと目を見開いている。そんな彼とは対照的にクララクランはぱあっとまわりに花を散らせて喜びの表情をしているので、キリヤは何事かと後ろを振り返ると。
がいた。
俯いてとぼとぼとこっちに歩いてくる。キリヤは内心『なんてタイミングだ!』と叫んで心の中でガッツポーズを決めた。
「おはよう」
とりあえずキリヤが話しかけると、はばっと顔を上げて、前方に人がいることに今気づいたというような、吃驚した顔をしてから、ぎこちなく、ほんの少しだけ笑った。
「キリヤ、おはよう」
そして、キリヤの奥に立つクララクランを見て、今よりも嬉しそうに目を細めた。
「あ、王女様もおは…」
ぴきり、と音がするような形でが固まる。の視線の先は、紛れもなくカリスだ。何事かとキリヤがカリスを見れば、カリスは困ったような、おびえたような顔をしている。振り返ってを見れば、下から上へ這い上がるように、顔が赤くなっていく。
ぼふん。煙が吹き出た。
「うわっ、わあああーっ!!」
叫びながらはばたばたと足音をたてて、キリヤたちとは逆方向へ猛スピードで引き返していった。まるで嵐のあとの静けさのような、それでいてものすごい気まずい空気が3人を包む。キリヤが恐る恐るカリスを見れば悲しそうに俯いており、姉のクララクランはふう、と小さく溜息を吐いていた。
結局朝食の時間になっても、は姿を現さなかった。10時のおやつの時間になっても、やっぱりは顔を見せなかった。心配したクララクランが館内での姿を探し回ったが、の部屋に彼女が使うナイフが置かれていなかったので、必然的に彼女は出かけたのだという答にいたった。
いつもなら『狩りに出かけたのなら夕方には戻ってくるだろう』と笑い飛ばすのだが、朝の出来事もあって、キリヤはを探しに出た。…クララクランのお願いもあって。
館から出て、とりあえずキリヤは庭を覗き、瞬時に脱力した。なぜなら庭の隅っこにがいたからだ。は芝生に座り込み、何かしら呟いているのかモゴモゴと口を微かに動かしながら、芝生をむしりとっては投げむしりとっては投げ、を繰り返していた。
キリヤはとりあえずのほうに近づいた。は近づいてくるキリヤに気づかないようで、ひたすらぶつぶつと何か呟いている。ここまで近づけば気づきそうなものなのに、とキリヤは小さく溜息をついて、おい、との肩に右手を置いた。
「はうわぁっ!?」
瞬間、はビクっと跳ね上がるように震え、弾かれたように勢いよくキリヤを見上げた。は『心底びっくりした』とでもいったように目をこれでもかと見開いていて、キリヤは慌てての肩から右手を放した。思えば女の子の肩に軽々しく触れることなどあってはならないことだ。もしもエルデでそんな事をしたら『セクハラです!』と叫ばれかねない。
「ご、ごめん」
右手を不自然に宙に浮かせたままキリヤが呟くと、はみるみるうちにいつもの顔に戻った。少しだけ口を開けた、間抜けな顔に。
せわしなくきょときょとと目を瞬かせるを真顔で見下ろしているキリヤは、内心非常に困ったと冷や汗をかいた。キリヤはとろくに言葉を交わしたことがなく、珍しくも話が長続きしたネタはキリヤの身の上話だった。5分程度のものだったが。そもそもを見つけた後どうするかクララクランと話しておけばよかったと後悔を覚える。
気まずそうに口を引き結んだままのキリヤをじーっと見上げていたは、視線を芝生に落とした。
「キリヤ、あの、…カリス様、怒ってた?」
しおらしく言われて、キリヤは目を丸くした。
「怒ってはいなかったけど…寧ろ落ち込んでたような」
朝のカリスの姿を思い浮かべながらキリヤが呟くと、んー、と元気なさそうには呻きながら膝を抱えなおした。自分の膝に額をくっつけて、小さく溜息を吐く。の様子が明らかに尋常ではない気がしたので、キリヤはのとなりに腰を下ろした。
「カリスとなんかあったのか?」
聞けば、ちいさくこくりと頷く。
「喧嘩か?」
ふるふると、弱弱しく首を振って、
「違うの。わたし、あろうことかカリス様に我侭を言ってしまって」
うーと呻いて、はさらに縮こまる。キリヤといえばがカリスに我侭を言った、という事にさらに目を丸くさせていた。
「我侭?」
「うん」
目の前のが我侭を言うなど、まるで想像ができなかった。付き合いもそんなにないから当然といえば当然なのだが、けれどもは我侭をいうような子ではないと直感的にわかるのだ。纏っている雰囲気や言葉遣いのせいなのかもしれないが。そんながカリスに我侭を言った、となれば内容が気になって仕方なくなってくる。
「…なんて言ったんだ?」
「へっ!? …えと…その」
キリヤが聞けば、はびくっと震えて体制を崩し、キリヤの顔を凝視した。それがらトマトのように顔を赤くして膝を抱えなおし、一層身体を小さくさせる。もしかしなくてもは赤面症なのだろうかとキリヤが首をかしげていると。
「これから先、王女様とカリス様は王宮に帰るし、キリヤたちはエルデに行っちゃってみんなと離れ離れになるから、また元の生活に戻るのがなんだか悲しくて、だから」
――ずっと一緒にいれたらいいのになあ。
「って、我侭を…」
瞬間、キリヤはなんだかむずがゆいようなもどかしいようなよくわからない衝動に駆られた。キェエエエと奇声を発しながら頭を掻き毟りたいような、地面を転がりまわって走り出したいような、そんな感じだ。
細々と蚊の鳴くような声で言い終わったは、耳まで赤くしてしまう。それはもう煙を噴出すんじゃないかと思うくらいだ。
「付き合いが長くなると、離れるのが惜しくなるから、ほんとは最後までキリヤたちに付き合うつもりはなかったんです」
消え入りそうな声で言い訳がましいことを呟くを見たあと、キリヤは口元を片手で覆ってあらぬほうへと視線を向けた。
まだ子供だというのに親元から離れて傭兵をやっているのだから、そりゃあ友達と離れるのは寂しい事この上ないのだろう。キリヤだってクララクランやカリス達と離れるのは正直嫌だ。しかし今のは、まるで恋する女の子のようにも見える。
「ええと、つまり」
むずがゆさを堪えつつ、キリヤはぽつりと。
「はカリスのことが好きなのか?」
キリヤ自身恋愛経験はそんなになく、恋愛方面に関してどちらかといえば疎いほうなのでこの発言は当てずっぽうだったのだが、そんな事はなかったようで。
「~~っ!」
がさっと草むらから音がして、近くの木から鳥が飛び立っていく。それとほぼ同じくしてが息を呑んで膝に額を押し付けた。いきなり音がして吃驚したのかとキリヤはそう思ったのだが赤くなった首筋を見てああ、と苦笑した。キリヤはからかいの意味をこめて好きなのか?と言ったのだが、こんなにもあっさり肯定とも取れるような行動をとられてしまうと逆にどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「…あー、うん」
それだけしか言えなかった。気まずさから逃れたい気持ちいっぱいで、あちらそちらに目をやってから先ほど音のした草むらへと目を向ける。
「――だってよ、カリス」
どうにでもなれといった感じで溜息混じりに呟けば、
「っ、キリヤっ!」
がさっと音を立てて、カリスが草むらから飛び出してくる。
「ひええっ!?」
吃驚したのか、前のめりになりつつカリスのほうを見る。
一様の叫び声があたりに木霊する。
沈黙。
「うわあああーっ!」
「こら待て逃げるな」
脱兎のごとく走り出そうとするを追いかけ、首根っこをがしっと掴んで引きずり寄せる。えぐえぐと半泣きに近い状態のが、夜8時ごろにやっている時代劇のドラマの中で「堪忍してっ」と叫ぶ女性とだぶって見えた。そのあとあーれーとこま回しに続くわけだが。
「逃げることはないだろうに」
「だってぇ」
こんな面白そうな…いや違う、仲直りできそうな状況で、をみすみす逃してたまるものか。とずるずるとを引っ張りながらカリスの元へ足をすすめる。
「――で、いつからいたんだ?」
カリスに聞いている傍からが逃げ出そうとするので、が逃げ出さないよう四苦八苦しながら彼の返答を待っていると、カリスはゆでだこのように顔を真っ赤にして、
「…ごめんなさい」
それだけを呟いた。盗み聞き云々をするつもりはなかったんです、といわんばかりにしょんぼりと頭をたれ下げるカリスを見て、キリヤは小さく溜息を吐いたあと、ひどく優しげに目を細めた。
反応から察するに、最初から聞いていたのだろう。を見れば沸騰寸前のヤカンのようにしゅーしゅー湯気を噴出しているし、カリスは耳まで真っ赤だし。微笑ましいったらありゃしない。
「なあカリス、俺、席を外したほうがいいか?」
「へっ、えっ?」
あたふたとするカリスだが、ややあってうーと唸りながらもこくんとしっかり頷いた。それを見届けたキリヤはにこっと笑って、カリスの手にの首根っこをバトンタッチさせる。傍から見れば主人とペットのように見えたがまあそれは置いといて。
キリヤはその場から足を踏み出し、どかどかと進む先には――
…何故か茂みが。
「――、クララクラン」
溜息交じりの声が末恐ろしかったのか、びっくうと茂みが震え、かさかさと葉がこすれあう音を立てる。
「一国の王女ともあろう方が、盗み聞きとはあまりにも不躾ではないでしょうか」
カリスも盗み聞きしていた事は目を瞑るとして、何故姉までもが、と半ば呆れつつ演技めいた事を茂みに聞けば、そおっとクララクランが顔をのぞかせた。
「…えへ」
「えへ、じゃないだろう」
大方シーナにでも教えてもらったのだろう、ちろっと舌を出して悪戯っぽい笑い方をするクララクランは様になっていたが、それでもキリヤには対して効果がなかったようで、キリヤはクララクランの腕を掴んで、茂みから引っ張り出し、クララクランを半ば引っ張るようにして光風館へと戻っていった。
2008/09/07
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