香霖堂の店主、森近霖之助は今日も店に客が来ないのをいいことに、カウンターの奥に座って本を読みふけっていた。先日無縁塚から拾ってきた「外の世界の道具」の鑑定もその日のうちに済ませてしまって、やる事がないので読書をするほかないのだ。傍から見れば暇そうに見えるが、当人はそうでもない。読書に夢中で、他の事が頭に入らなくなっている。 だから、店の奥の部屋から響いた“どごーん”とかいう爆音めいた音に気付くのに、霖之助は10秒ほど費やしてしまった。 「……何だ?」 霖之助は本を閉じ、首だけを後ろに向けて奥の座敷に続く廊下をのぞいた。座敷のほうから何かがバタバタと落ちる音のあと、開け放たれたふすまから廊下へと埃が噴き出し、白煙が立ち込める。 こんな事をするのは、霊夢か魔理沙のどちらかだろう。霖之助は「やれやれ」と呟きながら席を立ち、部屋の奥へ足を進めた。埃を吸わないよう右手で口元を覆って、視界を遮る白煙を左手でバタバタと振り払う。そうしてやっと霖之助の前に姿を現したのは、棚の上に積まれた本がちらばった部屋の中、ひっくりかえった卓袱台の下でぐったり横たわる一人の少女と、そのそばの空間にぽっかり空いた黒い穴から手を伸ばして少女の右足首を掴む八雲紫その人だった。 紫はすぐさま霖之助に気付き、優雅ににこりと笑って見せた。 「……あら」 ふふっと鈴の転がるような笑いをこぼすと、紫は横たわる少女の足首を引っ張り、ずるずると引きずりながら境界に連れ込もうとする。 「待て待て待て、何をしてるんだ」 流石に霖之助が突っ込むと、紫は申し訳なさそうな顔をして見せた。 「ごめんなさいね、部屋を散らかしてしまって。少々やんちゃなのよこの子」 「いや、そうではなくてだな」 何故お前がここにいる? と不安そうな……というかまるで不審者を見るような目つきで見下ろしてくる霖之助の視線など気にした様子なく、紫は話を続ける。 「捌こうとしたら、いきなり悲鳴を上げて逃げ出してしまって。本当にごめんなさいね」 霖之助の思考が停止した。 さばく? 何をさばく? 人をさばく? 裁判の裁く? ずるずると少女を暗闇に連れ込もうとする紫を見つめながら、混乱した頭で状況を整理しようとしていると、ふと唐突に、霖之助は霊夢に聞いたあることを思い出した。 ――八雲紫は、あちら側の人を“食べる”、と。 霖之助は素早く手をのばして少女の左手首を掴み、紫が境界へ連れ込もうとするのを制した。 「人間は食べるものではないだろう、八雲紫」 霖之助が言うと、紫はきょとんとして首をかしげる。 「あら、妖怪にとって人間は貴重な食料よ?」 「それでもだな」 「強者が弱者を捕食するのは自然の理。店主さんもそう思うでしょう?」 「正論だ。しかし僕の目の前にいる人間が死ぬとわかってしまえば、それを止めるしかないだろう」 「それは一個人の視点に過ぎないわ。さ、手を離して頂戴」 「無理だ」 暫らく無言のまま、笑顔で火花を散らす二人だったが、ひと際強く吹いた風が窓ガラスを揺らした瞬間、霖之助はあわてて片手で頭をかばい姿勢を低くした。紫が何事かと目を見開いたその時、窓ガラスに黒い影が映った。 「号外だよー! 文々。新聞号外だよー!」 勢いよく投げ込まれた新聞がガラスを割って部屋の中に飛び込んでくる。ガラスの破片が畳の上に散らばり、いきなりの出来事にぽかんとしている紫の額にすこーんと軽快な音を立てて新聞の角がぶつかり、跳ね上がって畳の上に静かに落ちた。 *** 霧雨魔理沙が香霖堂に入ってまず目に飛び込んできたのは、奥の座敷へと通じる廊下にちょこんと正座している文の姿だった。文は魔理沙に気づかないのか、うーっと辛そうに顔をしかめている。どうやら自ら正座をしているわけではないらしい。魔理沙は霖之助の姿が見当たらないのを不審に思いつつ、乱雑に配置された商品もといガラクタの山をひょいひょいと飛び越えて文の前までやってくると、やっと魔理沙の存在に気づいたらしい文が顔を上げた。非常に情けない顔をしている。 「文、何してんだ?」 魔理沙が話しかければ、文はふにゃっと顔をゆがめた。 「り、霖之助さんたら酷いんですよー。ちょっとした手違いで窓ガラス割っちゃっただけなのに……罰で正座10分……」 「すげー古典的な体罰だな。まあアイツらしいっちゃらしいか」 ふんふんと納得するようにうなずいて、それから訝しげな顔つきになった。 「……ていうか、ちょっとした手違いって、お前なあ……。今まで何枚ガラス割ったか覚えてるか?」 言われた文ははて? と首をかしげて、ひいふうみい、と何かを数え始める。それからうーんと考えこみ。 「お、覚えてません。ははっ」 文が誤魔化すように笑うので、魔理沙は呆れたように肩をすくめて見せた。 「香霖は奥にいるのか?」 「あ、ハイ。でも、紫さんもいらっしゃいますよ」 「はあ? 紫が? なんで?」 魔理沙が素っ頓狂な声を上げる。 「なんでも、紫さんが“あちら側”から人を連れてきたらしくて、手違いでこのお店に逃がしちゃったらしいです。で、二人とも今一悶着起こしてますよ」 紫が異界から人を連れてくることはさして珍しいことではない。紫は妖怪も人間も捕食するし、あっちの世界じゃ神隠しの原因ともなっている妖怪だ。しかし、紫ほどの妖怪が、捉えた人間を逃がすというヘマをするなんて考えられない。しかも、わざわざ香霖堂に境界からの抜け道を作って、だ。 「なんか変だな」 「ですよねえー」 文も気になるのか相槌を打って、背後の座敷を振り返った。話声が洩れないようにふすまはきっちり閉められているが、かすかに二人の声が聞こえてくる。 魔理沙は右手を後頭部に持っていき、わしゃわしゃと頭をかき始めた。 「……ちょっと見てくる」 「ハイ。気をつけて下さいね」 ぱたぱたと小走りで廊下を進み、奥の部屋のふすまを開くと、囲炉裏を挟んで向き合うように座って静かに口論している霖之助と紫がいた。紫のそばには、魔理沙にとって見慣れない少女が横たわっていた。気絶しているのかぴくりとも動かない。どうやらこの子が件の子らしい。 「あら魔理沙」 先に気づいた紫が声を上げると、魔理沙は苦笑しながら囲炉裏の傍に寄った。 「なんだ魔理沙か」 今更気付いたように霖之助がつぶやく。 「おい香霖、この状況を打破する救世主さまに向かって「なんだ」はないだろ、「なんだ」は」 呆れたように魔理沙が言えば、霖之助が鼻で笑った。 「君のどこが救世主さまなんだい?」 「私からにじみ出るこの崇高なオーラがわからないのか?」 「全くわからないね。大体オーラなんていうものは科学的根拠が……」 まーたうんちくが始まった、と魔理沙がげんなりすると、一人蚊帳の外だった紫が微笑ましいと言わんばかりににんまりと口元を緩めた。 「……で、なんでこうなったんだ?」 霖之助のうんちくを聞いていたら日が暮れてしまうので、霖之助をほっといて魔理沙が紫に聞けば、紫は微かに肩をすくめた。 「ちょっとした手違いで逃げられたのよ」 「ふうん……。逃げられたねえ。その子は何のつもりで連れてきたんだ?」 「食べるために決まってるじゃない」 こうも清々しく答えられると返答に困る。まあ人間の価値観と妖怪の価値観の差異はかなりのものだし、妖怪にとってはそれが当たり前なので仕方ないと魔理沙は割り切ったものの、紫の傍で気を失っている少女をちらりと盗み見て、彼女がこれから紫に食われるのかと想像すると妙な嫌悪感がじわじわと立ち昇ってきた。 このまま紫を返してやればこの子は死ぬだろう。紫を説得し彼女を生かしてもらうのが最良だと魔理沙は思うが、紫は変なところで意地悪で天の邪鬼気質なのだ。紫がそう簡単にこの子を元の世界に戻してやるとは考えにくい。 カランカラン。香霖堂のドアにつけられたベルが鳴り響く。来客だ。 「霖之助さん、いるー?」 霊夢だ。のんびりとしたその声から、大した用事はなくただお茶を飲みに来たという事がが伺い取れる。霊夢が香霖堂で商品を買わずに、茶を飲み煎餅を貪りに来るのはさして珍しいことではない。いつもなら霖之助は黙って霊夢に茶を出してやるところだが、あいにく今は取込み中だ。けれど、紫と親しい間柄の霊夢なら、この状況を何とかしてくれるだろう。そう霖之助が思った矢先、紫が華麗な動作ですっと立ち上がった。 「おい、どこに行くんだ」 魔理沙が咄嗟に話しかけるが、もう遅い。紫の傍に隙間がぽっかり浮かんでいる。隙間の中に浮かぶ無数の目がきょろきょろとせわしなく動き、一斉に魔理沙と霖之助を見た。薄気味悪さに、二人がややたじろぐ。 「霊夢が来るとややこしくなるから、私は退散させてもらうわ」 紫の半身が暗闇に飲み込まれる。 「おいおいちょっと待てって。この子はどうすんだよ!」 呆気に取られる霖之助の心境を代弁すべく、慌ててまくし立てる魔理沙に紫はニコッと笑い、横たわる少女を見下ろし何か考え込んだあと。 「よろしくね」 語尾に音符でもつけそうな勢いで清々しく言い放つと、隙間に飲み込まれていった。と同時にパタパタと小走りで霊夢が座敷に飛び込んでくる。 「あら? 紫の気配がしたんだけど」 「もう帰っちまったぜ……」 魔理沙がため息交じりに肩をすくめて見せる。霊夢は興味なさそうに「ふうん」と頷き部屋中に視線を巡らせ、床に横たわる見慣れない少女に目をとめ、「えっ」と小さく驚いた。 「何、この子」 「八雲紫が連れてきたんだよ」 疲れた様子で霖之助が答えると、霊夢がきょとんとした。 「紫が? 何でまた」 「食うためだろ」 「じゃあほっとけばいいじゃない」 霊夢があっけからんと言うので、魔理沙がげんなりした様子になる。 「人の生死が関わるってのに、随分アッサリしてるなオイ。妖怪に入れ込み過ぎて、とうとう妖怪の肩を持つようになったのか?」 「あら? 私はいつでも人間の見方よ」 「じゃあ何で」 魔理沙が聞けば、霊夢は首をかしげた。 「何で、はこっちのセリフよ」 霊夢の言葉は、さも自分が正常で、魔理沙は異常だというような物言いだ。魔理沙がムッとして反論しようとするが、それを遮るように霊夢が言葉を続ける。 「だってこの子、人間じゃないもの」 無言になった。 怪訝そうな眼差しが霊夢に集中する。 「な……何よ。私変なこと言った?」 「……いや、霊夢が言うんだから彼女は人間ではないのだろう。しかしだな」 「にわかにゃ信じられねえよ……」 霖之助と魔理沙は改めて気絶している少女を見た。どこからどう見ても人間である。しかし、いくら修行不足とはいえ霊夢は現役の巫女だ。そういう事に関しては、魔理沙や霖之助よりも鋭いのだ。 どう判断したらいいのかと唸っている二人を見て、霊夢は何かひらめいたようにぱあっと顔を明るくしてぽんと手をたたいた。 「文に見てもらえばいいじゃない!」 廊下がぎしりときしんだ。いきなり自分の名前が出て文が戸惑ったようだ。 「同族は同族を見抜くか。……そうだな、そうしてもらおう」 人間は妖怪と人間を見分けることはできないが、妖怪ならそれを見分けることができる。これなら白黒はっきりつくだろうと頷きながら霖之助が立ち上がり、文を呼ぶために廊下に出た。 「まあもっとも、文も同じような意見だと思うけどね」 その後姿を見ながら、霊夢がぽつんとつぶやいた。 *** 「うーん、妖怪か人間かと言われれば、判断しにくいですねー」 床に横たわる少女の傍に座り込み、延々と時間をかけて考え込んだ後、文は困ったようにそう言った。 「でも人間じゃないでしょう?」 卓袱台の中央、木製の器に盛られた海苔せんべいに手を伸ばしながら、霊夢が問い返せば、文が静かにうなずいた。 「ハイ。人間とは違います。でも、半人でも幽霊でもないですよ」 そうして文は立膝になって卓袱台の方へ移動し魔理沙の横に座って、目の前にある湯呑を持ち、お茶をすすり始めた。 「しかしすごいな霊夢。流石巫女というべきか」 霖之助が感嘆するが、霊夢は相変わらずすまし顔で煎餅を食べている。 「当たり前でしょう。私を誰だと思ってるの」 霊夢がずーっとお茶をすする姿には、なかなかどうして貫禄があった。 「いやー、私にはぜんっぜんわからなかったぜ! なあ霊夢、その能力で儲かる職に転職したらどうだ?」 「何よそれ面白い冗談ね。私にケンカ売ってるの?」 うふふあはは、なんて笑いながら霊夢と魔理沙が火花を散らすので、文が慌てて仲裁に入ろうとするが霖之助が静かに止めた。この二人の事だ、話題を振ればコロッと静まるだろう。 「ところで霊夢」 霖之助が話を振れば、火花が一瞬にして消えた。思った通りだ。 「あの妖怪少女はどうしてこの子をここに連れてきたと思う?」 霊夢はこの面子の中では紫に一番近しい間柄と言える。だからこそ、紫の思考回路も少しは理解しているのではないかと霖之助は思ったのだが、霊夢は「わからない」と静かに首を振った。 「とりあえず、紫が意図的に彼女を連れてきたのだとは思うけれど……」 霊夢はちらりと少女を見て、 「その理由がまったく想像できないのよね。捕食するなら連れて帰ればいいのに」 「いやいやそれはダメだぜ。アイツがこの子を食うのかと思うと気分が悪くて仕方ない」 「バカねえ。いちいち想像しなきゃいいのよ」 「魔法使いから想像力を取ったら何も残らないぜ……」 霊夢でも理由はわからない。となれば。 「うーん、この子が人間か妖怪か、ってとこが関係してるみたいですね」 文がつぶやく。 「だなあ……」 4人の視線が一気に少女に集まった。 「変化の術とかを使って、人間に化けているという線はないだろうか」 霖之助がまじめくさったように言えば、 「無理無理! そんなんだったら私にもわかるぜ!」 魔理沙が右手をパタパタと振って、ありえないと意思表示した。 「そうですよー。霊夢さんはもちろん、私にもわかります」 文がすかさず追撃し、霖之助の意見は撃沈した。 「ていうかね、そういう問題じゃないのよ」 霊夢が煎餅をばりぼりと貪りながらつぶやく。 「根本的におかしいのよこの子。なんていうか、ぐにゃーっとしてるっていうか……、ねえ、文もわかるでしょ?」 「ハイ。なんと言いますかかこう、ふにゃーっとして、ほにゃーっとして、ぶっちゃけますとあやふやですよね」 「あやふやか。言い得て妙ね」 うんうんと頷く霊夢と文。その会話の意味がわからなかった魔理沙と霖之助が首をかしげた。 「この子のどこがぐにゃーっとしてるんだい?」 「どっからどう見ても普通だぜ……」 少女のあやふやをこの目で確かめたいのか、魔理沙が目を細めて少女を凝視する。 「うーん、これは私の憶測だけど、身体から魂が剥がれかかってるのよね。もしくはその逆」 霊夢が呟けば、魔理沙は少女から霊夢に視線を移した。 「半霊ってことか?」 「違う違う。なんていうか、魂が肉体に出たり入ったりを繰り返していて、それでぐにゃぐにゃして見えるのよ」 「魂というと、霊魂ということかい?」 「そう。でも人間とも妖怪とも思えないくらい霊魂がすごーく薄いの。なんなのかしらねこの子」 言い終ると、霊夢が茶をすすって少女をちらりと盗み見る。 よくよく見れば少女の顔は青白い。気絶しているせいもあるだろうが、呼吸するための胸元が上下していなければ死人と間違えられてもおかしくはない。 「で、霖之助さんはこの子をどうするつもり?」 「どうするつもりも何も、看病してやるしかないだろう」 にやり、と霊夢が笑った。まるでとても良い悪だくみを思いついたかのような顔だ。 「その看病、私に任せるってのはどう?」 「霊夢にか」 「うんうん。霖之助さん、看病するのとか得意じゃないでしょう」 「その申し出は有り難いが……――どうせ見返りを要求するつもりだろう?」 不満そうに霖之助がジッと霊夢を見つめる。けれど霊夢はこんな事でへこたれるほど軟弱な神経は持ち合わせてはいなかった。 「あったりー。この前、破れた服直してもらったでしょ? その代金チャラにしてよ」 まるで拒否権など最初から存在していない物言いに、霖之助は仕方がないとため息交じりに小さく頷いて、霊夢の申し出を了承した。 その後皆で夕食として鍋を囲み、霊夢だけ香霖堂に泊まることにして、文と魔理沙は家に帰って行った。 夜分になっても少女は起きず、おまけに熱を出したので、余った部屋に布団を敷き少女をそこに寝かせ、霊夢はその部屋で寝泊りし、霖之助は申し訳ないと思いながらも自室で夜を明かした。 次の日の朝になっても、少女の熱は下がらなかった。 「あの子、映姫に会わせてみたらどう?」 円卓に霖之助と向かい合わせに座っている霊夢が、茶碗にご飯をよそいながら、ぽろっとそんな言葉を口にした。対する霖之助は瞬きを繰り返し、首をかしげた。四季映姫など、聞いた事のない名前だからだ。 「誰だいそれは」 霊夢が茶碗を差し出してくるので、霖之助はそれを受け取りながら聞いてみる。 「四季映姫。閻魔よ。何でもかんでも白黒をきっちりつけてくれるの」 「はあ」 霖之助は唐突に出てきた“閻魔”という言葉が信じられなくて、気が抜けた声を出してしまった。 閻魔は仏教においては地獄の主だ。だが冥界の王や神として崇められている。閻魔は死者の生前の罪を裁き、誰にも公平に判決を下す。そんな人に霊夢は面識があるのかと、霖之助は目からうろこが落ちる思いだった。 「しかし、閻魔ってのは“死者の善し悪しをきっちりつける”んだろう? あの子とは関係ないじゃないか」 「違うわよ霖之助さん。映姫は死者だろうが生者だろうが、善だろうが悪だろうが、人だろうが妖怪だろうが、“全ての物事に白黒はっきりつけてくれる”のよ」 「……つまり?」 すごく良い案を思いついたといわんばかりの、霊夢の自信満々な顔がまぶしい。 「あの子が死者か、生者か、はてまた妖か。映姫なら判断してくれそうじゃない?」 良い案だとは思う。まあ四季映姫とやらが本当に少女の正体を暴けるのかどうかは別としてだ。 「あの子を、その四季映姫とやらがいる場所までどうやって運ぶんだい?」 霊夢の、ご飯をつかんだ箸を持つ手が止まった。きょとんと霖之助を見た後、困ったように笑う。 「うっかりしてたわ。そうね、たとえ5歳児でも霖之助さんに運ばせたら、途中で腰にきそうだものね」 「悪かったね運動不足で」 霖之助の行動範囲は香霖堂とその付近に限られる。時たま無縁塚に足を運ぶ事もあるがそれは特定の時期だけであり、たとえ町に外出する事があってもそれは週に1度か2度くらいしかない。立派な引きこもり生活である。 「魔理沙ならどうかしら。箒でうまく運んでくれそう。コウノトリ的な感じで」 霖之助は箒の先端に風呂敷で包まれた少女がつるされているのを想像する。魔理沙が「うわわっ」とか言いながらふらふらと飛行する姿が安易に想像できた。 「却下だな。あの子が落ちたらどうする? というか、魔理沙も危ないだろう」 「……そうね。魔理沙なら箒ごと落っこちそうだわ」 ふう、と霊夢が一息つく。 「映姫に会わせるのは良い案だと思ったのに……」 霊夢がつぶやいている途中、廊下でゴン、と変な音がした。反射的に二人とも廊下に目をやる。ふすま越しに、小さな声で「……痛ぁい」と聞こえてきた。霊夢が無言で霖之助に視線を向ける。霖之助が頷くと同時に、霊夢はすぐさま立ち上がって襖を開けた。 廊下には何かのギャグだろうか、こけて間抜けな体制になっている猫がいた。それも、普通の猫より何倍も大きな、しかも尻尾が二股に分かれた。 猫は霊夢の姿を見上げるなりあわてて駆け出そうとしたが、動くのは霊夢のほうが早かった。猫の尻尾をつかんだ。尻尾をつかまれ走れなくなった猫は、じたばたもがきながらギャーギャーとわめきだした。逃げようとするあまり、身体を伸ばして廊下に爪を立てる。 「霖之助さん、ごめん。橙のせいで廊下に傷がついたわ」 「……ああ、いいよ別に。いつもの事だ」 そう、いつもの事なのだ。霊夢や魔理沙のせいで香霖堂の中の、あらゆるものが壊されたり傷つけられるのは。 「はっ、離しなさいよ! 尻尾が痛いじゃないの!」 橙が霊夢に振り返りながら叫んだが、霊夢は無表情だ。 「不法侵入とはいい度胸じゃないの。ゆっくり話を聞かせてもらうからね」 橙は霊夢に尻尾をつかまれたままずるずると、部屋の中に引きずり込まれる。おかげで結構な長さの傷が廊下についてしまった。 「霖之助さん、マタタビある?」 「ああ、あるよ。持ってくればいいのかい?」 「至急頼むわ」 やれやれ、と霖之助は箸を茶碗の上に置いて立ち上がり、近くの棚から乾燥したマタタビの実をとりだした。途端に橙の目がキラキラと輝き始め、ぼふんと煙を立てて人型に変化する。今にも霖之助のほうへ飛び出していきそうな橙の首根っこをつかみ、霊夢が「こら」と軽くたしなめた。襖をピシャリと閉めた後、そのまま引っ張り円卓を囲むようにして座らせる。 霖之助が霊夢にマタタビの実を差し出すと、霊夢は橙の前にマタタビの実を置いた。 「さ、これあげるから、何でここにいるのか詳しい話を聞かせて頂戴」 霊夢が言うなり橙はわーっと嬉しそうにマタタビに手を伸ばすが、マタタビに手が触れるか触れないかのあたりで動きを止めた。ぐっと我慢したような表情で、ゆっくりと手をひっこめ、ぷいっとそっぽを向く。 「はは、黙秘するつもりみたいだな」 「笑ってる場合じゃないわよー」 どうにか話を聞き出そうと霊夢が試行錯誤を繰り返すが、橙はムッツリ黙ったままだ。 「仕方ない、こうなったら奥の手ね。霖之助さん、今すぐ台所からヤカン取ってきて。水はたっぷり入れてね」 霊夢の言葉に橙がサッと顔色を変えた。しかしその場に座ったまま微動だしない。 「ヤカンなんか持ってきて、どうするんだい?」 「橙の頭の上から水をかけるのよ」 「え、ええー……」 さすがにそれはどうかと霖之助が引き気味に声を上げた。しかし霊夢はいつも通りの顔だ。 「橙は水が苦手なのよ。まあ人道に反する行為だけど、この状況なら仕方ないでしょう」 小刻みに震えだす橙と真面目な顔つきの霊夢を交互に見た後、仕方あるまいと霖之助はヤカンを取りにいくためその場を立ち上がった。 「ちょっ、ちょっと待ってくれ」 どこからともなく声がした。霖之助が足をとめた途端、霖之助の前にいきなり人の姿が現れた。藍だ。珍しく焦ったふうに両手を広げ、霖之助の行く手を阻む。 「橙に水をかけるのはやめてくれ。可哀想だろう」 ふさふさの尻尾を揺らしながら藍が言う。いきなりの事で反応できず固まっている霖之助の代わりに、霊夢が口を開いた。 「まあ可哀想っちゃ可哀想だけど、紫が放棄したあの子の世話を直々に頼まれてる霖之助さんも可哀想だし、あちらの世界から食料として連れてこられたあの子のほうもよっぽど可哀想よ」 「そっ、それはそうだが……でも、紫様は決して……」 藍がハッとして口を閉ざす。その様子に、ははーんと霊夢がにんまりと嫌な笑顔を浮かべた。ニヤニヤ顔のまま懐をあさり始め、円卓の上にそっと何かを置いた。紙につつまれているそれをゆっくり広げる。 油あげだった。 「はうあっ!」 藍が奇声を発しながら目を輝かせた。そして我に返り、慌てて顔をそらすものの、藍の視線は円卓の上の油揚げにくぎづけだった。 これが彼女の好物か。霖之助は心の中でそう一人ごちた。というかこの油揚げ、香霖堂の台所にあったものとしか思えない。 しかし、好物を目の前に出されたせいでこうも態度が急変してしまうとは。妖獣とは難儀なものである。 「さあ、これが欲しくば洗いざらい吐きなさーい」 「い、いやだ! ぜったいいやだ!」 うわはははーと高笑いする霊夢と、その場におよよよと崩れ落ちる藍。 「ほうれ、お前の大好きな油揚げだーっ」 「かっ、かんにんしてえっ!」 霖之助から見ても、二人がこの状況を楽しんでいるのは明らかだった。まあ幻想郷は娯楽が少ないのも確かなので、ふざけて遊びたくなる気持ちはわからなくもない。……わからなくもないのだが。 霖之助は手で顔を覆いたくなる気持ちでいっぱいいっぱいになりながら、いまだにじっと座ったままの橙を振り返る。橙といえば切なそうに瞳を潤ませてで、口からよだれを垂らしながら、じっとマタタビの実を見つめていた。本当に、難儀なものである。 霖之助はふと思いついたように棚のほうに行き、もう一つマタタビの実を取り出して、橙のもとへ向かった。藍と霊夢は相変わらず、昼ドラよろしくふざけて遊んでいる。 橙の前にもう一つのマタタビの実を置くと、橙が目を見開いて霖之助を見上げた。 「こっ、こんな餌に釣られないよ!」 「これは単なる君へのお供えだよ。霊夢の言葉は気にしないでくれ」 橙が無言で円卓の上のマタタビを見つめる。霖之助はノリノリで遊んでいる二人をほっとくことに決め、自分の席に戻り、箸を持って食事を再開した。みそ汁とご飯はもう冷めてしまっていたが仕方ない。たくあんと焼き魚をおかずに冷めたご飯を食べていると、橙が霖之助をちらちら伺うように見ながら、マタタビに手を伸ばしてゆっくりかじりついた。途端に、今にも天に昇りそうな、光芒とした表情を浮かべた。それから橙はその実を食べるわけでもなく、うっとり顔でただひたすら齧り続ける。 こんなよくわからない木の実で幸せになれるのが、霖之助には少し羨ましく思えた。 *** 「で、あんた達は何しに来たのよ。つーかあの子は何?」 すっかり冷めきってしまったご飯を食べ終わり、箸を置いた霊夢が藍と橙に問いかけると、二人は顔を見合わせて気まずそうに黙り込んだ。それから二人して顔を近づけ、ごにょごにょと何か話し始める。 「藍様ー。もう正直に言っちゃったほうがよくないですか?」 「しかしだな……すっきりさっぱり言ってしまっていいものなんだろうか?」 「うー……でも紫様には口止めされてないですよ」 「むう……」 「これはもう、洗いざらい吐きだしてしまったほうが、身のためだと思うんですが……。しかもあの紅白、恐ろしく強いし」 「むううう……」 秘密会議のつもりだろうが、二人の会話は霊夢にも霖之助にも丸聞こえだった。なかなかどうして、この妖獣たち、隙間妖怪の式神とその式神だというのに、どこかしら抜けているところがあるように思える。しかも主人の事など気にせず、自らの保身に走っているあたり、二人が紫をどのように慕っているのかが伺い取れる。 ほどなくして藍と橙は顔を離し、二人して居住まいを正した。藍がこほんと咳払いをする。 「しっ、仕方ない。全部教えてやろう」 「霖之助さんに迷惑をかけたっていうのに、どうしてこうも上から目線なのかしら。こういう時は「全部話します、ご迷惑をおかけいたしました」と言うのが礼儀ってものでしょう?」 まるで金取りのような威圧感を放つ霊夢に、藍が縮こまった。霖之助はひっそりと、霊夢を敵に回してはいけないと、心の中でそう誓った。 「ぜ、全部話す。迷惑をかけた、申し訳ない」 「そうそう、それでいいのよ」 霊夢が満足したようにうなずいて、湯呑みの茶に口を付けた。 「事の始まりは一昨日の昼。紫様があちら側で買い物がしたいというので、私と橙と紫様であちら側に行ったのだ」 藍がとつとつと語りだす。 「空が暗くなるころまで荷物持ちとして市街を連れまわされ、私と橙も疲れていた。灯りの少ない通りの横断歩道を紫様が渡るのについていくので精いっぱいだった。だから、突っ込んでくる車に気付くのが一拍遅れてしまった」 「え、あんた達轢かれたの?」 霊夢が心底驚いた顔をする。藍は申し訳なさそうな表情を浮かべて首を振った。 「紫様も私たちも、車に轢かれようが妖怪なので平気だ」 「……そうよねえ」 霊夢が呟いて、お茶を一口飲んだ。 「幸い、車はハンドルを切って紫様をよけた。紫様にけがは無かった。だが歩道に乗り上げた車は、歩道を走っている自転車とぶつかってしまったんだ」 藍がはあ、とため息をつく。 「その自転車を運転していたのが、あの子だ。結構なスピードが出ていた車に横から体当たりされ、その衝撃で自転車ごと跳ね飛ばされ、ガードレールに頭をぶつけて即死だった」 藍が黒いものを背負い始める。部屋の雰囲気が一気に重くなった。 「え……、じゃああの子、死人なの?」 「そうだ。けれども、紫様があの子の生死の境界を弄ってしまったので、今はもう妖怪に近い」 「……はあ、そうなの。ご愁傷さま」 ずず、と霊夢がお茶をすする。 「やけにあっさりしてるな霊夢」 霖之助が聞けば、霊夢は湯呑みから口を離して。 「あっさりも何も、私が慌てたところであの子が死んでしまったという事態が変わる事は無いんだし、そうするしかないでしょ」 口がさびしいのか霊夢は茶うけとして皿の上の沢庵をつまみ、口に運ぶ。 「それよりも、これからどうするかが問題よ。亡くなってしまったのはしょうがないと、見て見ぬふりをしてこっちに帰ってくればいいのに、何でわざわざあの子を生き返らせるような事をして、しかもこっちに連れてくるのかしら」 「そ、それは多分、紫様が申し訳ないと思ったからであって……」 「そう思って生き返らせたのなら、そのままあちら側に置いてけばいいでしょう」 藍がどんどん縮こまっていくのに比例して、橙も小さくなっていく。 「……死者の境界を弄ってしまったから、あの子はもう成長しない。そんな人間がいたらあちらでは大騒ぎになってしまう」 「じゃあ尚更何で生き返らせたのよ」 「すまない。それは紫様に聞いてみないとわからない」 霊夢は額を抑えてかぶりを振る。 「……ああもう。本っ当に、面倒ばかりかけるのね妖怪ってのは」 盛大にため息を吐いて、縮こまってしまった二人を見つめる。 「あの子の事は追々また聞くとして。……どうしてあんたらがここにいるの?」 橙がおずおずと口を開いた。 「心配で見に来たの。昨日からずっと目を覚まさなくて」 ぽつりと答えた声は不安そうだった。しかし、それに違和感を感じた霖之助が首をかしげ、口を開く。 「目を覚まさない、だって? あの妖怪少女は昨日「捌く最中に逃げ出した」と言っていたが?」 「紫様はそんな事を言っていたのか? でも、昨日紫様は「香霖堂に預けてきた」と……」 橙と藍が顔を見合わせ、一拍置いた後、何かを察したのか呆れ顔になった。その顔を見て、霊夢も何かを察したようにまた盛大にため息をつく。 「なるほど。紫は嘘をついたのね」 「……そのようだ。申し訳ない」 「別に藍が謝る事ないじゃない。紫の嘘はいつもの事よ」 霊夢が湯呑みに口を付け、お茶を飲み干し、空になった湯呑みを静かに卓上に置いた。そして難しそうな顔をして腕を組む。 「しかし、死者と生者の境界を弄るとは、紫も大胆な事するわね。数年経てば、あの子も立派に妖怪の仲間入りしちゃうじゃないの。我を忘れて暴れださなきゃいいけど」 「それは心配ないだろう。あの子はもう紫様の管轄下に置かれている」 「……管轄下? ちょっと待ってよ、それって……」 何やら慌てだす霊夢に、霖之助は何故慌てるのかわからなかったが、かといってそれを聞けるような空気ではないので、黙って3人の会話を見守った。 「数年後か、はてまた数十年後には、私と同様、紫様に仕えているだろうな」 藍がつぶやくと、霊夢はこめかみを押さえてややうつむきがちになった。相当まいっているようだ。霖之助も驚きのあまり固まってしまっている。 紫に仕えるという事は、紫の式神になるという事だ。それは即ち、紫の式神である藍と同格の世界に身を置くことになる。 「待って待って! あれは人間よ?」 「人間だろうが、ああなってしまえばもう“元人間”でしかない」 「そうは言うけど、藍はあの子がいきなり妖怪の世界で暮らせると思うの?」 暫し無言の後。 「難しいだろうな」 藍が俯き、側で不安そうに見上げてくる橙の頭をゆっくり撫でた。 「私や橙はかなりの年月の間、ゆっくりと力を蓄え、妖怪の世界においてのルールを学び、こうして式神になった。だからこそ、同格の妖怪と等しく戦えるし、紫様の盾となれる。だがあの子は妖怪の世界を経験することなく、一瞬にして妖怪になってしまった。だから、どんな妖怪よりも、どんな妖精よりも弱いだろう」 藍が唇を噛んだ後、声を絞り出した。 「私も橙も、紫様に仕える身だから、退魔師にも妖怪にも狙われやすい。もしあの子がそういう類の者に攻撃されたら、ひとたまりも無いだろうな」 段々事が大きくなってきたような気がして、霖之助はこめかみに痛みを覚えた。 「それって、人間の世界でも妖怪の世界でも暮らせないってことじゃないの……」 「……でも、死人の世界があるだろう。そこで暮らせばいいんじゃないか?」 「あの子はあちら側の価値観しか持ってないでしょ。そんな子が幻想郷の、それも死人の世界で暮らせるわけ無いじゃない」 「そうか……」 ――カランカラン。香霖堂のドアのベルが遠くで聞こえた。部屋にいる全員がハッとして部屋の出入り口である襖に目を向ける。 「……あら珍しい。お客さんかしら?」 「どうだろうね。魔理沙じゃないかな」 霖之助は苦笑して立ち上がった。廊下に出て、商品が乱雑に配置された店内をのぞきこむ。が、誰もいない。霖之助は隈なく店内を見回し、再度誰もいないのを確認すると、首をかしげて考え込むようなしぐさをして、しばらく考え込んだ。悪戯好きな妖精の仕業かもしれない。 ――カランカラン。再度ベルが鳴り、ドアがあけ放たれた。朝日が薄暗い店内に差し込む。 「あれ、香霖。なんだ出迎えか?」 太陽の光を背に浴びながら入ってきたのは魔理沙だった。片手に箒をもっているところをみると、わざわざこんな朝早くに飛んできてくれたのだろう。 「ベルが鳴ったからな、見に来たんだ。別に君の出迎えに来たわけじゃない」 「そりゃあそうだ」 けたけたと笑ったあと、魔理沙がそういえば、と話を持ち出してきた。 「あの子、目ぇ覚めたのか?」 「ん? まだ寝てると思うが」 「……じゃあ見間違いかなあ」 魔理沙はそんな事を呟いて、顎に手を当ててうつむきがちになり、むーっと考え出す。 「見間違い?」 何だか嫌な予感がした。 「ああ、ここに来る途中、あの子とそっくりな人が森に入ってくのを見たんだ」 霖之助は慌てて踵を返した。魔理沙の引きとめる声を無視して早足で廊下を抜け、少女が寝ているだろう部屋の襖を開けた。 日差しが差し込むその部屋の中央に敷かれた布団はすでに、もぬけの殻だった。 「霊夢!」 霊夢の名前を呼びながら、霊夢たちがいるだろう部屋の前に戻り襖を開けた。 「ど、どうしたの霖之助さん」 たくあんをつまんでいたのか、たくあんを手にしたまま、霊夢がビクッと震えて答えた。 「あの子がいない」 「……なんですって?」 沢庵を口に放り込み、霊夢が立ち上がる。もぐもぐと口を動かしながら早足で廊下に出て、襖の側でふと立ち止まった。足下を見下ろしてしゃがみこみ、床に手を当てる。 「……暖かい。あの子、ここに座って私たちの話を聞いてたのかしら」 霊夢が立ち上がって奥の部屋へと向かうのと同時に、魔理沙がぱたぱたと小走りでやってきた。部屋にちんまりと座って困惑した表情を浮かべる藍と橙を見て魔理沙は目を見開いたが、すぐに真面目な顔つきになる。 「今は朝だから殆どの妖怪が眠りについてる。今のうちにはやく見つけないとやばいぜ」 「そうだな。君たち二人も手伝ってくれ」 霖之助が藍と橙に声をかけると、二人はこくこくと頷いて立ち上がった。と、ちょうど良く霊夢が戻ってくる。 「トイレにもいないわ。何処行ったのかしら」 「森に入っていったの、さっき見たぜ」 「じゃあ手分けして探しましょう。霖之助さんはお留守番ね」 「いや、僕も探すよ」 言った途端に、霊夢と魔理沙が心配そうな顔で霖之助を見上げた。 「……心外だな。僕はそんなに頼りないかな?」 「頼りないってレベルじゃないぜ……」 魔理沙が呆れたように言う。霊夢はやや考え込んだ後、 「……魔理沙、お願いできる?」 神妙な面持ちで魔理沙に聞いた。 「香霖のお守りだろ? 別にいいぜ」 「よし決まり。そうとなったら急ぐわよ!」 霊夢が早歩きで店内に下り、靴を履いて外に飛び出すのを追いかけるように、藍と橙は獣の姿になって部屋の雨戸を開けて森のほうへと飛び出していった。 残された魔理沙と霖之助は顔を見合わせる。 「いっとくけど、香霖を箒に乗せて飛ぶのは無理だからな」 「……すまない」 リグルは困惑した面持ちで、木の根もとに座ってうずくまっている少女を見下ろした。 朝方、人間がいるとの情報を虫から聞き、ちょうど腹が減っていたのですぐさまその場所へ向かった。しかしその場所にいたのは、見てくれだけは人間の、よくわからない生物がいたのだ。 試しに化けムカデを少女のほうに這わせてみたが、少女は顔を上げてムカデを視界にとらえると、うんともすんとも言わずに、黙って膝に目頭を押しつけた。見た目はか弱い少女なのに、普通のムカデよりも何倍もでかいムカデを前にして悲鳴を上げないとはよほど肝が据わっているのかもしれない。そんな少女はただ嗚咽を堪えて、ひたすら泣いているだけだ。 化けムカデがダメなら今度は化けヤスデだ、とリグルは配下のヤスデを呼び、少女の側に向かわせた。わさわさとたくさんの足を動かすグロテスクな虫2匹に囲まれた少女は、物音に気付き顔を上げた。ゆっくり頭を左右に振って障害物がないか確認し、よちよちと歩いているヤスデをじっと見つめたが、やはり悲鳴などあげず顔を伏せた。相変わらず泣くばかりだ。 「もういい、さがれ」 リグルが言えば、虫はすごすごと引き下がる。入れ替わるようにリグルが少女の前に立った。その場にしゃがみ込んで少女をじっと見つめる。見れば見るほど、人間なのかよくわからなくなる。 「……ねえ君、人間だよね?」 少女はおずおずと顔を上げてリグルの顔を見たあと、目を閉じて小さく首を振った。 「……わかりません」 「わかんないって……普通自分が何なのかわかるもんでしょ?」 「多分、人間だとは思うんですが……でも、私はもう死んでるらしいです」 少女は鼻をすすったあと、俯いて膝を抱えなおした。 「え、死んでるって君、生きてるじゃん」 リグルが言いながら少女の右頬をつねる。容赦なくつねり上げ、ギリギリと限界まで引っ張られる痛みに耐えきれるわけがなく、少女が目じりに涙を浮かべた。 「い、いひゃいいひゃいー! しょ、しょれは、ゆめかどうか、たひかめるやひゅでしゅひょ!」 「ああ、そうだった。ごめんね」 リグルはさして悪びれた様子なく、思いっきりつねり上げてから手を離した。あまりの激痛に少女がうーっと唸りながら、右頬を両手で押さえる。そうして痛みを和らげるためか、手のひらで撫でるようにマッサージしはじめた。頬をつねられた驚きにより泣く事を忘れたのか、少女はもう泣いてはいなかった。 「で? 死んでる“らしい”ってどういう事?」 「……えと、人に聞いただけで、まだ本当かどうか、わかんないですけど」 少女がぽつぽつと、こうなった経緯を語りだす。 学校からの帰り道“車”というものに轢かれた事、目が覚めたら見知らぬ家の中にいた事、その家の中の人の話を盗み聞けば、自分は“八雲紫”というのに連れてこられた人間で、もうすでに死んでいるという事。そして、“あっち”から“こっち”に連れてこられたという事を、その家の住人が話していたという。 「車に轢かれた、ねえ」 リグルはあちら側の車がどういったものかわからないので、リヤカーに少女が轢かれたと勝手に想像していた。間抜けだなあと心の中で呟きながら、落ち込んで小さくなっている少女を視線で見下す。 「そっか、君はあっちの人間ってわけね。なるほど」 そう言って、リグルはため息をついた。八雲紫が連れてきたとなれば、この少女は八雲紫の所有物である。そんなのに気軽に話しかけてしまって、自分に害が及ばないだろうか、少し不安になる。少女を見る限り、めちゃくちゃ弱そうなので、この少女に殺される事は無いだろうが。 「君、八雲紫のとこに帰らないの?」 「それがその、紫という人がどこにいるのかわからなくて」 少女がしょんぼりする。 「君は――……ああ、そういえば、君の名前は?」 「あっ、名前です。苗字名前」 「私はリグル。……んーと、苗字っていうと、まだ八雲紫から姓はもらってない?」 「へっ? 何で名字をもらわなきゃいけないんですか?」 「何でって、そりゃ、八雲紫が生き返らせたわけでしょ? じゃあ君は八雲紫の配下に置かれ、いわば所有物になるわけ」 「は、はいか? しょゆーぶつ?」 名前がぱちくりと目を瞬きさせる。元人間なのだからわからないのも無理はないだろう。 「まあ、いいや」 そう言ってリグルはあたりを見回した。どうやらリグル以外にも、腹をすかしてやってきた妖怪がわんさかいるようだ。普通の妖怪ならもう眠りについている時間だ。どうやら余程飢えているらしい。 ここで長時間話すのは危険だと判断したリグルは、場所を移すことに決めた。とりあえず地面に座ったままの名前の足に視線を移す。靴はおろか靴下すら履いていない。こんな状態で森の中を走ったのか、指先は擦り傷だらけだった。 「歩ける?」 リグルが聞けば、名前は頷いて立ち上がった。 「痛くないの?」 「大丈夫です。我慢できます」 つまり痛いらしい。リグルはため息をついた。 瞬間、木の上からドサッと地面に何かが落ちてくる。 「わあっ!?」 名前が驚いて後ずさった。無理もない。リグルの隣にいるのはリグルの背丈ほどあるでかい蜘蛛だったからだ。 「ああ、蜘蛛には驚くんだ」 蜘蛛がわさわさと地面の葉っぱをかき分け進み、少女の前に立ちふさがる。そうしてゆっくりと、地面に腹をくっつけた。 「えっ、ど、どういう意味ですか?」 「さっきムカデとヤスデを見せても、驚かなかったじゃない」 言いながらリグルが先ほどの虫たちを呼ぶ。少女を取り囲むように、3匹の気持ち悪い虫が対峙する。 「ひっ…」 名前が固まって、へにゃへにゃとその場に座り込んだ。今にも泣きだしそうな顔をするので、リグルが慌ててムカデとヤスデに下がるように命じた。しかし遅かったようで、名前が半泣きでうえええ、と情けない声を上げた。 「なんだ苦手だったんだ」 「ああああたりまえじゃないですかあああ」 名前の叫び声が木霊する。さっきは泣くのに必死で、虫にまで意識が行かなかったらしい。 「とりあえず、これに乗って。歩くのよりはマシだと思うから」 リグルが蜘蛛の前足を叩くと、蜘蛛がさらに身体を伏せた。乗りやすいようにしてくれているようだ。 「うええ……気持ち悪いよう」 えぐえぐと泣きながら、名前が蜘蛛の腹と頭胸の間に跨ると、蜘蛛がゆっくり慎重に立ち上がった。それに驚いた名前がバランスを崩して落っこちそうになり、あたふたと慌て始める。 「ちゃんとつかまりなって」 言いながら歩き出すリグルの後ろを、同じようなペースで蜘蛛が付いていく。 「ど、どこに……?」 「どこかあるでしょ、つかまるとこ」 名前が半泣きで蜘蛛の背中を見回すがどこにもない。仕方なく泣きながら両手を伸ばして蜘蛛にしがみついた。 「き、気持ち悪いよう……毛がくすぐったいよう……」 ブツブツと呟いていると、蜘蛛が段差に乗り上げたらしく、名前が振り落とされそうになり、慌てて蜘蛛にぴったり身体を寄せる。頬をすりよせるようにしがみつく格好になり、名前は鳥肌を立てながら情けない声を上げた。 「もうすぐで着くから、我慢してよ」 それっきりリグルは無言になり、ざくざくと伸び放題の草をかき分けながら進む。その後ろにぴったりと、化け蜘蛛がついていく形になる。名前は段々蜘蛛に慣れてきたのか、ゆっくり身体を離して、改めて森の中を見回した。時折、ざわざわと奥の茂みが音を立て、周りに生えている木の枝が音を立てる。 名前の背筋に、ぞくりと冷たいものが這い上がる。明らかに、何かがついてきているのだ。 「あんまり気にしないほうがいいよ」 リグルがいきなり名前に声をかけた。拍子に名前がバランスを崩して蜘蛛にしがみつく。 「や、やっぱり何か、いるんですか?」 「だから、気にしないほうがいいっての。そのうちいなくなるからさ」 言いながらリグルがきょろきょろとあたりを見回した。しつこい奴らだなあ、とため息をついて、また無言で歩きだす。進むのに邪魔な草を払いのけ、時折蜘蛛のほうを振り返りながら、そうして木々が開けた場所に出た。 「わあ…っ」 名前が感嘆の声を漏らす。目前には霧がかかった、大きな湖が広がっていた。 「ほら、降りて」 リグルが促すと、蜘蛛がゆっくりと地面に伏せた。名前が頷いて草の上に下りると、蜘蛛がゆっくり立ち上がった。名前が勝手に走り出し、湖の淵まで移動する。好奇心旺盛な子供のような表情を浮かべ、透き通る水をのぞきこみ、しゃがんで水に手を付ける。湖の水は思った以上に冷たかった。 そうやって遊んでいる名前の隣に、リグルがしゃがみ込んだ。 「ここの水は綺麗だから飲めるよ。喉乾いたら飲めばいい」 「え? 湖の水なのに?」 「水の温度が冷たすぎるからね、魚とか住めないんだってさ」 言いながらリグルがポケットから布を取り出した。湖に浸して、軽く絞る。 「足出して。手当てするから」 「え!? い、いいですいいです!」 ぶんぶんと首を振るが、物言わずジッと無表情に見つめてくるリグルに気迫負けしたのか、名前がおずおずと両足をリグルに向けて伸ばした。リグルが無言で名前の足を拭く。拭いた後の布を見れば黒く汚れていた。恐らく傷口も汚れているに違いない。 「消毒しないと駄目かなあ…」 もう血が固まってふさがれてしまった傷を拭くと、やはり汚れている。リグルがため息をついて、名前の膝の上に布を置き立ち上がった。名前が不安そうにリグルを見上げる。 「ちょっとここで待ってて。すぐ戻るから」 言うなりリグルはいびつな形のマントを広げて空に飛び立った。名前がぽかんとしてそれを見送る。 「…え、飛んだ?」 リグルが飛んだ事が信じられなくて、名前は飛び去るリグルの後ろ姿をぼんやり見送りながら、自らの頬を抓った。痛いのを確認したあと、とりあえず気にしては駄目なような気がしたので、名前は気にしない事にした。 一人ぽつねんと取り残され、不安と心細さを紛らわすためにきょろきょろとあたりを見回しはじめると、名前の背後にさっきの蜘蛛が近づいてきた。どうやら見張り役のつもりらしい。口と思わしき場所に大きな牙が生えているが、けれどもそれが名前に向かう気配は感じられない。 蜘蛛の丸く黒光りした4つの目をじっと見つめ、にらめっこしていると、ややあってリグルが戻ってきた。傍らに小さな少女を連れている。緑がかった髪を左横に一つ高くまとめているその少女の背中には、薄く透き通った、虫のような羽が生えていた。手には救急箱を持っている。 名前がぽかんと少女を見上げると、少女がにこりと笑い返した。 「彼女は大妖精。別に敵じゃないから安心してね」 リグルが名前に向かって言うと、大妖精が小首をかしげながら「よろしくね」と挨拶した。それにつられて名前が頭を下げる。 「足怪我してるって聞いたからね、ちゃんと手当てしないと」 大妖精はにこにこしながら名前の前にしゃがみこみ、側に救急箱を置いてふたを開けた。見るからにアルコールが入っていそうな瓶を取り出して、指でつまんだ綿にそれをしみこませる。 「しみるかもしれないけど、じっとしててね」 綿が傷口に触れる。血がもう固まっていたので、名前は特に刺激を感じなかった。大妖精は慣れた手つきで名前の足を手当てしていき、べたべたと絆創膏をはったあと、出した道具をちゃきちゃきと箱の中にしまっていく。 「終わったよー」 大妖精が言いながら立ち上がる。名前が慌てて頭を下げる。 「あ、ありがとうございました」 「いいのいいのー気にしないで。こういうの得意なんだ」 ほわほわとした口調で大妖精が言う。それからリグルに視線を向けた。 「それでリグルちゃんはこれからどうするの?」 「うーん、ぶっちゃけ、あんまり考えてないんだ」 考えてなさそうにリグルが投げやりに言い放ち、名前に視線を落とした。 「八雲紫が迎えに来てくれれば万事解決なんだけど、あの人、だらしのなさに定評があるからね」 「それは禁句だよー」 大妖精が苦笑を浮かべたが、いきなり目を見開いて険しい顔つきになった。リグルの触角がピクリと跳ね上がり、途端にリグルがきょろきょろとあたりを見回し始める。明らかに警戒している大妖精とリグルの空気に触発され、名前が不安そうな表情を浮かべる。 ガサガサと、茂みをかき分けて何かがやってくる。驚いて身体を震わせる名前の前に、リグルがすっと立ちはだかった。大妖精もリグルの右斜め後ろに立ちながらも、音のするほうをじっと睨み見ている。 「ここで会ったが100年目ぇ……」 恨みがましい声とともに、体中に木の葉をくっつけ、赤と白の着物を身にまとい、おどろおどろしい気を背中に背負った少女がぬっと茂みから現れた。その後ろからとぼとぼと二匹の獣がついてくる。一匹は猫、もう一匹は狐だが、普通のよりも身体が大きく、尻尾の数も多い。 「100年も経ってないんじゃ……」 「シッ」 猫がぼそぼそとつぶやくと狐が窘めた。しかし少女は後方のやりとりなど気にせず、リグルと大妖精の姿を見るなり何度か瞬きをして、「あっ」と大声で叫んだ。と思えば背中のおどろおどろしい気配がなくなっていく。 「リグルに大妖精じゃない。何してんのアンタ達?」 笑顔を浮かべながら、小走りでリグルたちのほうに近づいてくる。 「それはこっちの台詞だよ霊夢。禍々しいのが近づいてくるから新手の妖怪かと思ったじゃないか」 リグルが肩をすくめながら言うと、大妖精が安堵の表情を浮かべた。名前は状況が理解できず、三者の顔を見比べる。 「リグルさん、知り合いですか?」 思い切って聞いてみると、リグルが感慨深げにうなずいた。 「知り合いってレベルじゃないよ、うん。この紅白にはほんと迷惑してるんだ。名前も近づかないほうがいいよ」 「え? ど、どうしてですか?」 首をかしげる名前に、そっと大妖精が耳打ちした。 「霊夢さんはものすごーく怖いんですよー。誰かれ構わず攻撃してくるんですから」 「ちょっと大妖精! アンタ何吹き込んでんのよ!」 霊夢が眉を寄せて大妖精の頭を鷲掴みにした。妖精という種族のせいか、小学生ほどしか身体が大きくない大妖精は抵抗するすべなく、痛い痛いと半泣きで霊夢の手に両手を添えている。 「うわー怖い」 「怖くないッ!」 リグルがからかうように言うと、霊夢がキッとリグルを睨みつけた。それから霊夢は落ち着いたのか、ふうと息を吐いて大妖精の頭から手を離し、改めて名前を見下ろした。頭の先からつま先まで見た後、大妖精の足下にある救急箱を見て、さも意外だと言わんばかりに目を見開いた。 「何? 手当てしてくれたの?」 「え? ああ、手当てしたのは大妖精だけどね」 霊夢はふーんと興味なさそうに頷いて、ぐるりと辺りを見回す。 「他に誰もいないのね」 「まあ、朝方ですし。まだみんな寝てますよ」 大妖精が言うと、霊夢はふんふんと頷いて改めて名前を見下ろした。 「さ、帰るわよ」 「へっ?」 いきなりそんな事を言われ、わけもわからず名前が素っ頓狂な声を上げた。 「あの、ど、どちら様ですか?」 「博麗霊夢。職業は巫女よ」 「巫女さんですか……ってことは、それ、コスプレじゃないんですね」 「まあそういうのは後にして、ほら、帰るわよ」 「へっ?」 再度名前が素っ頓狂な声を上げた。目を丸くして小首をかしげる。 「帰るって、その、どこに?」 そう言われた霊夢は、名前が香霖堂で目を覚ますまでの経緯を知らない事に気付き、それを説明するために思案を巡らせる。 「えーと、あなた、目覚ました時、変てこな家にいなかった?」 「へんてこ……?」 「変てこで悪かったね」 背後からいきなり投げやりな男の声が聞こえた。霊夢が肩をすくめて振り返ると、頭や服に葉っぱをくっつけた魔理沙と霖之助が茂みから出て、ちょうどこっちにやってくるところだった。途中にいる化けグモを避けながら距離を詰めてくる。店を変てこと言われた霖之助はほんの少し不満そうだ。 「違うわ霖之助さん、“いい意味”での変てこよ」 「だったら変てこなんて言葉使わないでほしいね」 霖之助と魔理沙が霊夢の隣に並ぶと、狐と猫も後に続いた。青年少女に囲まれる形になった名前は、若干おびえた様子で、新たに増えた面子と、今までの面子を交互に見ていた。そうして思う。変な格好の人たちばかりだと。 「見つけたのか?」 「見てわかるでしょ」 魔理沙が霊夢に聞くと、霊夢は当たり前のように言う。そんな二人のやり取りを耳にした後、霖之助は名前をまじまじと見降ろし、絆創膏だらけのつま先を見た瞬間、ほんの少しだけ眉を寄せた。 「足を怪我してしまったのか。手当ては誰が?」 「私とリグルでやらせていただきました」 大妖精がおずおずと答えると、霖之助は納得するように頷いて大妖精に「ありがとう」と礼を述べた。 「とりあえず、この子を立たせるか、私たちが座るかしたらどうなの? 大勢に見降ろされたら流石にアレでしょ」 「そうね、リグルの言うとおりだわ」 うんうんと頷いて、霊夢が名前に手を差し伸べた。 「立てる?」 「……はい。ありがとうございます」 霊夢の手をつかみ、名前がそろそろと立ち上がる。名前の身長は霊夢より背が低い魔理沙より若干下だ。けれども似たような背丈なので、魔理沙や霊夢と同い年くらいだろうと思われる。 「で、あの、帰るってどこに? ……まさか……」 リグルが言うあちら側、つまり名前がもともと住んでいた世界に帰れるのではないかと期待を込めて名前が霊夢に聞いてみるが、霊夢は残念そうにふるふると首を振った。名前が落胆した様子を見せる。 「あいにくだけど帰るのはあなたが目を覚ました家なの。あちら側にはもう行けないと思うわ」 「い、行けない?」 「だから説明は後。早く戻らないと。こんなに騒いでると妖怪がやってくるわ」 霊夢は言いながらきょろきょろと辺りを見回した。 「早く戻るっても霊夢な、私はともかく香霖がいるだろ。今走らせたから当分はもう動けないと思うぜ」 「僕はどれだけ体力がないんだと思われてるのか、よーくわかったよ」 霖之助ががっくりと肩を落とした。 「え? 走れるのか?」 魔理沙が意外そうに聞き返す。 「当たり前だろ」 霖之助が反論するが、魔理沙はジト目で霖之助を見つめ、ふーんと頷いた。信じる気はないらしい。そんなやり取りを黙って見ていたリグルが眉を寄せて口を開いた。 「この子にも走らせるつもり?」 言われた皆が一様にぽかんとリグルを見つめた。そうして霊夢があちゃーと言った感じで顔をゆがめる。 「うっかりしてたわ。……、困ったわね」 霊夢は名前を責めるような、そういった気は無かったのだろうけど、名前は霊夢の言葉を聞くなり申し訳なさそうな顔になってしゅんと頭を垂れた。それを横目で見ていたリグルが呆れた風に肩をすくめる。 「……まあ、森の外まで虫で運んであげてもいいけど」 リグルが顔をそらしながら言うと、霊夢の顔がぱあっと明るくなった。 「ありがとうリグル! あんたもたまにはいいとこあるのね!」 「たまには、は余計でしょ。全く」 面倒事に巻き込まれたのは仕方のない事だと腹をくくって、リグルは名前に蜘蛛に乗るよう促した。恐る恐る名前が蜘蛛に近寄り、よじ登って蜘蛛に跨った。もぞもぞと座る位置を変え、座り心地の良い場所を見つけると名前はそこにしっかりと座り、改めてリグルと大妖精を見下ろした。 「大妖精さんにリグルさん、足、手当てしてくれてありがとうございました」 ぺこりと頭を下げると、大妖精がほほ笑みながらふるふると首を振った。 「いいのいいの。困った時はお互いさま」 2009/09/08