石畳に腰かけ、壁の石垣を見上げる。苔が張り付いた壁にはめ込まれた鉄格子から真っ白な光が差し込んだ。
牢獄に入ってから、早四日。
何をするでもなく、鉄格子の外を眺めるだけの日々はさすがに飽きてくる。それに一日の間に一回だけ与えられる飯の数は、正直言って自分の身体を満たすほど満足な量ではなく、目が覚めると同時に、否応無しに腹の虫は暴れだした。
空腹ほどつらいものはない。喉もヒリヒリと渇いて水分をほしがっている。唾液も出ないほどに、身体の水分は不足していた。
着物の袖をまくる。腕を見る。真っ白く細い腕には無数の傷のほか、自身がつけた噛み傷があった。
以前子供の頃に、腕に噛み付き自分の血で喉を潤したことがあった。それが今更癖となって、喉が渇けば血液の味をほしがった。何とか此処最近は治ってきたものの、この牢獄に入って五日の間、二度も自身の腕に噛み付き血を飲んだ。
自分でも気持ち悪い、まるで吸血鬼のような悪癖なのだが、どうしてもやめられないのだ。
喉が鳴き喚くようにして、水分をほしがる。腕をじっと見つめて、そっと口を開いた。
「止めなさい」
なげかけらる声に、動きを止める。視線の先には、端正な顔立ちがいた。
二日前にヌワンギに連れてこられた輩だ。名前は知らない。慇懃な態度を崩さず、この二日間ずっと自身の向こう側に座って、何をするでもなく鉄格子の外を見ていた。どうやら身なりや態度からして地位は相当の人間だと読み取れたが、あえて触れはしなかった。むやみに離しかけ親しくなっても別に意味はない。第一、自身が興味すらもてない。
「…見苦しいと思うなら、見なければ良い」
腕を膝の上に置き、その腕を片手と尾で半ば膝に押し付けるようにして押さえる。痙攣するように震える腕に、顔を顰めた。
「貴方の身を案じてあげているのです」
「そんなもの…いらない」
ふいとそっぽを向いて、壁に身を預ける。ひんやりと冷たい感覚がひりひりと火傷するように痛む喉を冷やしてくれているようで心地がよかった。
暫くそうしていると、痙攣が治まる。自然と尻尾を石畳の上に滑らせ、引っ張られるようにして強く立てていた耳を垂れ下げる。
「…水が、ほしいのですか」
「…煩い」
「ならば、中刻まで待ちなさい」
それっきり、会話は途絶えた。自身にとっては好都合だった。焼け付くような喉の痛みのおかげで、喋るのもつらいのだ。
石畳に身体を横たえ、身を丸める。牢獄の中にいてすることといえば、宙を眺め怠けるか、寝るかのどちらかに限った。
冷たい石畳に、背筋を寒気が這い上がった。牢獄は地下にあり、おまけに石で囲まれているため地上よりも比較的温度は低い。要は寒いのだ。だから眠るときはこうして身体を丸めて暖を取らないと眠れない。目を硬く瞑って、小さく呟いた。
「おやすみなさい」
別に目の前の男に言ったわけではない。ましてや誰に対して言ったわけではなく、自身を包み込んでくれるこの寂しい空間に対して言ったのだ。
ふと、物音で目が覚めた。
目を擦りながら辺りを見回すと、布擦れの音がした。多分この音で目が覚めたんだろうとぼんやり考えながら身体を起こすと何かが落ちる。それは微かに死臭が染み込んでいたが、ほんの微かでさして気にはならない。僅かな光の中、"それ"の色が褪せた紺色だと頭が理解したと同時、男が見につけていたものだと判った。
鉄格子の外を見ると空は鮮やかな青で染まっている。それが昼刻だということを示していた。
それを見て思ったことは、寝過ごした、ただそれだけだった。
「目が、覚めましたか」
「…うん」
男の声に軽く頷いて、目を擦る。辺りを見回す前に男が自分の隣に座った。そして竹筒と碗を差し出してくる。困惑気味に差し出されたそれと男の顔を見比べてから、ひったくるようにして乱暴に奪い取った。
箸を使いモロロの粥を口に運ぶと、空腹は徐々に満たされていった。隣を見ると、男は鉄格子の外の青空をぼんやりと眺めている。
粥を全て口にかき込み、竹筒を持ち上げると、手に伝わる重量と、小さなちゃぷんという音に目を見開いた。竹筒の口を封じている栓を引き抜き、口元にあて少し傾けると口の中に冷たい液体が流れ込んできた。とても冷たくて、そしてほんのりと甘みのある水。粥でだいぶ潤った喉が、新たな水でどんどん浸食されていくようだった。
「おい、しい…」
きょとんと目を見開いて男を見上げると、男は少しだけ笑った。それを見て気づく。この水はこの男が頼んで持ってきてくれたのだと。
途端なんともいえない気持ちが身体を包み込んだ。よくは判らないが、きっとこれは嬉しいとか、そういう感情なんだろうと思う。
「…ありがと」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟くと、水を喉に流し込む。男の微笑う気配に、顔を上げることはできなかった。
牢獄に入って五日目。男が牢獄に入ってきてから三日が経った。
特に対して男と会話もなく、また今日も朝を迎えた。自分が起きると案の定男の紺色の上着がかけられてあって、嬉しいといえば嬉しいし、干渉してほしくないといえば干渉してほしくない、微妙な心境だった。
「おはよう」
寂しい空間に一言告げて、上体を起こして目を擦り、布を綺麗にたたむ。ゆっくりと立ち上がり男のほうに歩み寄って布を手渡すと、男は表情を崩さずそれを受け取った。
隣にちょこんと座ってみても、大して反応はない。壁にもたれかかり、自分が座っていた場所を眺めると、何もかもが違って見えて、とても斬新だった。
鉄格子の小窓の外を眺めると、青い空と白い雲を背景に小鳥が飛んでいくのが見えた。
「あなたは如何して、牢獄になんかに?」
斜め上を見上げて問うと、男は自分を見下ろしてから何の反応もなく、視線を元に戻した。語る権利も義務もないといったところか。そう、と寂しげに小さく呟いて窓の外に視線を向ける。
「わたしの場合じゃ、お上に逆らったからここに入れられたけど、貴方はこんなちっぽけな事じゃなく、もっと大層な事で入れられたんだろうね」
ぼんやりと呟くと、男がこちらに視線を向けるのが判った。窓の外から男の顔に目を向けると、男はほんの少しだけ口元を緩めて、牢獄の壁を眺めた。
「私も、貴方と似たようなものです」
きょとんと目を見開いて、じっと男を見つめる。
「…そ、か」
少しだけ目を伏せる。そして空を眺めた。
「結構、豪そうな地位に見えるけど、……大変なことしたね」
「貴方も、私と同じ立場でしょう」
「戦場を渡り歩く雇兵だもの。この国の兵じゃないから、別にどうってことはない」
ぼんやりと外を眺めてから、小さなため息一つ、膝を抱えた。
それっきり会話は途絶えた。しんと静まる空気が、逆に心地よい。
…そういえば。まだこの男の名を聞いていなかったか。
「私は。…貴方の名、教えて」
男は自身に視線を向けてから、視線を元に戻す。彼の唇が少しだけ動いた。
「……べナウィ」
自分がヌワンギの配下に置かれて以来、聞いたことのありすぎる名前だった。
彼がこの國のあの有能な侍大将ということに、驚きを隠せなかった。思い返せば一度くらい、彼を目にしたことがあったような気がしないでもなかった。自分は本当に、自分以外のことに興味がないと身に染みた時でもある。
「そう、か。どうりで、常人とは違う気配を持っていると思った」
簡単にそう易々話しかけれるほど身分の違う相手に、全身が強張って緊張する。仕事癖だった。自分より上の者に対するこの態度は。
さて、彼に"契約"を持ちかければ自分は生き延びれるだろうかと考える。今までの彼の行動や言動からして、生真面目さと冷静沈着さは一級品に思える。持ちかけてみても、無理だろうとは思うが、何としてもここで死ぬわけには行かない。
「私と、契約する気はある?」
「…契約?」
彼――べナウィが怪訝そうにこちらを見据えた。
「私はこんなとこで無駄死にしたくない。もしも私と契約すれば、私は貴方に絶対服従の意を誓う。何でも言うことを聞くし、戦えといわれれば戦う。逆に貴方は私をこの牢獄から必ず出し、契約期間中の面倒を見る」
淡々と言葉を紡ぎ終わると、べナウィは怪訝にこちらを見ている。今の説明で理解したのだろうか、少し不安に囚われた。するとべナウィは意を察したのか、大体の意味はわかったと呟いた。
「しかし、何故そんなことを私に持ちかける」
「今契約しているこの國の聖上よりも、信頼に値できる者と判断したため。また、自分自身が牢獄から出たいため。なんなら、契約は少しの期間でもいい」
真面目そのものの表情で言うと、彼は強面で自身を鋭い視線で射抜いた。少し、身がひく。
「…後悔は絶対、させないから……頼む」
鋭い視線に応えるように、こちらも真剣な眼差しを相手に向ける。暫くにらみ合いが続き、やっとのことで、彼が小さくため息を吐いた。これは、成立の意と取れる。
「これだけ守れるなら、契約してもかまいませんが」
「わかった。言って」
「私の命令は聞かなくていい。自由にしてかまわない」
こちらがきょとんと目を見開く番だった。ぱちくりと瞬きをして、小首をかしげる。
「何故。何事も言う事を聞く部下がいれば、貴方にとって都合がいいだろうに」
「そういうのは、あまり好きではありません」
きょとんとまた目を見開いた。まるで自分は豆鉄砲を食らった鳩の様だった。数回瞬きを繰り返してから、そして苦笑する。今度の"主"は今までにない、珍しい性質の持ち主だった。
「契約成立か。主人、これから少しの間、よろしくお願いします」
両手を地に付けて深々と頭を下げる。顔を上げると、少しだけ不満そうなべナウィの顔があった。
「ほかに約束事を足してもよろしいか?」
「ええ」
「変な敬語は使わないでほしい。それに主人と呼ぶのもやめてほしい」
つまりは、名前で呼べということだろうか。
「慣れていないなら、仕方ないか」
べナウィ、と自分が呼ぶのに違和感が生じる。が、じきになれるだろう。
今回の契約者は、本当に変わり者だと思った。
2007/01/13