道の真ん中を小さな馬車が、ゆっくりゆっくり進んでいた。その後ろを、暗い色の服を着た大人の人たちが、ゆっくりゆっくりついていく。わたしもまた、そのなかの大人の人に手を引かれてついていく。まるでアリの行列のようだ。わたしはそう思いながら、転ばないように歩くのでせいいっぱいだった。しとしとと降る雨が服に染み込んでいく事とか、水溜りに足を突っ込んで靴の中に少しだけ水が入ってしまったとか、そういった余計な事を考える暇はあまりなかった。
 正直な話をすると、泣かないように必死に唇を噛み締めるので、わたしはもういっぱいいっぱいだったのだ。
 教会から未だに鳴り続ける鐘の音は死者への手向けと、葬列者への感謝の思いの表れなのだと隣の人は言っていたが、わたしにはよく意味がわからなかった。
 馬車が遠く見える。周りの大人の人たちが遠くにいるように感じた。隣で手を引いてくれている人すら、遠い世界にいるのではと感じる。世界にわたしがひとりぼっちで取り残されてしまったような感覚に陥る。このまま、…このまま、わたしはいろんな人から取り残されてしまうのだろうか。息をするのが辛い。いつの間にか、心の中にぽっかり空いてしまった部分ができたという感じだ。
 馬車がかすんで見える。行ってしまう。
 手のひらのぬくもりが消え去り、わたしはびっくりして立ち止まった。辺りを見回すが誰もいない。どこもかしこも真っ白で、わたしは慌てて走り出したが、地面も空も全てが真っ白で、自分が今歩いているのか立ち止まっているのかさえわからなかった。そもそも、わたしは今大地にちゃんと立っているのかわからない。どっちが上でどっちが下なのかわからない。とてもふしぎなせかいだ、とわたしは思う。
 しばらくそこでぼうっとしていると、白い世界がだんだんと黒色に侵食されていって、真っ黒な世界に変わった。当たり前だ。わたしはまぶたを閉じているのだから。
 あれ? と思う。ではなぜわたしはまぶたを閉じているのだろう。
 おかしい。何かがおかしい。すんなりとそれが腑に落ちていく。
 もしかして、これは、
 …ゆめ?




1
 長年整備されていないせいなのか獣道となってしまった山道を歩いている途中、十代は道のど真ん中にピンク色のマシュマロが落ちているのを見つけた。いや、これでは何か食い物が落ちているように取れてしまう。正しく言い換えるならば、道のど真ん中にマシュマロンの精霊がいるのを見つけた、こういう言い方が理に適っているだろう。マシュマロンの精霊は何をするでもなくぼーっとそこに居座っている。いや、ぼーっとしているのかどうかはわからない。マシュマロンの顔が間抜けなせいでそう見えてしまうのかもしれない。しかしよくよく見れば小さな身体をめいっぱい伸ばしてふんぞり返っているように見えなくもない。その姿はなぜか威張って胸を張る万丈目を髣髴とさせた。十代がマシュマロンに近寄ってしゃがみこむと、ふにゃりとマシュマロンは変形して少しだけ後ずさる。手足のないあのダルマのような形でどうやって移動しているのか少々疑問を感じたが、人間の理解の範疇を超えることを軽くできてしまうのが精霊だ。それにナメクジやカタツムリだって手足らしいものはないわけだし…と無難に自己完結。十代は好奇心に満ち溢れた目でマシュマロンを見下ろし、両手を伸ばして嫌がるマシュマロンを持ち上げる。マシュマロンの感触が指先に伝わることはないが、ぐにゃぐにゃと変形する下腹部…といったらいいのかわからない、ぽてっとした腹が伸びたり縮んだりするのを見て、十代はふにゃっと顔を緩めた。にへらっと情けない笑顔を浮かべてマシュマロンと視線を合わせる。
「なあ、お前、もしかしなくても迷子なのか?」
 するとマシュマロンの首が伸びて…いや、マシュマロンに首はないが、人間に例えるならその部位だろうと思われる場所を伸ばして、頭を左右に振りはじめる。それは否定を表現するために首を振っているようにも見えるし、十代の手から逃れようと必死にもがいているようにも見えなくもない。
「そっかあ迷子かあ!」
 マシュマロンが首を振ってもがいているにもかかわらず、十代は一人納得するように笑顔でうんうんと頷き、それを胸元に抱きかかえゆっくり立ち上がった。
「つーかお前のご主人様はどこなんだ?」
 カードの精霊となれば、必ずこの近くにマシュマロンの持ち主がいるはずだ。精霊というものは自分自身の持ち主からあまり遠くには行かない。十代のハネクリボーがいい例だ。十代が知る限りでは、ハネクリボーは十代から離れどこか遠くへ行ったことなど一度もない、…はずだ。
 十代は目を細めてそこかしこの木々の間をじっと見てみるが、人影のようなものはいない。当たり前だろう。ここはデュエルアカデミアから離れたレッド寮近くの山の中なのだから。レッド寮にはオベリスクブルーの生徒はもちろんラーイエローの生徒すら訪れることは絶対に無い。まあ十代の友人を除いての話だが。…となればマシュマロンの持ち主はレッド寮の人間、という事になるのだろうか。十代は考えた後、それはないなと首を振った。隼人がビッグコアラの精霊を引き連れているのは見たが、それ以外のレッド寮の生徒が精霊を引き連れているのを十代は一度も見た事がないのだ。
 十代がうーんと捻りながら、腕の中のマシュマロンを見下ろしてぎょっとした。いつの間にかいなくなっているのだ、マシュマロンが。
「あれえ? どこ行ったんだ?」
 のんきな物言いで十代は自分の足元の周りをぐるりと見回した。しかしマシュマロンの姿は無い。もしかして自分から姿を消してしまったのだろうか。
――――クリクリー。
 いつの間にか傍にハネクリボーが現れていた。一見すると毛玉のような容姿から生えた羽が鳥のように羽ばたくことは無いが、それでもハネクリボーは宙に浮いてそこにいる。どうやって宙に浮いているのか謎だが、十代はいつしかその疑問を抱かなくなっていた。きっと精霊という異質な存在になれてしまったからだろう。それに幽霊とか精霊とかいうものはドラマやアニメの中では大抵浮いているものだ。実際に幽霊を目にしたことは無いが。
 ハネクリボーがむっくりとした緑の手をのばす。山道の先を指差しているような格好に、十代はつられて視線を山道の先へ向けた。
「あ」
 山道をぴょこぴょこ跳ねて移動するマシュマロンがいた。地面にマシュマロンが着地するとマシュマロンは縮みこみ、その衝撃を利用してバウンドするようにして移動している。まるでボールのようだと十代は思う。しかしボールほど速くは無い。
「待てよー!」
 十代がにかっと笑って走り出すと、マシュマロンが振り返ってぎくっとしたような顔をしてみせる。『ママママシュマロー!』とかいう感じで叫びながら、マシュマロンは汗を撒き散らしてさっきより速いペースで移動を始める。だがとろい。必死に移動するマシュマロンからヒィヒィと声が聞こえるようだ。なんだか幼子と追いかけっこをしているような気分になり、十代は走る速度を緩めた。困っている精霊を追い掛け回すのはいじめっ子のようだと十代は思ったが、それでも面白かった。なんだか子供のころにに戻った錯覚にとらわれる。
 山道を走るマシュマロンを追いかけ続けていると、唐突に道が途切れ、森が開けた。光を遮る木々が無くなり、十代は直射日光の眩しさに目を細めた。十代は立ち止まり、光を遮るように頭上に手をかざす。その先にあるのは花畑、というのがよくあるパターンだが、あいにくそこには雑草が生い茂った、花畑とは云い難い場所が広がっていた。アカデミアの教室より広いそこには、ふわふわとした柔らかそうな雑草が煩わしいほど生えている。その中に紛れ込むようにとげとげした葉を持つ雑草やら小さな紫色の花やらタンポポやら、いろいろな草が伸び放題育ち放題になっている。花畑と形容はできないが、かといって荒地と表現するにはおしい場所だ。とても微妙すぎる。
 マシュマロンは草の中に飛び込み、嬉しそうに声を上げる。十代はそれを目で追い続けた。マシュマロンがひときわ大きく飛び跳ね、何かの上に飛び乗った。
 人だ。人がいる。十代は心底驚いた。その人はこちらに背を向けてはいるが、髪の長さや背格好から女の子と認識できた。その人の頭の上に乗ったマシュマロンは満足そうに笑ってすうっと霧のように消えていった。
「あ…」
 あれがマシュマロンの持ち主なのだろう。足を踏み出すと、踏み潰された草がかすかな音を立てた。その音にぴくりと身体を震わせたその人は、くるりと振り返る。きょとんとした顔立ちはやはり女の子だった。だが、女の子という表現では彼女の雰囲気に見合わない。かといって女性という表現も彼女の雰囲気に見合わない。まるでこの場所のように曖昧な外見だ。
 彼女の羽織っている黒いロングカーディガンから伸びた足はやたら細い。肌の白さもあいまって、十代に線の細い、はかなく可憐な印象をあたえた。制服を身につけていないせいか彼女の年齢は二十代とも取れる。もしかしてアカデミアの客人か、部外者なのだろうか。
 十代が訝しげにじっと見つめていると、彼女は少しだけ首を傾げてから、
「…こんにちは」
 ぺこりと頭を下げ、ぎこちなく笑って見せた。彼女につられ、十代もぺこりと頭を下げる。すると彼女はまたきょとんとしてから、はにかむように笑う。ほのぼのとした暖かい笑顔だ。というのに、何故か十代の足元に、ぞくりとしたものが這い上がってくる。ぽかぽかとした陽気なのに、なぜか気温が下がっていく気がした。ひゅう、と生ぬるい風が頬をなぜる。いつしか十代の頬に汗が伝うようになっていた。傍にいるハネクリボーがおびえるようにして十代の背後に隠れた。
「相棒…?」
 背後のハネクリボーを見やってから、十代は彼女に視線を戻し、ぎょっとした。
 体が透けて見える。十代は慌てて目をこすってみるが、どことなく、向こうに広がる林が見えるのは変わりなかった。十代は眉を寄せて何度も何度も瞬きを繰り返す。
「え? え?」
 わけがわからず十代が頭を抱えると、彼女が不思議そうに首をかしげた。そうして一秒もしないうちに、彼女はすうっと周りに溶け込むように消えていった。彼女が立っていた場所を、ひらひらと不安定に羽ばたく蝶が通り過ぎていく。十代は唖然とした顔のまま、背後のハネクリボーと視線を合わせた。ハネクリボーがおずおずと十代の顔の横に出てくると、いつしか十代から悪寒は消え去っていた。しかし頬に浮かんだ汗が消えることは無い。またハネクリボーと顔を合わせる。ハネクリボーも十代と同じように、怪訝そうな顔をしていた。
「…おばけ?」
 頬を抓りながら呟くと、ハネクリボーはおびえるように小さく鳴いた。抓った頬がじわりと痛みを帯びる。
 現実なのだ、これは。



2
 4時間目の授業の担当はクロノス先生だったが、あいにくクロノス先生は2時間目の始まりから本土に出張することになっており、その時間は自習となった。提出された課題はB5サイズの数学のプリント一枚だけ。先生もいないし、枚数の少ない課題に生徒たちは浮かれ、ここぞとばかりに自由に教室内を移動し、他愛も無い話題に花を咲かせている。オベリスクブルーの優等生組はこの状況が気に入らないのか、はしゃぎだすラーイエローの生徒に対し『静かにしろ』などと罵声を浴びせ、一瞬のあとにシンと静まり返ったものの、それでもヒソヒソとした話し声は収まらない。
 そんな中、十代はいつもどおり、翔と話をしていた。先生がいようがいなかろうが授業などお構いなしに十代は翔に話しかける。だからこそ彼が問題児扱いされているのだが、十代は気にしてはいなかった。話しかけられる側の翔もそれを迷惑とは一度も思ったことが無い。二人とも神経が図太いのだろう。
 それで、翔によると、最近アカデミアの生徒の中では、学校内に幽霊が出るといううわさで持ちきりらしい。デュエルアカデミアはもともとは無人島だったので、いくらテレビやラジオやインターネットが使い放題とはいえ、学校の関係者以外の人間は一部を除いて立ち入り禁止の、いわば外の世界から遮断されたこの島では、そういった噂はすぐに広まり、伝言ゲームのように話が大きくなっていく。皆が話題に飢えているのだろう。それにこのアカデミアでの不気味な噂話というのは大抵根も葉もない幽霊の噂話ばかりだ。旧男子寮に関する噂でも、闇のゲームで行方不明者がでたとかいう噂を除いてはすべてデタラメだ。旧男子寮に幽霊が居座っているという噂を聞くと、十代は『レッド寮にもユウレイがいるぞ』と言いたくなる。だが言った事はない。むしろ言えるわけがないのだ。大徳寺先生が幽霊になって未練がましくファラオとともにいる、とは。
「幽霊に出くわしたらどうしよう…」
 プリントの裏にデフォルメされたオバケの落書きをしながら、おびえたように話す翔を見て、いつもの十代であれば『そんなんただの噂だろー』などと一笑してみせるが、今回はそうもいかなかった。思い当たる節がありすぎるからだ。この前、森の中で見たあの光景は、今でも夢に出てくるほど十代の奥深くに残ってしまっている。
「まーなんとかなるだろ。友達になれるかもしれないぜ」
 あははと笑って見せると、翔が『そんなんいやっすお断りっすーっ!』と大声で叫んだ。
「静かにしろ!」
 とたんにオベリスクブルーからの罵声である。叫んだ彼はフーフーと鼻で息をして怒りを露にしている。目の色がもう尋常ではない。余程この状況にイラついているのだろう。ここは大人しく謝っておいたほうがいいなと十代は判断し、『悪ィ』と言いながら笑って“ごめん”のジェスチャーをしてみせると、彼はツンとそっぽを向いて席に着いた。オベリスクブルーの生徒は妙にプライドが高いから困る。
「アニキは幽霊が怖くないっすか?」
 おずおずと翔が聞いてくるので、十代はまたにかっと笑って見せた。
「そもそもユウレイとかオバケとかってのはさ、人間の心が生み出した幻覚なんだよ」
 って誰かが言ってた、と付け足そうと思ったが、格好がつかないのでそのままにしておいた。うーんとうなる翔を横目に、十代は器用にシャーペンを指先でくるくると回す。
「マボロシなんか信じる暇があったらさ、」
 シャーペンを白紙の数学のプリントの上に置き、十代はその場から立ち上がった。プリントを乱雑に折りたたみ、無造作に上着のポケットに突っ込む。
「メシ食おうぜ、メシ」
 十代が翔に向けて笑いかけると、きーんこーんかーんこーん、とちょうどよくチャイムが鳴った。
***
 珍しくも十代と翔は学食に来ていた。いつもは購買でドローパンを買う二人だったが、廊下を歩いている途中で黄金のタマゴパンを3年生が引き当ててしまったと噂で聞き、黄金の卵パンが食べれないなら意味がないと、学食にきたわけである。
 ブルー寮とつながっている学食は高級レストランばりに設備が整っており、当然、オベリスクブルーの生徒が多い。ラーイエローの制服もちょこちょこ見かけるが、オシリスレッドなど皆無に等しい。翔は気が引けたのか十代にくっついているが、十代はお構いなしに券売機の前に立った。どうやらここは食券制らしい。
 しかしまあ、なんというか。英語のメニューをそのまま発音どおりカタカナで表記した、十代には到底理解しがたいものから、うどんや焼きそばにラーメンと、庶民的なものまで幅広く揃えているあたり流石と言うべきだろう。しかし庶民的なメニューでも10種類も20種類もバリエーションに富んでいるものもある。デュエルアカデミアと言うものは本当に恐ろしいものだ、と十代は小銭を入れて月見うどんのボタンを押した。押してから、カレーうどんも食べたかったなあと悩んでしまう。
「アニキはうどんっすか…僕もそうしよっと」
 十代の背後から覗き込んでいた翔は、小銭を入れてボタンを押した。カレーうどんだ。
「翔、あとで俺のうどん一口やるから、カレーうどん一口くれよ」
「はいはい」
 うっしゃあと嬉しそうにガッツポーズをする十代に、何がそんなに嬉しいのかと翔は小さく息を吐いて、十代を引っ張りカウンターに向かった。十代の食券と一緒に、翔は自分の食券を差し出す。食堂の従業員がそれを受け取り、じろじろと物珍しそうに十代たちを見てから、厨房のほうにオーダーを流した。そうしてまたじろじろと見てくる。どうやらオシリスレッドが珍しいらしい。
「あーほらアニキあっち行きますよっ」
 その視線に耐えかねた翔が、また十代を引っ張り受け取り口のカウンターへ移動した。そこにいた従業員は十代と翔に対しじろじろと視線を投げかけるようなことはしなかったものの、それでも彼らを目にした瞬間目を見張ったのを翔と十代は見逃さなかった。
 妙に居心地が悪いが、けれども目の前にうどんの入ったどんぶりを差し出されると、そんな考えは二人の中から吹き飛んでしまっていた。緩やかに丸みを帯びた漆器の大椀に盛り付けられたうどんからいい匂いがする。
 箸はどこだろうかとカウンターを見回すと、カウンターの隅に黒塗りの、いかにも高そうな箸たてがおかれていた。その中に木製の箸がたくさん刺さっている。環境に配慮してのことなのか、割り箸は見当たらない。十代は翔のぶんも、と箸を二膳手にして、カウンターを後にした。座れる席はないかと探すと、窓の外に広がるテラスは比較的人が少なかったため、二人はテラスに出る。外に出ると初夏の冷たい風が吹き付ける。
「アニキー! こっちこっち!」
 いつの間にか翔が隅っこの席に移動していた。こういうところはちゃっかりしていて抜け目が無い。十代は手に持ったうどんを落とさないように、けれども小走りで翔が座っている席に向かうと、向かい側の椅子に腰掛けた。辺りを見回すと、青い海が一望できる。きっと夏になったらこのテラスは混み合うのだろう。
「さーて食うか!」
 十代が箸を持ったまま両手を合わせると、翔も両手を合わせた。
「「いただきまーすっ」」
 掛け声とともに二人はうどんをすすりはじめる。テラスにいる他の生徒たちはいかにもおフランスな料理を礼儀正しく上品に、フォークとナイフとスプーンのマナーをきっちり守って美しい食事を美しい仕草で堪能しているが、二人は食べやすさを追求しつくした庶民派マナーで対抗する。ずるずる音を立てて食べる二人に、近くの席の生徒が嫌そうに眉を寄せたが、二人は別に構わなかった。
「うめえ! なんだよこれ、…うめえ!」
 つるっとしたうどんは弾力があり、コシが強く歯ごたえがある。透き通った汁はベースが塩なのかさっぱりしていてクセが無い。濃い味を好む十代でもこの味つけは本当に美味いと感心してしまう。本当に美味しすぎて何と表現したらいいのか迷った挙句に、十代はそう言った。翔も同感だというように大きく頷く。
「すげーな学食って…」
 レッド寮の食事が少しだけ惨めに思えたが、エビフライを思い浮かべるとレッド寮の食事も捨てたものではないと思い返す。それにレッド寮の食事はとても庶民的でマナーに煩くなく、開放感にあふれている。この学食の雰囲気とどっちが好きかと問われれば、断然、レッド寮をとるだろう。
「そうだ翔そっちのうどん一口くれ!」
「あーハイハイ。アニキのうどんと交換っす」
 お椀ごとうどんを交換する。茶色いどろっとした汁の中からうどんを一本とり、口に運んだ。やっぱりうまい。
「なー翔、明日から学食のうどんフルコンプしようぜ!」
「え? 黄金のタマゴパンの記録更新するって意気込んでたじゃないっすか」
「あー…そうだった。うーん、どうすっかなあ」
 むん、と口を尖らせて腕を組み、十代が悩むそぶりを見せると、翔ははあと盛大に溜息をついた。しかしそのあとにしょうがないなあといった感じで苦笑してみせる。
「んじゃあドローパン一個だけ引いて、こっちでご飯食べようよ。パン一個だけならうどん食べてもおなかに入るだろうし」
「おお! なるほど。じゃあ明日からそうすっか」
 けたけたと笑う十代は『カレーうどんうめえな』と言って翔にカレーうどんのお椀を返した。翔も慌てて十代の月見うどんをすすり、十代にお椀を返す。それからほぼ無言の状態で、二人はうどんを食べる。食事中、十代が喋らないのは珍しく、翔はそれを指摘してからかってやろうと思ったが、それよりもまずはうどんだと手を動かす。
 麺を食べ終え、椀を持ち上げ口をつけ汁を全て飲み終えると、十代はぷはっと爺むさく息を吐いて満足そうににんまり笑って見せた。翔も十代と同じタイミングで食べ終わったらしく、空になった椀をテーブルの上においているところだった。
「「ごちそーさまでした」」
 南無、と手を合わせたあと、二人は椅子から立ち上がる。
「5時間目なんだっけ?」
「実技っす。クロノス先生いないから、必然的に自習っすけど」
 言って、二人は示し合わせたようににかっと笑った。いくら課題が出るとはいえ、指導者から解放され自由に勉強できる自習ほど嬉しい授業は無い。
「んじゃーさっさと行くか」
「そうっすね」
 自分が座っていた椅子を押してテーブルの中におさめ、十代と翔はテラスの出入り口へ向かった。のだが、いきなり十代が足を止め、よそ見して歩いていた翔は十代の背中にぶつかった。
「あ、アニキ、いきなり止まらないで…」
 言いかけて翔は首をかしげた。十代の様子が尋常ではなかった。十代は目を見張り、張り詰めた空気をまとわせ、とある一点を凝視している。十代につられ、翔もそちらに目を配った。だが異常な箇所は見当たらない。いたって普通だ。
「なんで、」
 十代が呟く。なんでアイツがいるんだ、と出かけた言葉を十代は必死に飲み込んだ。
 一番奥のテーブルに、この前の幽霊がいたのだ。カーディガンの色こそ違えど、けれどもあの特徴的な容姿はあの時の幽霊だ。間違いない。今ならあれが森の中で見た幽霊だと神にだって誓える。その幽霊といえば、テーブルに湯気のたったティーカップだけを置いて、文庫本片手にサンドイッチを食べていた。ラップに包まったサンドイッチは購買部のものでも学食のものでもない。幽霊が普通に食事をしている事が腑に落ちないが、生前は人だったのだろうし食事をする“フリ”くらいはやってしまうのだろう。近づくのは危険だと思ったが、それよりも好奇心が勝った。それに大徳寺先生だって幽霊だけどいたって安全だ、と理由付けて十代はそちらに足を踏み出した。
 ガン、と鈍器で頭を殴られたような衝撃が十代を襲い、十代はびくっと身構えてぎゅっと目を瞑った。ガンガンと頭痛がひどくなる。何なんだ一体、と内心呟き十代は堪えるように眉を寄せて、ゆっくり目をあけた。息を呑む。雲ひとつ無い青空が、目の前に広がっている。その先には広大な荒地。草ひとつ生えていない。以前隼人が“エアーズロック”と呼ばれる場所の風景を描いていたが、まさにそういった感じの風景だった。思わず十代は瞬きして足元を見て、後ずさった。一歩先には奈落の底と呼べる暗闇が広がっている。どうしてか十代はがけっぷちの先端に突っ立っていた。片手に箸、片手に椀という格好で。
「え…? あれっ!?」
 わたわたとあわて始める十代が、弾みで地べたにある石ころを蹴ると、その石はぽーんと跳ねて奈落の底へと落ちていった。十代はびっくりして崖の底を覗き込む。石はゆっくり落ちて落ちて、見えなくなって、景色が変わった。びくっと十代は大きく震えて、キョロキョロと辺りを見回す。外国の風景は学食のテラスへと変わっていた。そばで翔が心配そうに十代を覗き込んでいる。
「アニキ? どうかしたんすか?」
「え、あ…いや」
 白昼夢でも見てしまったのだろうか。さっきまでの酷い頭痛は治まっている。ふとユウレイがいた場所を見ると、テーブルに湯気のたったティーカップだけが残されていた。





3
 アカデミアに幽霊がいるという噂は、日増しにどんどん広まっていった。
 それは黒髪の白い着物を着た女であったり、筋肉ムキムキでしろくまのような大男であったり、血まみれのミイラだったり、自分の首を引っさげた落ち武者だったりと出で立ちは様々だが、それでも幽霊を見たと豪語する者は増えてきた。ちなみに十代もその中の一人だったりするが。
 アカデミアにひっそり存在している新聞部はここぞとばかりにこの噂をトップニュースで扱っている始末。学校のロビーの掲示板に幽霊についての証言をまとめた新聞記事が昨日から張り出されたが、その周りには生徒が耐えることは無い。アカデミアの生徒にとっての話題の中心は今やアカデミアじゅうを徘徊する幽霊となりつつある。以前まではレアカードの話で和気藹々としていた教室は幽霊の話ばかりで、翔は怯えが一層ひどくなり十字架を首から提げ時折変な呪文を発するし、万丈目や明日香や三沢と話をしても必ず話題に幽霊の話があがる。クロノス先生が出張から帰ってきて、いつも通りの普通の授業に戻っても、授業中、幽霊に関してのひそひそ話が途絶えることは無い。
 教室じゅうに陰湿な空気がこもり、息が詰まって仕方ない。十代は逃げるようにいつもの場所にやってきて、朝からそこでくつろいでいた。もうなんだかあ~あ、という感じである。居心地がとてもいい寮ですら、幽霊の話ばかりで気が滅入る。いつまでこんなのが続くんだろうとぼんやり綿菓子のような雲を眺めて考える。幽霊ってのは未練があるからここに残るんだよな、と考えてから、十代は勢いよくがばっと起き上がった。
「そっか! 俺が成仏させてやりゃあいいんだ!」
 俺ってちょう天才! と十代は一人笑い始める。こうなれば情報収集だ。手始めにロビーに移動すべく十代は立ち上がり、アカデミアの玄関から延びる石畳を見下ろした。道の両脇の石碑のなかにクリボーがいるのはとても喜ばしいことだと十代は思う。この石碑を作った人たちはとてもわかっている。一人うんうんと十代は頷いて。
 そうして気づいた。クリボーの石碑に誰か腰掛けているのに。
 十代は慌てて階段を駆け下りた。一段も二段も飛ばしながら、全力疾走で廊下を突っ走る。ロビーに出るが十代は掲示板に目もくれず、一目散にクリボーの石碑へ向かった。
 立ち止まる。静かに息を飲む。
 幽霊が石碑に寄りかかって眠っていた。
 穏やかな寝顔は一見悪い幽霊には見えない。むしろ善人の面構えだ。すうすうという呼吸音は聞こえないが、それでもゆっくり肩が上下している。幽霊でも息をする真似をする奴がいるらしい。足を踏み出すと、幽霊がぴくりと動いた。眉を寄せて、むにゃむにゃと口を動かす。
「ん…もうたべれないよぉ…」
 そんな寝言が聞こえて一気に脱力してしまう。口の端を持ち上げてにんまりとする幽霊になにか共通するものを感じつつも、十代は幽霊に近寄った。間近に立って見下ろしてみるが幽霊は起きる気配すら感じさせない。爆睡しているようだ。
――――ましゅー…。
 ほんわりとした声がして、ふわっと風が吹いた瞬間、幽霊の膝の上にマシュマロンがちょこんと乗っていた。マシュマロンは困ったように口を引き結んで『ましゅーましゅー』と鳴きながら体を伸び縮みさせる。あまりのかわいさに十代はへにゃりと顔を緩めたが、いかんいかんと首を振ってそれを振り払う。幽霊に手を伸ばしてみるとマシュマロンの声は張り詰めたようなものに変わった。まるで十代に警鐘を示しているといった感じでだ。
「大丈夫だって、お前のご主人様は俺がちゃんと成仏させてやるよ」
 言うと、マシュマロンは面食らったような顔をしてから、ぶんぶんと首を振った。それからぽよんぽよんと幽霊の膝の上で忙しなく跳ね始める。
―――ーマシュー! マシュマロー!
 まるで危ないと言われている気がしたが、十代は気にせず幽霊に手を伸ばした。手を伸ばして何になるのかわからなかったが、とりあえず幽霊は透けているから触ろうとすると突き抜けるということをやってみたかったのだ。不純である。
「あれ?」
 しかし、なぜか自分の手が幽霊の身体を突き抜けない。むしろぺたぺたと触れてしまう。縫い目の粗いカーディガンのざらざらとした質感が指先に伝わり、十代は少しだけ後ずさった。…なんだこれ。そんなフレーズが頭の中を占領していく。
 すると、どうしたことか、目の前に何かがふっと現れた。金色の髪をたゆたわせた、銀の胸当てに金色の衣服、金色の羽衣を身にまとい、顔半分を耳から下げた布で覆い隠しているその人。いや…人ではない。カードの精霊だ。名も知らぬその精霊は右手の杖を高く掲げた。
――――地獄で後悔するがいい。
 金色の精霊にマシュマロンが飛び掛るのと、十代がまばゆい光に包まれるのはほぼ同時のことだった。十代は両腕を顔の前で交差させて身構える。光がまぶしすぎて何も見えない。
 ふわり、と身体が浮遊する。
 恐る恐る腕をどけると、一面の白の中にいた。
「…どこだよ、ここ」
 冗談だろ、と十代は皮肉げに笑って辺りを見回した。だがどこもかしこも真っ白だ。上も下も右も左も全部ペンキで塗りたくったように真っ白だ。何が自分の身に起きたのか、さっぱり理解できない。十代は足りない頭で必死に考え、そうして出た結論は頬をつねる、と言うことだった。
 右手でむぎゅっと自分の頬をつねる。痛い。
「あーもー一体なんなんだよ!」
 大声で叫んでみるが、声が反響せずにあたりに飛散して消えていくのがわかった。つまりここは壁といったものが無い。世界の果てが全く存在しないのだ。どうやらあの金色の精霊に閉じ込められたらしいが、ここは人間を閉じ込めるような簡単なスペースではない。もしかしたらここは宇宙並みの広さがあるのかもしれない。清廉潔白な白色の世界だが、ここはまさしく地獄だ。ただの闇も恐ろしいが、ただの白い景色も恐ろしいものだと十代は感じた。
 ジャンプをしてみたが、果たしてジャンプできたのかどうかわからない。むしろ足の裏に衝撃が来ない。どうやらここには床というものが存在しないようだ。十代は口を尖らせて腕を組み、胡坐をかいた。座っている感覚は無いのに、けれども座っている姿勢に違和感を覚える。無重力と言うのはこんな感じだろうかと思っていると。
 世界が、一転した。
 どす黒い赤に変わってから、一気に黒へ変色していく。いきなりの変化に気をとられて、十代はあたりを見回すことしかできなかった。
 そしてずしん、と全体に重くのしかかってくる重力。慌てて手を伸ばして掴むものを探したがここにはそんなものはない。抗う事ができずに、そのまま黒い世界を落下していく。
「うわああああああ!?」
 すごい風圧に十代はじたばたともがき始める。ないとはわかっていながらも、掴まるものを探す事をあきらめることはできない。
「お、おちっ、おちるううう!」
 落ちたところでどうなるか知ったこっちゃないが、それでも人間の本能が危険だと告げている。
「だっだれかあああああ」
 半狂乱になって叫んでいると、手のひらに暖かい何かが掠った。
「十代!」
 名前を呼ばれて十代はびっくりして動きを止めてから、その方向に手を伸ばすと手首をグッと掴まれた。落下が止まり、その衝撃が身体を襲う。ガクッと手首から抜けてしまいそうになって、十代は顔をしかめた。
「大丈夫か!?」
 オベリスクブルーの制服に身を包んだその人は、紛れもなく。
「…かっ、カイザぁ!?」
 丸藤亮、その人だった。
「な、なんでカイザーがここにっ!?」
 驚いてビクッとする十代に、亮が顔をしかめる。
「それはこっちの台詞だ。…十代、無駄に暴れるな。落ちるぞ」
 思えば今の状況はカイザーになんとか腕を掴まえてもらって宙ぶらりんの状態なのだ。十代は口を引き結んで硬直する。
「俺はミノムシ、俺はミノムシ、俺はミノムシ…」
 気が狂ったのかぶつぶつとそんな事を呟きだす十代。その上で亮がはぁっと盛大に溜息をはいて見せた。
「うあー、重いです」
「支えきれないです」
 亮の上からそんな声が響く。子供のようなその声に十代は何度か瞬きを繰り返してから、ぎょっとした様子で上を見た。十代の視線の先には亮。どうやら今のつぶやきは亮が発したものだと十代は疑っているようだ。対する亮は眉を寄せて『俺じゃない』と静かに首を振り、上を見上げた。亮の伸びた左腕の先に、水色とピンク色の、なんとも形容しがたい生物がひっついていた。2頭身のそいつらの頭の先にはふさふさと毛が生えていて、身体にはぐるっと浮き輪のように白い輪っかがついている。ピンク色のほうの頭の形はハートのような、ジェリービーンズのような形をしていて、水色のほうはしずく形をしている。その特徴的な外見は、十代には見覚えがあった。
 ノーマルカードでレベルは4、攻撃力は1700で守備力は0、戦闘では破壊されず、光属性もしくは天使族モンスターを生け贄召喚する場合、2体分の生け贄として扱う事ができる、という、あれだ。そう、あれ。名前が出てこない。
「…ジェルエンデュオ?」
 やっとのことで呟くと、ジェルエンデュオはぽかんとしてから。
「呼ばれたのです」
「呼ばれてしまったです」
 えへへぇ、と二匹揃ってにこっと笑い出す。なんとも愛嬌がある精霊だ。
「しかし、重いです」
「とてつもなく重いです」
 交互に喋りながらジェルエンデュオが苦しそうに目を細める。眉間に皺がよっているから、どうやら相当踏ん張っているらしい。しかしこんな空間の中で、ジェルエンデュオはなぜ落下せずにそこにいられるのだろう。精霊だからなのだろうか。
「一人ずつだったら支えれそうか?」
 亮がジェルエンデュオに親しげに話しかけるので、十代は呆然とした感じでジェルエンデュオと亮を交互に見比べた。どうやらこの三人…いや、一人と二匹は初対面ではないらしい。
「むりですよう」
「ぼくらで一人を支えるのがせいいっぱいです」
「そうか…」
 ふむ、と亮は考え込むそぶりを見せて。
「…何秒くらい持ちそうだ?」
「あとちょっとだけです」
「時間に換算したほうがいいですか?」
「…いや、いい」
 諦めたように亮が目を閉じる。
 そして浮遊感。
「だああああああおちるうう!」
「ごめんなさいー」「うらまないでー」
 と言いながらジェルエンデュオ、落ちるのが怖いのか亮の肩にぴったりくっついている。
「少しは落ち着け十代」
 これが落ち着いていられるか。どんな精神力してるんだあんた。勢いのあまり十代はそう口走りそうになって、慌てて口をつぐむと、がちっと舌をかんでしまった。痛い。

08/05/31