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朝の風景

 早朝、宗師の鍛錬が終わり、解散の空気が蔓延しはじめた頃。
「ズオ・ラウ。君、ガン=カタを知ってるかい?」
 一人の男性が歩み寄って来たかと思えばそんな問いを投げかけてきて、ズオ・ラウは驚きから固まった。
 ガン=カタとは武術の一種である。東洋武術の功夫などを基礎とし、その性質と振る舞いに二梃拳銃を組み合わせたものだ。
 強いものと強いものが合わさり最強に見える――などとのたまう輩もいるが、至近距離で銃をぶちかましながら殴る蹴るを加えるので、ズオ・ラウは邪道だと思っている。
「ええと……知っています」
「興味ある? そういう集まりがあるんだけど」
「いえ……」
 期待に身を乗り出してくるので、ズオ・ラウは引き気味になりながら首を横に振った。
 これは勧誘だ、とズオ・ラウは確信した。ロドスでは共通の趣味を通して集まる市民活動が活発だとドクターから聞いていたのだ。普遍的なスポーツや芸術鑑賞、勉強会はもちろん、果てはこのような武術にすらも同好会が存在する。
 ロドスに来てかれこれしばらく経ったが、とうとう自分にも勧誘の声がかかるようになったのか、とズオ・ラウは場違いな感心を覚えた。
「でも、君が会得したらもっと強くなれると思うよ」
「……功夫はもちろん剣術の基礎ですら、思い通りになっていません。それなのに型破りを加えるのは、抵抗があります……」
「そこをなんとか。話でも聞いてみないか?」
「申し訳ありません、宗教勧誘はお断りしています……」
「そんな……」
「では、失礼します」
 立ち尽くす男性に一礼し、ズオ・ラウは立ち去った。
 ここでの生活で分かったことだが、この移動都市には常識の範疇からはみ出しかけた奇人変人が多い。真面目な顔で頭を爆発させた状態で闊歩している青年や、大の大人がスツールでレースしたりと、皆が皆、のびのびと自由に振る舞っている。
 規律を重んじる百灶にはない光景だ。
 だから歳の代理人達も、ここに身を寄せることを選んだのだろう。

 ズオ・ラウは自室へ着替えに戻る前に、購買に立ち寄った。
 朝食の時間帯なので、人は閑散としている。朝のトレーニング帰りの人が必要なものを買っていくくらいで、レジを担当する店員は暇そうに欠伸をしていた。
 以前汚したタオルの替えが欲しかった。ついでに補充用のインクと予備の筆記用具、それから生活するにあたって必要な物などを、買い物かごへ無造作に詰め込んでいく。
「――?」
 飲料などが並ぶ冷蔵ケースの近くまで来て、ズオ・ラウは不意に、根拠のない違和感を覚えた。胸の中がざわつくような感じがして、しきりにキョロキョロと周囲を見渡すが、変な所は見当たらない。
 気のせいか、はてまた気にし過ぎなのか――ズオ・ラウは自分の警戒心の高さに呆れながら、自然な流れで手元の買い物かごに視線を移し、目を瞬かせた。
 かごの隅にカップのヨーグルトが入っている。無糖の、お一人様サイズだ。むろん、ズオ・ラウは冷蔵ケースからこれを手にとった覚えも、かごに入れた覚えもない。
 ズオ・ラウはもう一度周囲を見渡す。軽い焦燥感に急かされ、いたるところに目を向ける。まるで難易度の高い間違い探しをしている気分だった。
 そしてようやく、違和感を見つけた。
 日用雑貨が置いてある棚の端から、尻尾の先端がほんの少しだけはみ出していた。頭隠して尾隠さず、なんて言葉が脳裏にふと浮かぶ。
 これが誰の尻尾かなんて、ズオ・ラウには一目瞭然だった。
 やがて、尻尾がしゅるりと引っ込んだ。この尻尾の持ち主が移動したのだ。
「……」
 ズオ・ラウは呆れ混じりに忍び足で移動し、背後から回りこんだ。
 果たして棚の裏には、予想通りナマエがしゃがみこんでいた。ナマエはズオ・ラウがこのままレジに向かうと踏んだのか、そちらを伺うのに夢中で、ズオ・ラウが後ろから距離をつめても逃げ出す気配はない。
「あの」
「わっ!」
 頭上から声をかけると、ナマエは素っ頓狂な声を上げて跳ねるように振り返った。隠れていたつもりがあっさり見つかった事と、ささやかな悪戯を見抜かれたせいか、らしくもなく慌てふためいている。
「お……おはよう、ラウくん……」
 もごもごとした口調で、ぎこちない挨拶だった。
「おはようございます。ところで、ナマエさんは何をしているんですか?」
 ナマエは身体を縮こませながら、気まずそうに視線をさまよわせ、
「……スクワット」
「ここで?」
「……ここで……」
 言い訳がとてつもなく下手くそだなと思いながら、ズオ・ラウはかごの中に視線を移す。
 あなたがやったんですよね――そう問い詰めようとしたが、いまだしゃがみこんで身体を縮こませているナマエを見下ろし、ズオ・ラウはため息をついた。
 何も言わずに踵を返し、冷蔵ケースの方に向かう。陳列されている場所を見つけ、ヨーグルトを戻そうとして、やめた。かごに戻すついでに、もう一つ追加した。
 レジに向かって会計を済ませ、購買の中を見回したがナマエの姿は無かった。まさかもう帰ったのか? と思いながら購買を出ると、すぐ近くの壁にナマエがもたれかかっていた。その姿を見つけて安堵するズオ・ラウとは対象的に、ナマエはなんだか申し訳無さそうな笑みを浮かべながら、ズオ・ラウの方へと歩み寄った。
 ズオ・ラウが無言で袋の中からヨーグルトを取り出せば、ナマエの表情がぱあっと嬉しそうなものへと変わった。おもちゃを前にして尻尾を振る犬を彷彿とさせる。
「くれるの?」
「代金は?」
「……」
 一気に表情が暗くなった。
 ズオ・ラウはなんだか悪いことをしてしまった気分になった。が、ここで甘やかしては相手の思うつぼだ。
「奢るつもりは毛頭ありませんよ」
「けち」
「けちで結構。金銭感覚はもちろん、お金に関してはつましくあれと幼い頃からきつく言われていますので」
 ナマエは渋々とした様子で、ポケットから財布を出した。ズオ・ラウは代金を受け取る代わりに、イリスにヨーグルトを差し出す。ナマエは両手でそれを受け取ると、ほくほくと頬を緩ませていた。
 あまり見たことがない表情だった。まじまじと観察してから、
「……それ、好きなんですか?」
「うん。ヨーグルトなのに、もちもちしてて美味しい」
「そうですか……」
 いったいどんな食感なのか想像がつかない。ズオ・ラウが何気ない仕草で手に提げたビニール袋に視線を落とすと、ナマエもつられてそちらに目を向けた。半透明の袋越しに見える中身に目ざとく気付いたナマエは、意外そうに目をしばたたかせる。
「ラウくんも買ったの?」
「はい、気になったので……」
「美味しいよ。朝食の時に食べてみて」
 相変わらずほくほく顔で言ったかと思えば、打って変わって不思議そうな顔になる。
「ラウくんは鍛錬の帰り?」
「はい、これから自室に戻って着替えるところです。ナマエさんは?」
「今からご飯食べに行くとこ」
 そう言うと、どこか気まずそうに微笑んで、
「一緒にご飯どうかなと思ったけど、ちょっと間が悪かったね」
 と曖昧に言うので、今度はズオ・ラウが慌てふためく番だった。
「もし、ナマエさんが少しの間待っててくだされば、急いで着替えて戻ってきます」
 食い下がる勢いで言うズオ・ラウに、ナマエは何度も目を瞬かせると、
「じゃあ、あそこで待ってる」
 近くのベンチを指さした。
「ラウくんのヨーグルトよこして。ご飯のあと、一緒に食べよ」
「あっ、ええと……、はい」
 袋から取り出して渡すと、ナマエは大事そうに受け取って、空いた片手をひらひらと振った。
 それを合図に、ズオ・ラウは廊下を全速力で走った。
 自室に戻ると荷物をベッドの上に放り投げ、大急ぎで着替えを済ませる。
 時間にして何分経ったのか。一人で勝手に急き立てられるまま全速力で戻ると、ナマエはベンチに座ってぼんやりしながら、どこか遠くを眺めていた。
 だが、駆け寄る足音に気付くとそっちに顔を向け、ズオ・ラウの姿を見つけて嬉しそうに笑う。途端にズオ・ラウの中に言葉にしにくい感慨が込み上げてきて、それを必死に押し殺す。
「ぜーはーしてるね」
「わ、笑わないでください、急いだんですから……」
「ふふ、えらいえらい」
 からかう調子だったが、ズオ・ラウは不思議と嫌な気はしなかった。
 ナマエはよいしょ、と立ち上がって、手元のヨーグルトをズオ・ラウに向けて差し出す。
「それじゃ行こっか」
「はい」
 ズオ・ラウが受け取ったのを合図に、足並みをそろえて、並んで歩き出した。