PRISM Histry
PPRISM の名前の由来は anorama RIder’S Mate (プリズム)の無理矢理な語呂
合わせから来てます。

常磐自動車道いわき湯本 IC の上部に湯の岳という標高 600 M 程の山が有り、昔ここにパノ
ラマラインと言う有料観光道路が有ったのですが、他の通り抜けられる観光道路と違い、この
山の山頂に行って帰ってくるだけの有料道路だったため、思いの他利用者が少なく、開通して
わずか数年で有料道路の料金所は廃止され、交通量のほとんど無い路面の良いこのワイン
デングロードは、地元ライダーのパフォーマンススポットとして当時はかなりの賑わいを見せて
いました。

1984 年春にこのパノラマラインに通っていた一部常連組みの中から気の合う始めは 3 人(K
島、私、S平)で、折角仲良く成ったんだから何かチームを作ろうという事で、パノラマ ライダー
ス メイト 略して "プリズム" と命名して始まり、徐々に常連組みカラも入ってくるメンバーも増
え、この年の暮れの頃には、30 人程までのチームに成りました。

この頃のプリズムの行動パターンは仕事が各自休みの日は、朝から晩までパノラマラインの
パーキングで集まり、走りに、バイク談議にと、他の常連組みの顔馴染みや、ツーリングで他
県から来たライダー達と仲良く過ごしてました。

往々にして、バイクに乗ってる人達は、1人で行動する人が多いのですが、どんな時でも、パノ
ラマに行けば、必ず誰かいるだろうなって感じで、皆、完全に日課になってる状態で、学校の出
席率は悪かったくせに、それは皆勤賞を狙っているかの様に、素晴らしい物でした。
朝、パノラマに行くのに、頭の中によぎる事は、今日も無事にこの家へ帰って来れるのかな?
などと、自分の身を案じてしまったりして、今思えば随分と危険な事を何も考えずにやっていた
物だとあきれてしまいますが、、、

毎週火曜日の夜には、ミーテングと称し(ただ集まって遊んでいるだけ)、4 帖半の狭い私の部
屋に 10 - 15 人ほど、押し競まんじゅう状態で集まったり、小名浜港の埠頭や、みさき公園に
バイクで繰り出し、何かにつけて、遊んでいました。ほとんど、パノラマ プレイ メイト 状態でし
た。


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しかしこのメンバーの中でただ一人、CBR 400F でレースを始めた奴がいました。
プリズムの当初からのメンバーS平です。84 年のこの頃は徐々にバイクレースブームの兆し
が見え始めていた時期でした。

当時彼はまだ高校生で、免許暦 2 年。当然ながらトランスポーターも無く、レースが行われて
いた、仙台のスポーツランド SUGO へ、レースで使う CBR にまるで北海道ツーリングにでも行
くように、荷物を満載して、たった一人自走して、参戦していました。

パノラマでS平は、プリズムの仲間内では最速でした。そんな彼がサーキットという、厳しいステ
ージで、何処まで通用するのかと、周りでは自分では出来ない事(お金がかなり掛かりそうだ
し、周りにやっている人はほとんど居なかった)に対する、憧れと期待を持って見ていました。

私も含めて他のメンバーはお気軽に出来るミニバイクレース(当時はまだ NSR 50 は無く、RZ 
50 やガンマ 50 がメイン)でもやるか、などと話が出始めていました。
(この頃、地元いわき市のむつみサーキットでミニバイクレース仲間だったのが、'96 '97 の全
日本 GP 250 チャンピオン ラッキーストライク SUZUKI の沼田憲保選手でした。)

85 年に入ると、S平は NSR 250 R にマシンを替え、レースに行く体制も、見かねたプリズムの
リーダーK島さんが、トランポの運転手を1年間勤める事になり、どっぷりレース活動にはまり
込んで行きました。
結果も1桁入賞するほどになり、レースのリザルトの中にあるS平とPRISMの名を、雑誌で始
めて目にした時の嬉しさと、誇らしい気持ちは今でも、忘れられません。

S平が、成績をあげて行くにしたがって、私の中にもプロダクションレースに対する憧れが、沸
き上がってきました。ミニバイクレースで味わったパノラマラインでは経験できなかった面白さ
を、SUGO で試したくて仕方なくなり、とうとう 86 年の春には SUGO に通い出しノービスライセ
ンスを取ってしまいました。
この頃は正にレースブームがブレイクして、サーキットは凄い賑わいでした。

S平はこの春から仙台の名門チームのホンダ系レーシングチーム”クルーズ”に入って、ドップ
リとレースの世界に浸って行きました。
クルーズで彼は、気の合う友達を見つけ、良く一緒に行動していました。その友達の名は伊藤
真一。そう、あの鈴鹿 8 H 耐久の '97 '98 のチャンピオンです。

伊藤君は当時クルーズのエースライダーでしたので、負けん気が強いS平にはかなり良い刺
激になって居た様でした。そのせいもあってか、彼もメキメキ腕を揚げ、練習走行などでは、伊
藤君にカナリ近いタイムを出すなどして、本番のレースでも上位入賞するほどまでになり、87 
年にはジュニアに昇格しました。

私は、その年は FZR 250 で SP 250 F クラスに SUGO でエントリーしてました。働いた給料の 
120 % をレース活動資金に充てていたので、私生活は超貧乏!
着てる服はレースで貰った景品の T シャツやトレーナーばかり、ジーパンは 2 本しか持ってい
なくて、膝は抜けてたりします。
でも、好きな事に一生懸命打ち込めていたので”ぼろは着てても心は錦”って感じで、貧乏が返
って楽しかったりしました。

サーキットに行くと、同じいわき市からきてる仲間達が集まり、チーム同士の繋がりも良好で ”
STAFF RM”や”爆夷車屋(バイクヤ) RT”などとトランポを並べてワイワイとオートキャンプ状態
で盛り上がったりしてました。


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しかし 87 年のシーズン終盤には、信じられない出来事が起こってしまいました。
SUGO で毎年 10 月に恒例で行われてた TBC ビックロード選手権から、暗い影が差し掛かっ
てきていたのかもしれません。

S平はこのレースで TOP グループを走っていましたが、シケインで転倒リタイヤを期してしま
い、肩と腕を傷めてしまいました。怪我の程度はまあ良くある打撲程度だったのですが、三角
巾で肩から腕を釣っている状態でした。

87 年の全日本選手権は残す所最終戦の筑波のみ、イベントレース的要因が強い TBC ビック
ロードよりは、筑波のレースがシリーズ戦を追いかけていたS平にとっては、重要なレースでし
たが、その筑波のレースまで怪我を治す十分な日にちは無かったので、出場は彼自身半ば諦
めて居たのですが、最終戦の1週間前頃の時期に、完全では無いけれどある程度バイクに乗
れるぐらいのレベルに、回復してる事に気が付き、出走すると言い出しました。
プリズムのメンバーは、止めた方が良いな、危ないな、と誰もが思っていたのですが、言い出し
たら聞かない彼を止めるまでにはいきませんでした。

そして問題の最終戦、彼はやはり出走しました。
スタートした彼の走りは、怪我の影響はほとんど出ていないかの様に見えていたそうです。
そしてレース終盤最終コーナーを 7 位ぐらいで彼は立ち上がってきた時に、単独でスリップダ
ウン、グランドスタンドの観客が見てる目の前でした。転倒自体は見ていても其れほど危ない
物では無かったそうです。

すぐ後ろを走っていた他のマシンも俊敏に彼を避けてくれて、誰もがホッとした次の瞬間、1台
のマシンが吸い込まれるように彼に向かっていってしまい、轢いてしまいました。

S平は救急車で病院に運ばれ、彼を救うために、色んなチームのライダーやレース観戦に来
ていたギャラリーの方まで、とても大勢の方に、輸血してもらったりしましたが、その日の夕方
に昏睡状態に入り、1月後の '87 12/9 に帰らぬ人となってしまったのです。

20 才の若すぎる最後でした。レーサーとしても、周りから、これからが一番楽しみな時期なの
にと、誰もが惜しみました。私にとって、彼の存在は知り合ってからのバイクや遊びの思い出そ
のものであり、一番身近な目標でした。PRISMのみんなのショックは言うまでも有りません。

親友との別れが、”死”という初めての経験にどう対処して良いのか見当も付かずに色々な事
を考え、これから自分自身のレース活動の事自体、色々悩みました。止めようかとも思いまし
た。
しかし、彼と引き合わせてくれた物がバイクで、彼と別れた物も同じバイクにしてしまっては余り
にも寂しすぎるし、そんな事は彼自身も喜ぶ事では無いのではないかと想い、88 年もレースを
続ける事にしました。


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88 年のレース開幕前に、伊藤真一選手のまさかいきなりのホンダワークス HRC 入りが決定
しました。
これは当時ではカナリセンセーショナルな出来事で、各種雑誌で”シンデレラボーイ”と報道さ
れ、衝撃をあたえました。

そして、私自身もこの年からモリワキクラブのライダーとして走る事が出来、私の中ではS平が
プレゼントしてくれたのではないかと今でも思っています。
そしてリーダーのK島さんは、バイク雑誌 RS の 現 編集長 A木さん(当時 CS の編集員)に以
前から趣味だったカメラの腕を買われて、SUGO、エビス、西仙台などで行われるレースのカメ
ラマンに成り、今現在も続けています。

かれこれ 10 年以上の歳月が流れて、今ではPRISMのメンバーも、バイクを降りてしまった
者、交通事故で亡くなった者、バイク屋を OPEN した者、社長に成った者、皆それぞれ別々の
生き方をしていますが、青春時代の一番の思い出を与えてくれた、PRISMでの出来事は、生
涯忘れる事が無いくらい皆の中に住んでいると思います。

私はこのPRISMを何らかの形で残して行きたいと想っています。自分が自分で居られる原点
はここだと思うから。

コンセプトは

人から馬鹿だと言われることに快感を感じる事。 
自分が楽しめる事。 
他人とは違う事。 
これを忘れずに、色々なジャンルで、楽しんでいきたいと思ってます。S平がそうだったよう
に、、、、、


 S平と伊藤sin1選手
 

このページを遊びの天才だったS平に捧ぐ、、、、、、by eiji

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伊藤真一選手から見た壮平の物語も
伊藤真一オフィシャルHPの「Voice」のコーナー「Voice Vol 10(特別編)」で
紹介されております。是非覗いて見て下さい。

http://www.ito-shin1.net/

彼の心の中にも、壮平は強烈な存在で有り続けて居ます

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