GUNROOM
士官次室


存在と無 色と空 メモ。

存在と無 色と空 メモ。(2008年8月の考察)

色不異空 空不異色
色即是空 空即是色

色と空の関係を連続して4回も主語を反転させながら繰り返すのはいかにも異 様な文字使いです。こんなに、繰り返すのは、色と空が、反対概念で、通常両立 不能であるが、しかし、聞く人にその関係の超越を要請しておるのです。

私は、色は有でも良いと思っていましたから、有の反対語として 空は無と同義 語と考えてさほどまちがっていないだろうと思っていました。と同時に、この翻訳 者は、なぜ無という文字を当てなかったのか。あえて無をさけてわざわざ空という すこし変な言葉を当てたのは、きっと何かを狙ってのことなのではないかと思って きました。

サルトルは「存在がそこにあるといえても、無がそこにある」とは断じていえないと 言っております。彼は、世界は存在で満ちておりその存在のふもとから無が分泌 されると言うのです。世界の内は存在で埋め尽くされており、その中で 裂け目と して無がのぞくと言っている。先に存在があり、しかる後に無が現れる。存在は あると言えても無はあるとは言えない 無は存在の否定であり、 故に、存在の 麓でしか出現できない何者かだと言うのです。従って 存在と無は同時並列では なく、後先関係にあると言います。

以前は、私は 般若信行とは、「存在」と「無」を一旦同時同列に並べて置いて、 一瞬一気に飲込み「不二」(二つに分かれず)あるいは「一如」という感じで迫って いると考えていました。 こういうの神秘主義ですよね。形而上学は暴走します。 神秘主義も暴走します。
存在と無は、本来不二である。一歩進めて、生死不二、善悪不二、男女不二、 天地不二、不敬にも神人不二 仏人一如 なんか思っていました。これすごいで すねぇ。人には何ほどかの神性仏性がもともと含まれいてるという考えになりま す。一如説はスーパーブラックホールです。すべてのものを飲み込み、しかも消 化し続けます。

実に、超越を迫っておるのです。超越とは、日本仏教では悟りに他ならず、悟りと は体験に裏付けされた認識ということでよいと思います。東洋は悟りにやかまし いのが特徴です。認識だけの独走を許さない。理性だけの暴走を許さない。認 識は巷に溢れますが、体験は、限られた人のみとならざるをえません。正しく覚 ったひと、即ち正覚を取った人とは、仏、如来、です。仏教の人類史において、そ れは、釈迦一人であったわけで、すなわち釈迦如来であり、僧をはじめに心ある 人は、釈迦の体験を疑似しようと努力するわけです。

しかし、信行は無とは言っていません。空です。「箱は空(述語としての空)であ る」。この場合、「箱(の中身)はカラである」という事になります。しかし、「空は箱 である。」といえるのでしょうか。「空(主語としての空)は**である」といえるか。  般若信行は、不異 不異 是 是 と主語を四回も入れ替えて強く「空は箱であ る」と肯定しているのです。そのためには、箱そのものが空 即ち箱と見えるその ものが カラ(空)でなくてはなりません。カラとは中身がないことですから、枠(外 形)だけはあるように見えるが 実はその外形そのものがすでにカラであるような 箱の存在、そんな透明物体みたいなものが依然として箱として存在なんかできる のかということになります。当然にそんな物は、物理空間的に考えて、箱という存 在を示すことが出来ません。これはもう理性の暴走です。ここで、体験に裏打ち された何かが必要となります。箱の存在とは、もともとそういう なんとも頼りのな い存在 に他ならないと 体中で思い当たり納得する体験が ある日訪れなけれ ばならないのです。
ここで瞬間に悟ります。超越が瞬間に起きます。そういう存在の在り方を空と言う のだとして、詰まるところ「空は箱なんだ」になるのだと思います。箱のたとえは、 直ちにすべて存在に飛び火しますから、空存在なりという立場をとることになりま す。

よく譬話として出てくるのが、柴で作った庵の話です。昔、庵は柴を集めて縄で結 いで庵を造りました。ある時縄を解いて元の柴の固まりに戻しました。さて、この 庵は存在したのかしなかったのか またはそんなこと超越した別の存在のあり方 だったのでしょうか。そういう別の存在の在り方を因果存在といえるかもしれませ ん。もともとは一切は空で、ある因果で存在し ある因果が解ければ存在しなくな る存在。因果を持ち出す限り、すべての存在には意味があるという立場をとるこ とになるでしょう。人の存在も然りとなります。

別の存在の在り方なんか存在するのかということですが、少し感じは異なると思 いますが、サルトル的には、実存でしょうか。第2の存在形式。物質の存在形式 とは異なるとする、人の存在形式。サルトルの実存は、人は意味なくただそこに あるということになります。

一方 無とは、この場合、外形も中身も初めから絶対的に無いことです。サルト ルが言っている無とは、この外形も中身も初めから無い有る物ですが、そもそも 初めから単独でそのような物は存在しえないのです。裂け目説というのは、初め あったものが消滅して蒸発して存在の痕跡をとどめなくなったが、しかしブラック ホールみたいな裂け目の状態で かつて存在していたであろう痕跡を あたかも 深淵のごとく指し示している、そういうものを言っていると思います。したがって痕 跡すらも消えれば無すらも消える。誰からも注目されない深淵は忘れ去られた深 淵となり、やがて、裂け目としての深淵も、あるいは無も、いつしか存在の逆襲に より存在で埋め尽くされる運命、、、。すべての穴は埋められることを欲すは、サ ルトルの穴ボコ論の魅力的なフレーズです。

般若信行は、用心深くも、無の危険性をかぎ分けているように見えます。無に直 接ふれることなく空で無を取り巻き絞め殺した感があります。因果率を全面に押 し出せば、因果が抜けた存在はありようがなくなります。もとに戻らざるを得な い。こういう運動の在り方を空としてとらえているかもしれない。

以上が、現時点での筆者の理解する限界点です。




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