安部球場              

                                                                       菊池 道人

早稲田大学野球部の創立は明治三十四年。  しかし、創立当初は専用のグラウンドはな く、当時は現在の商学部校舎の近くにあった 水稲荷近くの凸凹とした広場で練習を行って いた。時折、近くの民家にボールが飛び込む ため、「専門学校(早大)の生徒立ち入るべ からず」の立札まで出されたという。  「何とか専用のグラウンドを」  野球部の創設者で初代部長の安部磯雄教授 は、早大の創設者である大隈重信に面会し、 大学の西側、現在の図書館のある付近の茗荷 畑、麦畑など四千五百坪を所有者の農家から 借り入れることに成功した。  この際、安部は、 「いつの日か、野球の国際競技を行い、世界 平和に貢献したいと思っております」  とその抱負を述べている。  欧米留学の経験のある安部は、ロンドンに て、アメリカのエール大学とイギリスのオッ クスフォード大学との国際競技の新聞記事を 読んで以来、スポーツによる世界平和という 理想を抱いていた。そして、早稲田の野球部 の学生たちには、 「もし、一高、学習院、慶応に全勝したなら ば、アメリカ遠征に連れていってあげます」  と約束していた。  かくして早稲田野球部の専用グラウンド( 当時は戸塚球場と呼んだ)が完成したのは、 明治三十五年秋。  その翌年、三田綱町の慶応グラウンドで行 われた第一回早慶戦は、十一対七で早稲田が 惜敗したが、さらに翌年の明治三十七年六月 には十三対七で前年の雪辱を晴らした。それ と前後して、一高、学習院にも勝ち、さらに 初めて戸塚球場に慶応を迎えた十月三十日に も三対二で勝利を収めている。戸塚球場で行 われた最初の対外試合であったが、この勝利 によって、安部磯雄部長の提示したアメリカ 遠征への条件を満たした。  翌三十八年四月、早稲田野球部は、日本人 として初めて、野球によるアメリカ遠征を成 し遂げた。時は日露戦争の最中。「戦時に野 球のための外遊など以ての他」という非難の 声もあったが、大隈重信は、 「学生には学生としてなすべきことがある。 戦は軍人がやるもの」と安部や野球部の選手 たちを激励した。なお、この遠征での早稲田 の戦績は七勝十九敗であったが、グラブ、ス パイクの使用、バント戦法、スコアブックの 付け方など近代野球(今日では常識となって いる)を身につけ、帰国後、広く世間に普及 せしめた。

 早慶戦は、明治三十九年の秋に両校の応援 の過熱によって、中断を余儀なくされていた が、大正三年、早慶は直接対戦しない形では あるが、明治大学を加えた三大学リーグ戦が 始まった。大正六年には法政、十年には立教 を加えた五大学リーグ戦となり、今日の東京 六大学野球の基礎が出来つつあった。  この時代、まだ神宮球場はなく、リーグ加 盟の各校のグラウンドで試合が行われていた 。もちろん、戸塚球場でも熱戦が繰り広げら れ、スタンドには多くの野球ファンが詰めか けた。  ところで、創立以来、早稲田野球部は、専 任の監督を置かずに、先輩が後輩たちの指導 に当たり、試合の指揮は主将がとるという形 式をとっていた。しかし、大正時代になると 、部員数も増え、専任の監督がどうしても必 要という声が上がってきた。その声に応じて 初代監督に就任したのが、飛田忠順(穂洲) である。  飛田は、茨城県出身。水戸中学から明治四 十年に早稲田に入学し、内野手として活躍し た。しかし、主将を務めた明治四十二年、来 日したシカゴ大学に三連敗を喫し、責任をと って野球部を退いた。  飛田は卒業後、武侠世界、読売新聞の記者 として活躍していたが、野球を見るたびにシ カゴ大学敗戦の悔しさがよみがえり、自身が 選手として復帰することは不可能でも、子供 に遺志を継承させたいとまで思い詰めていた 。そうしたところへ、早稲田の先輩である押 川清(第三代主将)から、専任監督を探して いるという話を聞き、監督して打倒シカゴ大 学を果たす、ということを思いついたのであ った。  飛田監督が早稲田の指揮をとったのは、大 正九年から十四年までの六年間、十一シーズ ン(大正十年春季は渡米のためリーグ戦不参 加)。優勝回数は八回を数え、田中勝雄、大 下常吉、久慈次郎、谷口五郎、竹内愛一、河 合君次、氷室武夫、伊丹安広、藤本定義、森 茂雄など、後にアマチュア野球、プロ野球の 発展にも尽力した名選手を数多く育てた。  野球を単なる遊戯としてではなく、人間形 成、精神修養の道とし、選手、部員の自主性 を引き出しながら、それを猛練習に導いてい くという指導方法には定評があった。  戸塚球場には、毎日、飛田監督のノックで ボールを懸命に追いかける選手たちの姿があ った。  大正十四年は、早稲田にとっても、また球 界にとっても、節目の年であった。  秋には東京帝国大学(現在の東大)も加え た六大学リーグが始まった。  長らく中断した早慶戦が十月十九日・二十 日に行われ、その復活試合が行われたのも、 戸塚球場であった。(試合は十一対0、七対 一で早稲田の連勝)  そして、九月から十月にかけて、飛田監督 の「宿敵」シカゴ大学との試合が行われた。  二勝二敗で迎えた決勝戦は十一月九日、戸 塚球場で行われ、早稲田が十対四で勝利し、 勝ち越した。早慶戦復活、六大学リーグ誕生 、さらには宿敵シカゴ大学にも勝利した飛田 監督は、その年限りで勇退した。その後、朝 日新聞の野球記者として活躍、数々の名文で 多くの野球人を激励した。  安部磯雄部長も翌十五年に辞任、早大教授 の職も辞して、昭和三年、社会民衆党から衆 議院議員に立候補して当選、以後、次第に軍 国主義化していく潮流に抗して、平和主義を 訴え続けた。

 大正十五年秋に神宮球場が竣工、六大学野球の舞台は同球場に移 ったが、戸塚球場は引き続き、早稲田野球部の専用練習場、心身修 錬の場であり続けた。  その一方で、昭和六年六月三十日、山本忠興博士によって、テレ ビでの野球実況放送の試験が行われ、さらに八年には夜間照明が設 置されるなど、先端技術の面でも特筆すべき事跡を残している。  しかし、昭和十六年、アメリカなど連合国との間に戦端が開かれ ると、野球も敵国のスポーツとして弾圧を受けるようになった。  昭和十八年になると、戦局の悪化から野球への弾圧は一層厳しく なり、六大学リーグは解散、文科系学生の徴兵延期も中止となり、 学生も学業半ばで戦地に赴かなければならなくなった。  「出陣学徒のために何か思い出を」  慶応義塾の小泉信三塾長は、早慶の壮行試合を発案、平井新慶応 野球部長を通して、早稲田の飛田穂洲監督代行に申し入れた。  早稲田側では、外岡茂十郎野球部長、飛田監督代行とも快諾した が、大学当局の理解を得られなかった。  神宮球場の使用に差し支えがあるならば、戸塚球場でと慶応側は 提案したが、早大当局は、学校周辺に大勢人が集まるのは時節柄困 ると、なかなか許可しなかった。各学部長による投票では早慶戦へ の賛成票の方が上回ったが、当時の田中穂積総長が首を縦に振らな い。飛田監督代行と相田暢一マネージャーが田中総長と会談するも 物別れに終わった。そこで、早稲田側では学校当局の許可が下りな いまま、「野球部として」早慶戦を実行することとして、慶応側に 返答した。慶応では、試合開催を諦め、郷里に帰ってしまった選手 もいたので、急遽、呼び戻した。  試合は十月十六日。早稲田では、飛田監督代行自らほうきを手に し、選手、部員全員がグラウンド、スタンドはもちろん、トイレも 綺麗に掃除した。なお、群衆の混乱を避けるため、見物は学生のみ が許可された。戸塚警察署への届出も済み、いよいよ明日は試合と いう日になって、相田暢一マネージャーは練成部に呼び出された。  戸塚球場で早慶戦が行われるという記事が新聞に出たのである。  相田マネージャーは三時間にわたって追求を受けたが、最後に試 合開始時間を早め、一般の観客が来た時には試合が終わるようにし 混乱を少なくする、という案を出し、それでも許可しない練成部と 交渉を続けた。結局、許可は出なかったが、黙認という形で試合が 行われることになった。  試合の結果は10対1で早稲田の圧勝。  しかし、最後まで試合開催の許可を渋った早大当局に対し、慶応 側は、小泉塾長自らが観戦に訪れ、早稲田の相田マネージャーがネ ット裏へ案内しようとすると、「私は学生といるのが楽しいのです 」と学生席の方へ足を運んだ。飛田監督代行を初め、早稲田関係者 は「試合には勝ったが全ての面で慶応に負けた」と語っている。  試合が終了し、エール交換も済むと、「海ゆかば」の大合唱。  「戦場で会おう」もはや早稲田も慶応もなく、選手たちはお互い を励まし合っていた。この試合を最後に戦地に赴き、不帰の人とな った選手も多かった。合掌。  なお、相田マネージャーは、出征を前にボール三百ダース、バッ ト三百本を購入し、合宿所の倉庫に保管しておいた。空襲の際には 当時の吉江一行主将、松尾禎三マネージャーを中心に部員たちが列 になって防空壕へと運んだ。地下に入れたままにしておくと、湿気 で痛んでしまうので、空襲警報解除後は、また外へと運び出した。  これらのボールとバットは、終戦間もない昭和二十年秋に行われ たオール早慶戦(現役・0B混合)で使用された。  戦時下、早稲田の飛田監督代行が「たった一人になっても練習を 続けるのだ」と説いていたことが、敗戦の荒野に、芽を出した。

 早稲田野球部の創設者、初代部長の安部磯雄が亡くなったのは昭 和二十四年二月十日。その遺徳を偲び、戸塚球場は「安部球場」に 合宿所も「安部寮」に改称された。 その後も「安部球場」は、早稲田野球部の道場、アマチュア野球 のメッカと呼ばれ、ここで修練を積んだ人々が日本の野球界を支え 続けてきた。しかし、昭和六十二年、早大の百周年記念事業の一環として、中 央図書館が建設されることになったため、安部球場もその歴史の幕 を閉じた。 現在の早稲田野球部の練習場は東伏見(西東京市)にある。                          (文中敬称略)

(付記)筆者・菊池道人は、在学中、体育実技のソフトボールの授 業で、この栄えあるグラウンドを使用させて頂きました。担当教授 は野球部0Bでもある佐藤千春先生。最後の授業の時であったかと 記憶しておりますが、安部球場の歴史についてお話しして頂きまし た。とても感動的なお話で、先生の感慨深げなご様子が今でも目に 浮かびます。サークルの集合場所であった4号館に人が来ない時 には、時折、三塁側の石のスタンドに腰を下ろして、野球部の練習 を見物、後に近鉄や巨人などでも活躍した石井浩郎選手が 大きな当たりを飛ばし、大器の片鱗を見せていました。  学生時代の良き思い出であるばかりでなく、卒業後、文筆家の端 くれとしてのデビュー作が「早稲田野球部初代主将」二作目も大正  時代の早稲田の主力打者であった河合君次先輩の伝記「虹のスラ ッガー」。いずれも安部球場が舞台です。  昭和六十二年十一月に送別試合の全早慶戦が行われましたが、そ れを特集した「早稲田スポーツ」には野球界はもちろん、各界で活 躍する校友の声が寄せられました。その中で、脚本家の山田太一氏 の「いろんなものが変わりすぎていくことには抵抗を感じますね」 という短いコメントが筆者の心の中に、碑文のように強く刻みこま れています。ちなみに筆者は山田太一氏作のドラマを新聞のテレビ 欄で見つけると、必ず録画予約する習慣があり、蓄積されたビデオの本数も相 当な数になっています。しかし、それ程敬愛している御方のお言葉 であることだけが、強く心に残った理由ではありません。

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