不死鳥会・特別宣言  大切にしよう!母校と地域の名所・旧跡

 

 早稲田大学の校名は、その所在する地名から採っています。  明治15年(1882)、大隈重信が東京専門学校を開校した早稲田の地は、元禄時代 に、後に赤穂浪士の一人となる堀部安兵衛が義理の伯父の助太刀をして、勇名を馳せた「 高田馬場」のあった所であります。また安兵衛ら赤穂浪士とともに元禄を代表する人物の 一人、松尾芭蕉も早稲田から程近い関口にも庵を結んでおりました。さらには、母校開校 に先立つこと15年、文豪・夏目漱石がこの地で産声をあげました。その他にも、穴八幡 、水稲荷、甘泉園、鬼子母神等など、学園の周囲にはたくさんの史跡があります。明治35 年に大学に昇格するに伴い、歴史的にも大変由緒ある土地の名を校名に冠しました。以後 、この土地の名は大学の名を以って、日本全国にさらには世界に知られるようになり、ま た、学園創立の頃には、田んぼとミョウガ畑が広がっていたものが、大学の発展とともに 、下宿屋、古本屋、食堂、居酒屋、喫茶店が立ち並ぶようになり、学園と街が一体となっ たわが国の代表的な学生街ともなりました。学生と街の人々との交流も、学園の歴史を彩 っていたともいえるでしょう。そして学園内部にも、単に学校施設としてだけではなく、 文化遺産として誇り得るものが少なからずあります。たとえば、大隈講堂、演劇博物館、 それに大隈重信銅像:これらの姿を思い浮かべる度に、校歌の一節「心の故郷、我らが母 校」が実感を持って、心に響いてくるものではないでしょうか。  しかし、昭和62年(1987)、安部球場の封鎖、所沢キャンパスの開設を皮切りに 、学園の校舎、施設も他地域へ分散化の一途をたどり、近年では、早稲田実業が国分寺に 、ラグビー部のグラウンドがそれまでの東伏見から上井草に移転しました。もちろん、 所沢にも東伏見にも、地域と母校の関わりあいの歴史があり、国分寺、上井草はまさに新時代が幕を開けたばかりというべきでしょう。われわれは、いず れそれらの歴史にも着目したいとも思います。しかし、「早稲田大学」を名乗る以上は、早稲田 という土地の歴史、あるいはその地で刻んだ母校の営みの足跡に着目し、地域との関係の 中で、改めて、建学の精神を考える、という姿勢を忘れてはならないと思います。近年、 都市の再開発で街のたたずまいも大きく変化しつつあります。しかし、このような時代だ からこそ、この早稲田という土地の、さらにはその由緒ある土地の養分を吸って育った学 園の歴史の跡を語り継いで、願わくばそれらの保存にもいささかなりとも貢献したいと念 じます。

 2003年(平成15年)7月20日        不死鳥会(「早稲田大学・歴史文学ロマンの会」を再建する有志の集い)

補足  上記の趣旨を具現化するために、

1、会報に早稲田大学及び周辺地域の史跡の紹 介文を連載 2、それら名所・旧跡を探索する行事を一般公開で行う