荒ぶる心が時代の壁を突き破った

                                                              

                                         菊池 道人

 

「 ラグビーの早慶戦をやろうではないか」
 慶応ラグビー部の益田弘と早稲田のラグビー部員で、相撲や陸上競技にも秀でた万能選手、浅岡信夫との会話である。時に大正十年、銀座でのことであった。
 
 慶応義塾のラグビー部創設は明治三十二年(1899)。日本最古のチームである。
 一方、早稲田にラグビー部が出来たのは大正七年(1918)。
 井上成意、西村聡、岩崎粂雄を中心に結成された。といっても、この時代はまだラグビーはそれほど普及はしていない。そうした中で、右記の三人のうち、井上と西村は同志社中学、岩崎は慶応普通部の出身である。いずれもすでにラグビーを始めた先進校の出身である。彼らがまだラグビー部のなかった早稲田に入学したことが新時代への呼び水となった。
 さて、すでにルーツ校として名を馳せていた慶応に対して、早稲田は大正八年の三校とのデビュー戦に15対0で破れ、それでも予想外の善戦といわれていた。彼我の実力差は歴然たるものである。
 しかしながら、「早慶戦」には、この時代、その試合の開催そのもに、大いなる障壁が立ちはだかっていた。
 
 話は明治三十九年まで遡る。これよりも三年前に始まり、いつしか圧倒的な人気が沸騰していた野球の早慶戦が中断となった。観客が余りにも熱狂、フーリガン的な観客の暴動も心配れていたからであった。 中断の話は慶応の学校当局から持ち込まれ、早稲田側もそれを了承してのこどてはあったが、解釈の食い違いがあった。
 早稲田側は飽くまでも一時的なものと思っていたが、慶応は半永久的に行わないつもりであったのだ。
 選手たちの間では何のわだかまりもなく、学生達も試合再開を臨んでいた。しかし、早稲田から何度も試合を申し込むも慶応は拒み続けた。野球部としては賛成でも学校当局が許可しない。慶応の有力な卒業生が頑強に反対していたからである、ともいわれている。
 早慶戦は「冬の時代」のまま、いつしか大正時代となっていたのであった。
 こうした折、ラグビーの早慶戦を行うには、大いなる困難があつたのである。案の定、慶応の学校当局はなかなか許可しなかった。
 しかし、慶応ラグビー部の大市信吉主将らの熱意に押された板倉卓三理事は「黙認」という判断を下した。
 ついに早稲田と慶応とが戦うときが訪れたのである。
 そして、大正十一年十一月二十三日。 三田綱町の慶応グラウンドで記念すべき第一回ラグビー早慶戦が始まった。
 ところで、現代に至までこの日にちと決まった十一月二十三日であるが、早稲田の中村元一主将が気象台に足を運び、この日が最も雨が少ないという統計を調べた上でのことであった。
 さて、この試合は、学生スポーツの応援史上においても、画期的なものであり、またそれはその後の展開にも多大な影響を及ぼすものであった。
 観戦のマナーを徹底させたことである。
 すなわち、
 
 1、観戦の学生は制服制帽または袴着用
 2、拍手以外の応援は禁止
 
 である。
 もちろん、野球の早慶戦が中止になった原因を踏まえてのものであった。
 
 試合の方は14対0で慶応の勝ち。ルーツ校の実力を見せつけて恰好となったが、この試合は勝敗とは別の意義を持つ。
 ラグビーを皮切りに、なし崩し的に早慶戦を始める部が続出、ついに大正十四年秋の早慶戦復活へとつながった。そして早慶野球戦復活試合を前にして、早大野球部の安部磯雄部長は、拍手以外の応援を自粛するように呼びかけている。
 冬の時代は終わった。両校が対抗意識と友好とを礎に切磋琢磨する時代となったのである。
 
 早稲田と明治との試合すなわち「伝統の早明戦」が始まるのは翌年の十二月のことである。
 昭和2年(1926)、早稲田のラグビー部はオーストラリア遠征を行った。この時、早稲田は体格差を克服すべく、パスを駆使し、フォアード、バックスが一体となった「横の揺さぶり」を習得、これがチームの伝統的な戦法となっていく。
  そしてこの年の十一月、早稲田は8対6で慶応に初勝利を飾った。
 
         
(付記)毎年、会報「不死鳥」の編集、発行の時期、ラグビーは早慶戦、早明戦と佳境を迎えています。早稲田のラグビー部は大学選手権に優勝した時のみ歌うことが許される「荒ぶる」のために、日々、猛練習を重ねています。ラグビー部が「荒ぶる」ならば、私たちは「歴史文学ロマンの会再建」です。