所詮は妄想なれど:、

  今、悩めるアトムに贈る:。                                       

                 菊池 道人

 

 JR・高田馬場駅の発車メロディーは「鉄腕アトム」 のテーマ曲である。この曲を野球の応援などで使用している立教大学の最寄り駅は池袋であるのに、なにゆえに二駅手前(筆者が横浜在住なので手前と書いたが) のそれも同じ六大学野球リーグの対戦相手である早稲田の本拠地・高田馬場駅なのか?
 それは「鉄腕アトム」の生誕地だからである。
 すなわち原作者・手塚治虫の事務所「手塚プロダクション」の最寄り駅が高田馬場であった。あの人気漫画の主人公は早稲田の近くで生まれたのであった。
 
 原作者・手塚治虫は、昭和三年(1928),現在の大阪府豊中市に生まれ、五歳の年から兵庫県宝塚市で暮らした。少年時代の手塚は体が弱く、いじめられっ子であっという。が、それだけに、弱者に愛情ある眼差しを注ぐようになり、昆虫に関心を持っていた。
ペンネームの治虫(本名は治) はオサムシ(コウチュウ目の昆虫) にちなんだものである。
 その一方で、小学生時代から漫画を描きはじめ、五年生の頃には、ノート一冊分の作品を学校に持ってきたところ、教師に取り上げられた。ところが、叱られるどころか、教師たちも手塚の才能に一目置くようになり、いじめられっ子もいつしか学校の人気者になっていた。
 
 その後、大阪府立北野中学校(現・北野高校。早大関係では、元野球部監督の野村徹氏や最近何かと話題の橋下徹大阪市長を輩出)に進学するが、折りしも、太平洋戦争があり、軍需工場に駆り出されたりした上、修業年限短縮のため通常五年のところを四年で卒業して勤労奉仕に従事しているところを大阪大空襲に遭遇し、九死に一生を得たこともあった。こうした戦争体験も、漫画家としての作品に少なからぬ影響を与えたりもしていた。
 終戦間際の昭和二十年七月に大阪帝国大学付属医学専門部に入学したが、漫画への情熱はやまず、戦後の二十一年一月から「小国民新聞」に四コマ漫画「マアチャンの日記帳」の連載を開始し、これが漫画家デビューとなった。 なお、漫画家活動と並行して、医師の免許も取得し、これが後に「ブラックジャック」を描く下地ともなっている。
 
 さて、手塚治虫の漫画世界をすべて語ると、いつしか本題から大きく乖離してしまう恐れがあるので、ここでは早大生たちも多数乗り降りする駅の発車メロディーの主役にしぼろう。
 そもそもアトムは脇役であった。 昭和二十六年四月から雑誌「少年」に連載された「アトム大使」に登場するロボット坊やであった。この作品が生まれるきっかけを手塚は「クリスマス島で水爆実験が行われたことを思い出し、、ああ、この科学技術を平和利用できたならと憂い、原子力を平和に使う架空の国の話を描こうと思って」 (「ぼくは漫画家・手塚治虫自伝」より) と述べている。登場人物の中でももっとも人気のあったキャラクターロボットに「血の通った人間の性格を持たせたい」との編集長の要望で、翌年四月から、アトムを主役とした「鉄腕アトム」が同じ雑誌でスタートした。
 以後、この作品は爆発的な人気を呼び、三十八年からわが国初の国産アニメとしてフジテレビ系で放映され、アトムはお茶の間の人気者となった。
 
 天馬博士が交通事故で亡くなった息子の代わりにロボットを製作するも、大人になれないことがわかると、サーカスに売られ、後にお茶の水博士に引き取られる。生みの親の天馬は「トビオ」と名づけるもサーカスの団長は原子力を意味する「アトム」と命名 した。アトムのトレードマーク「十万馬力」の源は原子力なのである。その力で悪役ロボットらと戦うのであるが、アニメが大ヒットしたのとは裏腹に、原作者たる手塚はある危惧を感じていた。水爆実験が原作執筆のヒントとなったことからも読み取れるように、手塚がこの作品に託したのは、科学への懐疑であった。しかし、わが国のアニメ界の代表作ともいうべき「鉄腕アトム」はいつしか科学礼賛と受け取られていた。
 
そして、手塚の死去から二十二年後の平成二十三年三月、東日本大震災による福島第一原子力発電事故は、原子力の安全神話を一撃で破壊した。
 ここで、筆者自身のスタンスを述べると、ゆっくりとした足取りではあっても、脱原発の道を歩むべきである、と思う。
 ひたすらに利便性のみを追求し、安全性すらも顧みなくなった近現代社会を厳しく批判しなければならない、そして、官民あげて代替エネルギーのインフラ整備を推進すべきであり、それでも電力が不足するというのであれば、無駄な電力を省くことを検討すべきであることをこの場にて明記しておく。
 しかしながら、本文の筆者自身がまだ幼稚園にも行かない頃、遠い記憶の最果てにある白黒テレビの中で躍動していたヒーローの生みの親を、いまだに原発を擁護する政治家や電波系文化人らと同列に見ることには、少なくとも心情的にはなれない。
それよりも、悩めるアトムの姿がどうしても脳裏に浮かんでくるのである。
「心優しい科学の子」は、自らのエネルギー源を否定せざるを得ない現実に呻吟しているのではないか?己の存在の拠り所とするもの、自らの歩んできた道を否定されることがどれだけ辛いものであるか?
そして冥界の原作者は?いじめられっ子であった幼少期、青年期の戦争体験、そしてアトム誕生のきっかけは原子力の「平和」利用を夢見てのことであった。戦争のためではなかったのである。それでも、今や原子力そのものが否定されている。
 
 救いようのない妄想の後は、救いへの妄想も浮かべてみたい。
一度は自己否定のどん底に沈んでいたアトムは、今度は原子力の代わりに自然エネルギーによる十万馬力で再起する。 「心優しい科学の子」は新しいエネルギーのシンボルとして生まれ変わるのだ。でも、名前は無理にたとえば自然を意味する「ネイチャー」になど変えなくたっていい。アトムはやっぱりあのアトムなのだから:。しかし、妄想も所詮は妄想であり、それ以上ということはないのだが:。