関口芭蕉庵
               
                                               菊池 道人
 
閑雅という文字こそが似つかわしい。木々の緑濃き目白の岡を背にして、瓦屋根に焦げ茶色の木の扉に、黄檗の壁の門を構える庵が静かな息づかいながらも、どっしりと存在している。
 関口の芭蕉庵である。文字通り、俳人・松尾芭蕉が住んでいた庵である。
 なにゆえに芭蕉は早稲田の杜のすぐ北隣の関口に庵を結んだのか。 それは庵のすぐ下からせせらぎを発している神田川との縁である。 井の頭池や善福寺池から流れる水を江戸市中に引き入れるために、関東入りした徳川家康の命によって作られた。現在の飯田橋駅近くで外堀と合流し、駿河台を経て、柳橋をくぐったところで隅田川に注ぐこの川は、四代将軍家綱の代に、改修工事が行われているが、その際に、松尾芭蕉がその工事に参画したというのである。

 伊賀上野に生まれ、侍大将藤堂良精の若君、良忠に仕えていたが、主君の死後、主家を去り、俳諧の道を志した芭蕉は京都で北村季吟に師事した。同門に小沢卜尺という江戸の名主がいた。小沢とともに江戸へ下った芭蕉は彼の周旋で水道工事に関わるようになったという。
 その生国が伊賀であることなどから芭蕉は隠密であっという説もあるが、水道工事に携わったという経歴から、俳人とは別の顔がかいま見える。当然のことながら、水利土木の知識も有していた筈であろうが、主家を離れ、俳壇にデビューしたばかりの芭蕉にとっては、生活の糧を得るための手段でもあった。
 芭蕉がこの関口の地に住んでいたのは、文京区教育委員会の説明板によれば、延宝五年(1677)から同八年までのこと。その後は、深川に移り住んでいる。そして、芭蕉が関口を去ったその年に将軍家綱が没し、綱吉が五代将軍となっている。
元禄という年号そのものは、それよりさらに八年後であるが、その年号によって代表される時代はこの時に幕を開けたといってよいかもしれない。俳諧紀行「奥の細道」などを後世に遺した松尾芭蕉も元禄文化の担い手の一人となった。

旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる

 芭蕉が旅先の大阪で息を引き取ったのは、元禄七年(1694)10月のこと。三十三回忌に当たる享保十一年(1726)に芭蕉を祀る堂が建てられたのがこの関口芭蕉庵の起こりである。寛延三年(1750)には、芭蕉の遺作「さみだれにかくれぬものや瀬田の橋」の短冊が埋められ、さみだれ塚とした。
 この句は近江国(滋賀県)大津を訪れた時に詠んだものであるが、芭蕉は生前、関口の住み家から神田川越しに見える早稲田田んぼを琵琶湖に見立てていたという。
そのエピソードからも、江戸期の早稲田の地の風景が想像される。 早苗も伸びきらぬ梅雨時、灰色の空を映した水田が我が国最大の湖と見紛うくらいに果てしなく広がっていた。時折、舞い降りる白鷺たちの姿はさぞかし優雅なものであっただろう。早稲田田んぼが琵琶湖ならば、芭蕉庵のすぐ西側の胸突坂と呼ばれる急な坂道を上り詰めた目白の岡はさしずめ比叡山というところであろう。

(付記) 神田川といえば、そのほとりでの青春をイメージした南こうせつの歌がヒットしていた1970年代半ば頃、日本は頂上からこの稿をしたためでいる今日まで続く下り坂にさしかかろうとしていた。高度経済成長はオイルショックで行き詰まり、戦後政治の象徴的存在で、芭蕉庵や神田川を見下ろす目白台に居を構えていた田中角栄首相が金脈問題で失脚、学生運動も陰惨な内ゲバで大衆の支持を失い、沈滞化していった(我らが歴史文学ロマンの会もそんな時代に産声を上げた)。それに比して、芭蕉が水道工事に携わった時代は、徳川氏による幕藩体制も揺るぎないものとなり、文化の担い手が庶民に移ったと後世に評される元禄時代を迎えようとしていた。前述した通り、芭蕉もその担い手の一人であるが、藤堂家を辞して江戸に出、俳諧の道に夢を抱きつつ関口の住み家から神田川を見下ろした数年間を後に振り返ると、南こうせつの歌ではないが、「若かったあの頃、何も怖くはなかった」であったのか。否、それとも:。