太田道灌と山吹の里伝説
岡田 広之
早稲田大学からほど近い、神田川の桜並木の中に「面影橋」という橋が架かっています。面影橋を新目白通り側から渡ったところに、「山吹の里」の石碑があるのをご存知でしょうか。(所在地:豊島区高田1丁目) ある日、鷹狩に出かけた若き日の太田道灌が、にわか雨に遭遇して村のあばら家で蓑を借りようとしたところ、出てきた少女は無言のまま、山吹の一枝を道灌に差し出した。道灌は怒ってその場を立ち去ったが、あとで家臣から、少女の行為は「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という古歌に寄せて、蓑のひとつさえ持てないかなしさを山吹の枝に託したものだ、と聞かされて自分の無学を恥じ、それ以降歌道に精進した・・・。 現代において太田道灌という人について詳しく知っている人は少なくても、上に記した「山吹の里」の伝説についてはよく知られているところです。 「山吹の里」の伝説の実相とはいかなるものか、またその背景にあるものは何なのかを探ってみました。
太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、「花を求むるにあらず」とて怒りて帰りしに、これを聞きし人の、「それは七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべし」といふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。 定正上総の庁南に軍を出す時、山涯の海辺を通るに、「山の上より弩(おほゆみ)を射懸けられんや、又潮満ちたらんや計り難し」とて危ぶみける。折ふし夜半の事なり。持資、「いざわれ見来らん」とて馬を馳出し、やがて帰りて、「潮は干たり」といふ。「如何にして知りたるや」と問ふに、遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴く音に潮の満干をぞ知るとよめる歌あり。千鳥の声遠く聞えつ」と言ひけり。 又何れの時にや、軍を返す時、これも夜の事なりしに、利根川を渡らんとするに、暗さは暗し浅瀬も知らず。持資また、「底ひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたてといふ歌あり。波音荒き所を渡せ」と言ひて事無く渡しけり。 持資後に道灌と称す。
◎「山吹の里」の伝説は、湯浅常山が記した「常山紀談」の上記の一節から一般に広まったと言われています。 この一節を読むと、以下のごとき数々の疑問が生じてきます。
@この話は、いつごろ、どのような時代の話なのか A太田道灌とは、どのような人物だったのか Bこの話の舞台(場所)はどこなのか C「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という古歌は誰がどのような心を込めて歌ったのか D「若き女」は実在の少女なのか Eこの話は実話なのか、単なる伝説なのか Fこの話が何故伝説として広まったのか これらの疑問について、ひとつひとつ検討してみたいと思います。
@この話は、いつごろ、どのような時代の話なのか
◎道灌台頭前の関東の状況
1.永享の乱 京にいる足利幕府の将軍と関東公方の対立 第四代関東公方・持氏の反乱(「永享の乱」1438年)→持氏敗北 2.結城合戦 持氏の遺子春王丸と安王丸が結城氏朝を頼り、氏朝が反乱を起こす。(「結城合戦」1440年)→結城氏敗北、関東の実際の支配権は「関東管領」の上杉家に移ることとなる。
3.古河公方と堀越公方 1449年、持氏の末子永寿王が足利成氏と称し、第五代鎌倉公方となる。 成氏、下総の古河に進軍。以後古河は、成氏の根拠地となる(「古河公方」)。 1457年、足利将軍義政、弟政知を還俗させ、成氏に対抗させるため、関東に下向させる(「堀越公方」。)
→古河公方と、堀越公方を名目上の主として実質的な支配権を握る上杉家(山内上杉・扇谷上杉の二家が主)の対立という形勢が成立。(権力関係が非常に複雑な時代)
<略年表>
1432年(永享4年) 太田道灌、相模に出生。父は資清、入道して道真と称し、鎌倉の扇谷上杉家に仕える文武に秀でた人。母は長尾景仲の娘であるという。(ちなみに、同年、北条早雲が出生している。)
1437年(永享9年) 鎌倉府管領山内上杉憲実が、鎌倉府第四代公方足利持氏と不和となる。
1438年(永享10年) 鎌倉府第四代公方足利持氏と鎌倉府管領山内上杉憲実との争いが起こり、憲実は将軍足利義教の救援を得て持氏軍を破り、持氏は武蔵の国称名寺に幽閉される。 (永享の乱)持氏は翌年自害。
1440年(永享12年) 持氏の子春王丸、安王丸が下総の結城氏朝を頼り、氏朝はこれに応じて挙兵する。 (結城合戦) 翌年、結城軍は敗北、安王丸、春王丸は斬殺される。
1449年(宝徳元年) 持氏の末子永寿王が足利成氏と称し、第五代鎌倉公方となる。
1454年(享徳3年) 成氏、管領上杉憲忠を鎌倉の邸宅に襲って殺害。
1455年(康正元年) 室町幕府は公方足利成氏の討伐を下知。成氏、下総の古河に進軍。以後古河は、成氏の根拠地となる(「古河公方」)。 1457年(長禄元年) 太田道灌、江戸城を築城。足利将軍義政、弟政知を還俗させ、成氏に対抗させるため、関東に下向させる(「堀越公方」。)
A太田道灌とは、どのような人物だったのか
1.百戦百勝の戦上手 道灌は扇谷上杉家の家宰として、関東一円を転戦。当時としては先駆的な「足軽(傭兵部隊)戦法」を編み出し、ほとんどの戦いで勝利した。 中でも山内上杉家の家宰・長尾家の相続争いに端を発した「長尾景春の乱」の鎮圧に際しては、群を抜く活躍を示した。
<その主な戦跡> 1477年(文明9年) 道灌、武蔵の国勝原に長尾景春の家臣矢野らを撃退。反上杉陣営の豊嶋氏(練馬石神井を所領とする国人)兄弟を打ち破る(江古田、沼袋原の戦い)。道灌、山内上杉顕定、扇谷上杉定正を五十子の陣に迎え入れ、ついで、14日、鉢形城を討つとみせかけて、長尾景春を用土原に誘き出し、これに山内、扇谷両上杉軍らが加わり、これを殲滅させる (用土原の戦い) 。 1478年(文明10年) 道灌は、和睦に従わない長尾景春を鎮静するため、平塚城 (豊嶋泰経在陣)、丸子城、小机城に転戦。 道灌、二宮城を攻め大石顕重を降伏させる。長尾景春の鉢形城に夜襲をかけこれを攻略。 1479年(文明11年) 道灌、長尾景春方の千葉孝胤の本拠、下総国を落城させる。 1480年(文明12年) 道灌、秩父に進軍、長尾景春の篭る日野城を攻めたて落城させる。(長尾景春の乱の終息)
<「永享記」にみる道灌の活躍> 文明八年丙申(1476)四月二十三日: 平場の合戦で敵二百騎余りを五十騎で破る。 同十年戊戌(1478)正月五日:平塚の城の七百騎余りを五十騎余りで攻め落とし、三百余騎の首を取る。 同十一年己亥(1479)七月十五日:下総国白井城を攻め、七十騎余りで二百騎余りの敵を攻め落とす。 同十五年癸卯(1483)十月五日、上総長南城を攻め落とした時、味方の旗の上に二羽の山鳩が飛来して羽を休めたのは不思議なことであった。これらはとても凡夫の仕業ではなく、きっと摩利支天の生まれ変わりに違いないと、人々は奇異の思いをなしたという。
2.築城の名手 二十五歳の若さで、江戸城を築城。「江戸」の原型を造り出す。 「道灌かがり」と呼ばれる独自の方式を編み出し、名城とうたわれる。 現在でも皇居内に「道灌堀」という堀が遺っている。ちなみに現代の「千代田区」という地名は、道灌の家来に「千代田」という者がいたことから来ているという説もある。
3.かなりの財力 道灌の江戸は、無い物は無いといわれたほど各種の物資が集まる湊町であった。このことから、道灌もかなりの財力を有していたと推測できる。
4.当代屈指の歌人 道灌は当代屈指の歌人と言われ、「慕景集」という歌集を遺している。 宗祇など一流の文化人とも交流があり、道灌のすぐれた和歌に感心した天皇より「むさし野はかるかやのみと思いしにかかる言葉の花やさくらん」という歌をたまわったという逸話が伝えられている。
<代表作>
我庵は 松原つゞき海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る
露おかぬ かたもありけりゆふ立の 空よりひろき 武蔵野の原
きみにおき 民にふしつゝ朝夕に つかへんとおもふ 身ぞおほけき
見る度に おもしろければふじのねの 雪は浮世のすがたなりけり
年ふれど まだしらざりし都鳥 すみだ河原に 宿はあれども
5.さまざまなエピソード ● 屏風は曲がっているから立つ ●「不驕又不久(おごらざるもまた久しからず)」 ● いたずら猿をこらしめ ●「世の中に 独り止まる ものならば もし我かはと 身をや頼まん」 ●「小机は まず手習いの初めにて いろはにほへと ちりぢりになる」
6.悲劇の最期 1486年(文明18年)7月26日、相模国糟屋( 神奈川県伊勢原市 )の定正の館において、主君・上杉定正に謀殺される(享年55)。 亡くなる際「当方滅亡」と叫んだと言われる。 卓越した能力を持っていたがゆえの悲劇 7.道灌と他の戦国大名との違い 領国の支配/下克上
Bこの話の舞台(場所)はどこなのか
◎「山吹の里」伝説の舞台(場所)としては、以下のものなど諸説があり、いずれも確証はない。
1.豊島区高田付近とする説 前述の「山吹の里」の石碑がある面影橋近辺とする説。この近くに「山吹の里公園」もある。 (http://www.city.toshima.tokyo.jp/kouen/k_42.html) 2. 埼玉県入間郡越生町とする説 「山吹の里は山吹の咲く里ではなく、豪族山吹氏が住んでいた里で、その地は埼玉県入間郡越生町」(浅沼政直氏の説)。 越生町には「山吹の里歴史公園」がある。
(http://www.town.ogose.saitama.jp/hana/hana2.html)
C「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という古歌は誰がどのような心を込めて歌ったのか
◎この歌は、「後拾遺和歌集」巻十九の兼明親王の歌で、詞書が付されています。 小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける 七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき
<作者のプロフィール> 兼明親王 かねあきらしんのう 延喜十四〜永延一(914-987) 別称:前中書王・御子左大臣 醍醐天皇の第十六皇子。母は藤原菅根女、淑姫。源高明の異母弟。 源姓を賜わり、臣籍に下って、承平二年(932)、従四位上。播磨権守・右近衛中将・左近衛中将などを経て、天慶七年(944)、参議。天暦七年(953)、権中納言。同九年、中納言。康保四年(967)、従二位・大納言。天禄二年(971)、左大臣。貞元二年(977)、勅により親王に復し、 二品中務卿。寛和二年(986)、卿を辞す。晩年は嵯峨に隠棲。(水垣久氏による)
◎「あやしき」は、この場合「道理や礼儀にはずれている」程の意で、「常山紀談」に引かれている「悲しき」とは異なる。蓑を借りに来たのを断る点は同じでも、上記の元歌と、「山吹の里」伝説で語られている歌とは、その心が異なっているとも考えられる。→「常山紀談」の作者の意図が隠されている、とは考えられないか? <豆知識>一重咲きの山吹と八重咲きの山吹
D「若き女」は実在の少女なのか
◎道灌に山吹の一枝を差し出した謎の少女。一見するとあくまでも伝説の人物で、実在しないかのような印象をもたれがちだが、何とその少女、「紅皿」という名前があり、新宿区内にお墓が存在する。さらに、その略伝を記した「紅皿縁起」なる文書も現存するのである。(残念ながら、「紅皿縁起」の活字版は見当たらない) <新宿区教育委員会による紅皿の墓の説明> 太田道灌山吹の里伝説に登場する紅皿の墓であると伝えられる板碑である。高さ107センチ、幅54センチ、厚さ6センチで、中央部及び下部に大きな欠損がありはっきりしないが、中央部に主尊を置き、四周に十二個の種子を配した十三仏板碑であったと推定される。造立年代は不明であるが、十三仏板碑が盛んに造られた15世紀後半であると思われる。 紅皿は、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩りに来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立寄ったところ、その家の娘が庭の山吹の一枝をさし出して断った。 これが縁となり、道灌は紅皿を城にまねき歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。(以下略) <『新撰東京名所図会』による説明(引用)> 応仁の頃、京家の武士、細川山名の合戦のみぎり、忍びて此の国に下り豊島の郡高田村に住居す。此の人妻に後れ一人の娘をもてり。しかるに所の者、その頃同所に後家暮らしの女有りし家に世話し入夫とせしに、程なく後妻一女を生む。成人に随ひ姉は生質美しく殊に歌を好み、妹は容姿よろしからざりしかば、近辺の者、その善悪を皿に譬へて、姉を紅皿妹を欠皿とあだ名せり。母はこれを聞きて姉を憎み、父に対して種々讒言せしかば、後には父も疎みけれど、紅皿は孝心深く父母を恨みずに仕へける。(以下略)
◎紅皿・・・京のそれなりの武家の出身(落ちぶれた名門?) 豊島郡高田村に住んでいた。和歌に造詣が深く、聡明 後年、道灌の歌の友となる。 道灌の死後は尼となって大久保に庵を建てた。 道灌と出会った時は十代(推定) 一種霊力のある女性と考えられていた(推定)
◎紅皿の墓と伝えられる板碑・・・年代的には道灌の生きた時代と合致
◎「紅皿縁起」および紅皿の墓は、「山吹の里」伝説の「若き女」が実在したのではないかと思わせるものがあるが、残念ながらそれを裏付ける史料が見当たらない。(実在の少女のほうが、発表者としては、嬉しいのですが・・・)
Eこの話は実話なのか、単なる伝説なのか
◎道灌は幼少の頃から和漢の学問を学んで「神童」と呼ばれるほどであり、歌に造詣の深かった父・道真からも影響を受けていた。→後拾遺の山吹の故事についてのみ知らなかったというのはやや不自然。上記B−Dと併せて考えると、やはり伝説は伝説であり、実話とは考えにくいのではないか。
Fこの話が何故伝説として広まったのか
1. 湯浅常山の「常山紀談」の意図とその影響
「常山紀談」は1739年ころ成立・・・将軍吉宗の時代 <湯浅常山> 宝永五年三月十二日〜天明元年一月九日。備前岡山藩の儒学者、名を元禎、字を士祥、通称を新兵衛といった。(中略)享保十六年家督を継ぎ、翌年江戸へ出て、服部南郭に詩を学ぶ。以後、岡山在住が多かったが、江戸出府の折には南郭のほか、太宰春台、井上蘭台や松崎観海などの文化人と親しく交流を持った。藩内においては鉄砲引廻役などを経て、宝暦八年に寺社奉行、同十三年に町奉行、明和四年に寄合組組頭などを歴任。同五年には判形役となり、藩の財政事務を担当するが、後に藩政を批判したことにより、隠居を命ぜられた。それ以後、著作と詩作に専念することとなった。戦国武将の逸話を集めた『常山紀談』など大変多くの書物を残している。(新城市設楽原歴史資料館のHPより) →武士が「武」よりも「文」に重きを置きがちな時代に、戦国の名将の逸話を集めることで、武士のモラルを高めることを狙ったと思われるこの著作が、武士階級に受け入れられた
2.落語「道灌」の影響
<落語「道灌」の梗概> 物知りの隠居さんが八っつあんに、太田道灌の山吹の故事の説明をする。あばら家の少女が山吹の枝を差し出した意味を道灌がつかめず、あとになって余は歌道に暗いと恥じ、その後歌道に精進したというのである。 八っつあんは、自分もその歌を用いて傘を借りにくる者を追い返そうとする。提灯を借りに来た者に、傘の断りを使って珍妙なやりとりをする。 落ちは八っつあん「お前さん、カドーに暗いな?」相手「カドが暗いから提灯、借りに来た」というもの。 →道灌は江戸っ子にとっては江戸の原型を築いた恩人であり、悲劇の最期を遂げたことによる「判官びいき」も手伝って、山吹の里の伝説が広く庶民階級に受け入れられた。
3.道灌の裔、お勝の存在
◎「山吹の里」伝説が世に受け入れられた背景として見逃せないのが、道灌の裔「お勝」の存在である。
<お勝(英勝院)> ○天正十八年(1590)、江戸城に入城した徳川家康に召し出され、家康の側室となる。 (13歳。家康の側室の中ではぬきんでた若さ)太田道灌の子孫ということで召しだされた模様。このときの名はお梶。 ○慶長五年(1600)の関ケ原の戦いに家康の供をする。以後お勝の方(局)と呼ばれる。 ○家康との間に生まれた市姫が4才で亡くなると、水戸徳川家の祖となった徳川頼房の養母となった。 ○家康が晩年を過ごした駿府城では、質素倹約につとめて家康の信頼も厚く、家康から男なら大名にも取り立てられるものをと言われたほどであった。 ○家康の没後、英勝院と号し、太田道灌の屋敷跡と伝える地に英勝寺を建立した。
◎お勝と紅皿の共通点 落ちぶれた名門の家の出身 聡明な女性 運命の男性(家康、道灌)と出逢ったとき十代だった 一種霊力のある女性と考えられていた(推定)・・・家康が関が原に連れて行った意味、「常山紀談」の後半部の意味
◎「山吹の里」伝説との関連 道灌の鷹狩・・・家康は鷹狩が好き 江戸城からほど近く、鷹狩に適した高田という土地が舞台 お勝は一子をもうけたものの早世してしまった。そのことと「実のひとつだになきぞかなしき」が重なりあう。 家康は当初は、太田家(江戸城の主)の跡を継ぐもの(江戸支配の正統性)を欲していたのではないか。 →「山吹の里」伝説には、家康とお勝の関係が反映しているのではないか。
<付>太田道灌の関連史跡(早稲田近辺)
「山吹の里」の石碑 山吹の里公園
「山吹町」という地名(東京メトロ東西線早稲田駅と神楽坂駅の中間辺り)
道灌駒繋ぎの松(甘泉園) 紅皿の墓
<太田氏系図> 清和天皇━━ 貞純親王━━ 源経基━━ 多田満仲━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗┳ 頼光━ 頼国━━ 頼綱━━ 仲政━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┗ 頼信━━ 頼義━━ 義家━━ 義親━━ 為義━━ 義朝━━ 頼朝 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗━ 頼政━┳ 仲綱━┳ 宗綱 ┃ ┗ 広綱━━ 隆綱━━ 国綱━━ 太田資国━━━━┓ ┣ 兼綱━━ 頼茂━━ 頼氏 ┃ ┗ 広綱(仲綱養子) ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗━ 資治━━ 資兼━━ 資房━━ 資清━┳ 資長(道灌)━━━━━━━┓ ┗ ○━┳ 資忠(道灌養子) ┃ ┗ 資家(資忠養子) ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗┳ 資康━┳ 資貞 ┃ ┗ 資高━━ 康資━━ お勝(徳川家康側室) ┗ 資忠━━ 資家(岩槻)━━ 資頼━━ 資正━━ 氏資