元禄シンデレラ物語
菊池 道人
京都・仁和寺での境内で、ある僧侶が母に連れられてお参りに来ていた少女を見て、こう言った。
「この娘が生む男の子はいつか一国の君となる」
お玉というこの少女は京都の堀川に住む八百屋仁左衛門の娘である。時は徳川三代将軍家光の代の頃。
すでに士農工商の身分制度が確立していた時期である。
貧農の倅が関白太政大臣となる豊臣秀吉の物語は過去の伝説となりつつあった。
玉という少女もその母もとても信じられなかった筈である。
ところが、事態は急変する。
玉の父親である仁左衛門が亡くなった。玉の母親は二人の娘を連れて、二条関白光平の家来、本荘宗利の家へ奉公した。
人の命のはかなさは、人為の及ばぬものであるが、男と女の運命の糸も人智では読み切れぬもの。
宗利が玉の母親を見そめ、男の子を孕ませた。
幼い玉の心中は複雑なものであったことであろうが、未亡人となった母親の男性関係がきっかけで、公家社会とのつながりは揺るぎないものになる。成長してからは、本荘宗利の主家、二条家の末流六条宰相有純の娘に仕えることになる。この娘は出家して、伊勢の慶光院の院主となるのだが、またしても、玉の運命を変える偶然が起こる。
院主が跡目相続の挨拶に江戸にくだったところ、将軍家光に見そめられ、還俗して、その側室となったのである。
随行していた玉も奥女中として、江戸城に入ることになった。
その頃、江戸城の大奥で絶大なる権勢を誇っていたのは、家光の乳母であった春日局。
明智光秀の重臣で主君と運命をともにした斎藤利三の娘である。
戦国乱世の荒波の上を漂いながら育っただけに、激しい気性を持った女性であったが、玉のことを気に入り、礼儀作法などを徹底的にたたき込んだ。
庶民の家庭で幼少期を過ごした玉には、武家の作法は窮屈なものではあったろうが、次第に品格を備えるようにはなっていった。
そして玉は家光の寵愛を受け、身ごもった。
偶然に偶然が重なる激しい運命の激変に、幼き日の出来事など忘れがちになるが、ここまで来れば、仁和寺での僧侶の言葉が説得力のあるものとして、否応なしに蘇ってくる。
亮賢という名の真言密教の僧侶を、玉は様々な伝を利用して探し出し、ついに安産祈願に呼び出した。玉の生んだ子は男の子であった。が、嫡男ではない。
玉が出産した五年後、将軍家光は亡くなり、その跡を継いだのは、長男である家綱であった。
だが、亮賢の予言が現実化する道はまだ終わらない。
四代将軍家綱は、男子が産まれぬままに、延宝八年(1680)亡くなった。その弟で甲府藩主であった綱重はそれよりも前に死亡している。
五代将軍となったのは、玉が生んだ家光の子、綱吉であった。
綱吉は将軍就任の翌年、天和元年(1681)、江戸北部の音羽に寺院の造営を命じた。
名付けて護国寺。
住持は一介の八百屋の娘、玉の運命を予言した亮賢である。
余りにもできすぎたこの話を史実と認めるのは極めて難しい。
史実を史実とし、それらを評価する視点でみれば、綱吉の生母が加持祈祷などの呪術を好んだことが、悪評の多い「生類憐れみの令」を誘発し、また、綱吉が護国寺に代表されるような寺院建設に意を注いだことが幕府の財政を逼迫させたともいわれる。
が、その一方で、「生類憐れみの令」はいまだに残っていた戦国時代の殺伐とした気風を一掃するためであるともいわれ、また、綱吉が学問を好んだことも、士民の向学心を促し、江戸時代が日本史上でも有数の文化隆盛期であると後世に評価される礎になったという面も看過すべきではないであろう。
将軍としての綱吉の政治に関する議論は今後も尽きない。
が、それにしても、不可思議な夢でも見ているような護国寺の由来である。そのような由来を持つ寺に、早大創設者・大隈重信も眠っている。
(付記)大隈重信先生のお墓参りをしようと、護国寺に参りましたが、お墓の前は鉄の門が閉められていました。やむなく、門の外から合掌、「歴史文学ロマンの会再建」を誓い申し上げた次第です。