早稲田の杜に八幡様がやって来た
菊池 道人
早大文学部近く、馬場下町交差点の交番の後ろに穴八幡という神社がある。
「八幡様の神主がおみくじひいて申すには、いつも赤(白)勝つ:」
という応援歌を運動会で歌った思い出のある人も多いであろう。
八幡様は、勝負の神様としても知られている。関東地方では、鎌倉の鶴岡八幡宮が有名であるが、八幡信仰はもともとは、豊前国(大分県)宇佐で始まり、土着の神祇信仰に渡来人によって仏教や道教が融合された。
それが歴史の風に乗って、はるばる関東は早稲田の地にやってきたのである。
今回は、八幡様の九州から早稲田までの旅を、概略ながらもたどってみたいと思う。
前述のように、宇佐地方の土着神に外来の宗教が融合された八幡信仰ではあるが、いつからか応神天皇が主祭神となっていた。
その時期については不明ではあるが、欽明天皇の代に新羅との関係が緊張し、北九州地方に危機感が漂ったために、朝鮮半島に威を振るっていた応神天皇を守護神したからか。
あるいは、もっと後の奈良時代からであるともいわれている。
この時代の初期には、九州の隼人の反乱鎮圧に際して、朝廷は八幡神にそれを祈願した。
応神天皇が主祭神となったのは、八幡宮が朝廷と深く結びつくようになったことがその背景となっていたことであろう。
そしてその結びつきを一層、強固にしたのは、天平20年(748)
に東大寺守護のために八幡宮が勧請されたことである。
つまり、時の朝廷の仏教による鎮護国家策に八幡信仰が組み込まれていったのであった。
朝廷の守護神となった八幡様がその威光を存分に示した有名な事件。それは奈良時代末期に皇位に就こうとした道鏡の陰謀を未然に防いだことであろう。
称徳天皇の絶大の信頼を得ていた僧・道鏡は、宇佐八幡宮の神託をその根拠として天皇の座に就こうとしたが、和気清麻呂が勅命によって神託を確認すべく宇佐八幡宮に赴き、皇統を重んずるべしとの託宣を聞いて、道鏡の即位を阻止したという。
道鏡事件に象徴される仏教勢力の政界への影響を払拭すべく、都は奈良から平安京へと移されたが、それに伴い、八幡様が京都へとやってきた。
石清水八幡宮のことである。
この八幡宮が勧請されたのは、貞観2年(860)、行教によるものであるが、時の帝は清和天皇。
この清和天皇の子孫である源氏が八幡神と強い結びつきをもつようになる。
清和天皇の孫にあたる経基は、藤原純友の乱鎮定に加わるなど、軍事に関与していたが、臣籍に下り、源姓を賜った。これが清和源氏の始まりであるが、経基の後を嗣いだ満仲は、摂津国(大阪府)の国司となり、同国の多田に荘を開いた。
都の貴族が国司として地方に下って、荘園などの私有地を切り開き、さらに武装する。
これはこの時代の歴史の潮流でもあり、また、八幡様をはるばる早稲田まで運ぶ風でもあった。
大化改新(645)以来、土地と人民は朝廷のものという建前で、六歳以上の男女に田(口分田)を与え、死亡後は国家に返還させていた。
しかし、こうしたいわば国家社会主義的な制度も、耕作地の貸与と引き替えの税や兵役の重負担のために、口分田を捨てて逃亡する者も多く、奈良時代中期には早くも破綻し始めていた。朝廷は、田畑の私有を条件として開墾を奨励する規制緩和策を打ち出した。三世一身法や墾田永年私財法がそれであるが、これによって有力な豪族は荘園と呼ばれる私有地を増やしていった。
平安時代になり、治安が悪化すると、荘園などの私有地を持つ豪族たちは自衛のために武装するようになった。これが武士団の始まりであり、こうした武装豪族たちは、いくつもの団体の統合と権益確保のために、国司として下ってきた貴族たちを棟梁と仰いだ。
清和天皇の血を引く源氏もその代表例の一つであり、源満仲は多田荘を確保する一方で、安和の変(969)では、源高明を密告するなど、時の権力者である藤原摂関家との結びつきを強めた。
ところで、この時代よりも後、保元の乱(1156)から壇ノ浦の戦い(1185)までの治乱興亡の歴史から、源氏は関東、平氏は関西という印象が強いが、それぞれの起源の地は全く逆であった。
平氏の場合は、清和源氏よりも歴史は古く、平安京を開いた桓武天皇のひ孫に当たる高望王が、平姓を賜り、上総国(千葉県)の国司として現地に下り、そのまま土着したのがその始まりである。高望の孫の将門は、関東地方の国司をことごとく追放すると自ら新皇と名乗り一時は関東を独立国家のようにした。その将門を追討したのは従兄弟の貞盛であるが、その子の維衡は伊勢守に任じられると、その地に土着、その子孫が伊勢平氏と呼ばれ、清盛の代に至る。
将門や貞盛と同じ桓武平氏の平忠常も関東で反乱を起こしたが、これが源氏の関東進出の足かがりとなり、また源氏と八幡宮の結びつきを強めるきっかけともなる。
源満仲の子、頼信が追討に向かうと、忠常は戦わずに降伏した。
忠常の子孫たちは後に源氏に従うようになる。
長元4年(1031)のことだが、この時、頼信は石清水八幡宮に願文を納めている。
摂関家の信頼を得て、その警護者としての地位を確立した源氏が有事に際して、朝廷の守護神たる石清水八幡宮を崇拝するのは自然な流れであろう。
頼信の子、頼義が八幡宮に参詣すると、夢告によって一振りの剣を得たという。程なくこの頼義の妻が懐妊、長男が生まれた。この長男も石清水八幡宮で元服、八幡太郎義家と名乗るようになる。
早稲田の杜に八幡様をお運び申し上げるアンカーの誕生である。
そして、八幡様を早稲田へと招くことになる事件が起きた。
陸奥(東北地方)の俘囚(アイヌ系か)の長、安倍氏が反乱を起こした。
永承6年(1051)のことである。頼義は陸奥守として安倍氏鎮圧に向かう。義家もそれに従い、奮戦する。
義家は若いながらも武勇は抜群で、「陸奥話記」も「騎射神の如し」
とそれを表現している。
康平5年(1062)の衣川柵・厨川柵の戦いで、安倍貞任を討ち果たし、いわゆる前九年の役はようやく終わった。
陸奥から引き上げ、武蔵国、現在の早大近くに立ち寄った義家は、日本武尊に習い、兜と刀を納めて八幡宮を勧請した。
これこそが、あの交番の後ろにある八幡宮の起こりである。
時代はずっと下って江戸時代、徳川三代将軍家光の代、幕府の御持弓頭・松平直次が的場を設置し、射芸の守護神として八幡宮を改めて祀った。
その数年後、宮守の庵を造営するにあたり神穴が見つかり、そこには阿弥陀の霊像が立っていたことから「穴八幡」と呼ばれるようになった。
堀部安兵衛の助太刀で知られる近くの高田馬場では、八代将軍吉宗の代から流鏑馬が行われるようになったが、これは穴八幡に奉納するものである。
(付記)
今回、校内篇では、「鴎渡会」発祥の地、浅草橋場に触れましたが、そこは在原業平(らしき人)が「名にし負はばいざ言問はむ都鳥我が思う人はありやなしやと」と詠んだ場所であるといわれています。業平の思い人とは清和天皇の女御となった女性ともいわれていますが、その清和天皇の子孫である義家が八幡宮を勧請した早稲田の地に業平ゆかりの地で天下国家を論じていた小野梓や高田早苗が学校を開く。因縁の糸で四角形が出来るようです。