裸の早稲田

                                                              

                                         菊池 道人

 

  筆者はここ数年、「裸の東京」に関心を持っている。「裸の東京」とは徳川家康が江戸入りをする1590年以前の現在の23区内のことである。
 家康が三河から連れてきた家臣や御用商人たちが移住する以前にこの地で暮らしていた人々の営みにまつわるエピソードがたくさんある。
 例えば、大森貝塚や弥生式土器の発見地、平将門や太田道灌ゆかりの史跡など。江戸=東京が我が国の政治・経済・文化の中心地となる以前、奈良や京都、鎌倉を中心に歴史が動き、脇役的な一地域であった時代にも様々な人々が蠢いていた。そうした人々の生き様にこそ「原・東京人」の姿が見いだされるのではないかとの思いがある。
 かつて王や長嶋をはじめ幾多の選手たちが猛練習に汗を流した旧巨人軍グラウンドを見下ろす多摩川台古墳、フーテンの寅さんがその近くを歩いた柴又八幡古墳などを鑑みると、歴史とは地層か年輪のようなものだ、という感慨が湧いてくる。同じ場所に様々な時代の様々な人々の足跡が刻み込まれているからである。
 さて、23区内に関しては家康入府の1590年を区切りとしたが、今回、この「不死鳥」に於いては1882年という年を設定してみよう。もちろん、早稲田大学の前身たる東京専門学校が創設され年である。それ以前の「裸の早稲田」を概観してみることとする。
 
 早稲田の地も含めた現在の新宿区の大部分は、古くから牛込と呼ばれていた。牛を飼う牧場があったからであろうと云われている。駒込の地は馬の牧場があったからであるそうだが、早稲田の辺りもかつては牛たちが群れを成していていたのか。
 古代、王朝時代、この地が歴史の表舞台に登場することはほとんどなかった。強いていえば、安部球場の跡地に現在の大学の中央図書館が建設されるに際しての予備調査で弥生時代の遺構が発掘されたこと、奥州攻めに向かう源義家が兜を奉納して戦勝を祈願したことが、現在の穴八幡神社の由緒となっていることぐらいであろうか。
 戦国時代、関東地方の大部分を勢力下に入れた北条氏康が家臣団の所領高などを記録した「小田原衆所領役帳」に「牛込」「戸塚」などの地名が見える。
 太田道灌のひ孫で後に北条氏に叛き、第二次国府台合戦の原因を引き起こす太田康資や、もとは上野国(群馬県)に住み大胡姓を名乗っていたが、北条氏に従い、現在の出版会館の前にあった牛込城に移り、姓もその地名に改めた牛込氏などの所領があった。
 江戸時代末期の文化七年から執筆された「新編武蔵風土記稿」にはかなり詳細にこの地のことが記されている。
「豊島郡之四」に「早稲田村」の項目がある。それを引用すると、
「早稲田村は元牛込村の地にて、小名早稲田と唱へしを何の頃よりか別村となれり。正保元禄の改にも載せず、村内の地次第に町並となりし一町五段二畝十九歩の所は、早稲田町と唱へ延享二年町方の支配となる。日本橋より行程一里十町、東は中里村西は下戸塚牛込の二村、南は早稲田町同榎町北は関口村なり、東西三町南北五町、民家二十軒」 早稲を育てる田んぼがあったからいつからかそう呼ばれていたことであろう。
 注目すべきは延享年間(1744〜48)から町方の支配を受けるようになったすなわち村から町になったことであろう。それだけ江戸の人口も増えたからであろう。
 すでに堀部安兵衛の助太刀でも知られる高田馬場が江戸初期から設けられ、大名家の下屋敷も建てられるなど、江戸の町の発展に従い、徐々に早稲田の地も開発されていった。大隈重信の別邸も松平讃岐守所有のものであった。
 が、その一方で、現在、大学がある場所は関口に庵を結んでいた松尾芭蕉が琵琶湖になぞらえるくらいに田んぼも広がり、また前掲の「新編武蔵風土記稿」には、茗荷がこの地の名産であったことも記されている。現在は大学の中央図書館もこの地に安部球場が造られる前は茗荷畑であった。
 そしてこの地に大隈重信が東京専門学校を開いた当初、校舎の周囲は田んぼであった。
 それだけに校風にも質朴な香が漂っていたことであろう。