語り合いたかった:。もう一度だけでも:。
 
                               菊池 道人
 
  個人的な話から入るのははばかりがあるが:。
  最近、筆者はノートhttps://note.mu/という交流サイトにある問題提起をした。
 
 英文法をたとえにして、
 1 Be動詞 I am a writer. 作家「である」こと
 2  一般動詞 I write the story.その物語を「書く」こと
どちらにこだわりを持つのかということである。筆者の場合は2。すなわち、作品を描き出すということの方である。(詳細はhttps://note.mu/ichinin/n/n1df6765c3b6e)
 
  一体、どれくらいの人がこれを読んでくれたのか、そしてどのような感想を持ったのかわからない。しかし、誰よりもこの話を聞いて頂きたい方がいた。今となっては過去形にしなければならないことがとても辛いが、その方とは、歴史文学ロマンの会の先輩でもある作家・火坂雅志さんなのである。
 
 自宅のサッシ越しに見える外の枯れ枝を眺めながら、火坂先輩との語らいの記憶を呼び戻す。
 
 春たけなわの早大キャンパス。木々の緑と武骨ながらも瀟洒な風情も漂わせていた校舎。演劇博物館から南門への通り。第一学生会館へ謄写版を借りに行くため、火坂先輩と筆者は並んで歩いていた。
 謄写版といっても、これだけパソコンが普及している現在、おそらく若い人の大半はなじみがないはずだ。昭和五十年代の後半、専用紙に手書きの原稿を固定させ、インクをしみこませて、紙に刷っていた。当時、出版社に勤務し、歴史専門誌の編集者であった火坂先輩は仕事多忙にも関わらず、「歴史小説ノート」という個人誌を発行し、研鑽に励んでいた。その印刷作業のために母校を訪れていたのである。
 大学所轄の備品を利用するためには、学生証が必要だ。すでに卒業されていた火坂先輩は当時は在校生であった筆者の学生証で謄写版を借りるのである。
 社会人になっても勉強を続ける先輩の姿にその時、尊敬の念を抱いた。
 第一学生会館への道すがらに話した題目は、平泉に逃れた義経が藤原一族とともに鎌倉幕府と対決するとしたらどのような作戦を採るのかであった。
「白河の関に本体が陣取り、別働隊が太平洋岸から南下して:」仮想の世界を語りながら、血湧き肉躍る。ここに自分の青春があった。今、キーボードを叩きながら、今更のようにそう思う。あの時、語り合いながら歩いていた道の右側、法学部校舎も今や建て代わり、謄写版を借りた第一学生会館はもうない。
 「火坂先輩、僕は今、吉野山に逃れていた頃の義経があたためていた幻の構想をこれから書くつもりなのです」
 今となっては何処に向かって声を出せば、お耳に届くのか:。
 
 卒業後、数年くらいは毎年12月のサークルでの箱根や熱海の温泉合宿に筆者は顔を出していた。
 火坂先輩もいらっしゃったことがあった。その帰りの上り東海道線のボックス席。
 東戸塚在住の筆者は平塚までの火坂先輩から、
「西行法師は実は拳法使いだったんだ。その話を本にするんだ。僕もいよいよ作家デビューだよ」
 ようやく自分の歩む方向性が定まりかけていた筆者には、大いなる励ましであった。
 そして、これは日本文壇史が大きく動いた時なのだ。
 車窓から見える湘南の家並みが初冬の柔らかい小春日を浴びていた。
 火坂先輩のデビュー作「花月秘拳行」が講談社から上梓されたのはそれから1年近く後である。
 
 それからさらに数年後。同じく12月、同じく東海道線だが、夜の下り列車、東京都内で行われたある文学団体のパーティーの帰り。
 火坂先輩から紹介して頂いた出版社から何とか3冊目の本を上梓したばかりの筆者に対し、すでに多数の本を世に出され、文芸誌にも作品を発表、作家としての地位を着実に築きつつあった火坂先輩は、
「僕はまだまだ起承転結の起の段階なんだよ」
 後で知った話では、ご本人はこの時期、相当悩んでおられたそうであるが、筆者にとっては、長期的なビジョンを持つプロフェッショナルな姿勢がとても印象的であった。
 比較参考までに筆者自身の話を持ち出すと、今が起承転結のいずれなのか皆目わからない。
 
 その後に火坂先輩とお話する機会がもしあったならば、先ずもって、色々ご助力頂いたにも関わらず、ほとんどご期待に添えず、かえってご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げなければならないと思っていた。そのために、お側に参上しようかとも強く思ったが、大変ご多忙のところをお邪魔して、ご迷惑の上塗りをするようなことがあっては、と自重していた。まさか、その機会が今生にては得られなくなるとは、夢にも思わなかった。
 今更、詮無いことではあるが、もしお目にかかれたら、陳謝の言葉の後に、冒頭でも述べた件も含め、ITの世界に発表の場を求めているという近況も報告したことであろう。
 だが、 斯界に於いては、筆者が今、用いている手段には賛否両論ありということのようだ。
 電子の世界で文学など横綱の猫だましのようなものだ、と思っている人もいるかもしれないし、筆者自身もそのような台詞の出そうな世界を知っている。
 火坂先輩はこの問題をどうお考えになられていたのか。
「菊池君、君のやり方は違うんじゃないのか」
 でも、仮に(今となっては仮に止まりだが)、そう言われたとしても、今や自筆原稿が文学館に飾られる夢をかなぐり捨てた筆者はこう応えると思う。
「先輩、僕のモットーは佐久間象山の「東洋の道徳、西洋の技術」、早大野球部初代監督・飛田穂洲先生の「戦術技術は新しく、精神は古く」なのです。そして、何よりも「一球入魂」ならぬ一「作」入魂なのです」
 そしてまた、こんなことも:。
「僕は才能が無いと言われることはもう全然怖くないのです。もともと僕は才能で書くタイプではありません。その代わり、「こころ」で書くつもりです」
 火坂先輩、生意気な後輩の戯言をいつか冥界で聞いてやってください。 合掌。
 
   火坂雅志先輩一周忌命日に記す。