懺悔、また懺悔。都の西北の鬼子母神
 
                                  菊池 道人
 
 尾張のうつけ殿と呼ばれていた織田信長が桶狭間に東海の雄、今川義元を討ち、一躍、武名をとどろかせてから一年後の永禄四年(1561)、武蔵国清土(文京区目白台) に住む山村丹衛門という村人が畑の中から一体の仏像を見つけ、柳下という地主のもとへ届けた。
 女性のような姿をした仏像である。
 柳下は地元の法明寺という日蓮宗の寺に奉納したが、ある時、安房国(千葉県南部)から来た僧が出来心を起こして、この仏像を盗み出し、郷里へ持ち去った。
 すると、この仏像は突然、狂いだした。
「我は鬼子母神である。なぜこちらへ連れて来たのか。元の場所へ戻りたい」
鬼子母神はカリテイモとも呼ばれるインドの女神である。子宝に恵まれ、五百人の子を産んだが、他人の子を食べるという悪癖があった。この性癖を憂いた釈迦は、彼女の子の一人をさらった。一人の子の姿が見えなくなった鬼子母神はひたすらに嘆き悲しんだ。
釈迦は、五百人のうちの一人を失ってもこれだけ悲しむならば、たった一人の子を失った親の悲しみはどのようなものか汝にはわかるか、と。以後、鬼子母神は改心し、安産、子育ての神となったという。
 かつての悪行を懺悔したこの女神の懇願に、悪心を起こした安房の僧侶も自らの非を改め、法明寺へ返した。
 その後、この鬼子母神は、地元の多くの人々から信仰された。
 上杉謙信が亡くなった天正六年(1578)に仮初の社が創られたが、徳川幕府四代将軍家綱の代、寛文四年(1664)に広島藩主・浅野光晟の正室からの寄進により、鬼子母神堂が造営された。
 満姫と呼ばれるこの正室の父は前田利常。豊臣家五大老の一人、前田利家の子である。
 大坂の陣では、徳川方の先手を務め、敵の首級三千二百を献じたと「寛政重修諸家譜」に記されているが、豊臣方のヒーロー・真田幸村の引き立て役も務めている。
 冬の陣では、家臣の奥村摂津守が真田方からの挑発に乗って、真田丸と呼ばれる要塞の堀に深入りし、雨のごとき弾丸を浴びている。
 怒った利常は奥村を勘当したが、父利家が家康が最も恐れた人物であったことで、徳川方からは警戒され、それがゆえに神経過敏にもなっていた。
 その後も利常は、ひたすらに徳川への恭順の意を表し続けたが、その甲斐もあってか、娘の満姫は三代将軍の家光の養女となった。
 満姫は三男三女と子宝に恵まれていた。
 長男の綱晟は第三代広島藩主、 長女市姫は出羽国新庄藩主戸沢正誠に、次女亀姫は仙谷忠俊、三女久姫は豊前小倉藩主小笠原忠雄にそれぞれ嫁いだ。
 次男長尚は三好浅野家の養子となるも家督を継ぐ前に亡くなった。二十三歳の若さであったが、皮肉にも鬼子母神堂造営の二年後のことである。長男の綱晟も七年後に母に先立って三十七歳で亡くなっており、安産、子宝の神も悲しいかな、子供たちの長寿のご利益まではなかったのだろうか。長尚に代わって三男長照が三好藩を継ぐことになる。養父である初代藩主長治の娘・阿久里を養女とするが、この阿久里は後に忠臣蔵でおなじみ、浅野内匠頭長矩に嫁ぐことになる。
 
 雑司ヶ谷の鬼子母神は庶民にも親しまれた。八代将軍吉宗の頃から、参拝人たちに風車も売り出された。
 それは川柳や狂歌にも歌われている。
 
 風車子持ちの神が売り始め
 
 風車子のある神の土産なり
 
 風車子供の好きな神で売り
 
  最寄り駅の地下鉄副都心線・雑司が谷駅は西早稲田の隣駅である。まるで早稲田の森を北から守護するかのようだ。
 
参考文献 
 「江戸名所図会」
「鬼子母神のはなし」中村真男 風濤社
  「鬼子母神信仰」宮崎英修 雄山閣出版
 「佛教大辞典」大蔵出版
「新編武蔵風土記稿」
「寛政重修諸家譜」
「真武内伝」