我が天守閣は:
 
                             菊池 道人
 
 大隈重信は「人生125年説」を唱えていた。それには四十年余り足りぬ八十三歳で、大正十一年(1922)一月に世を去ったが、その大隈を記念する事業として、百二十五尺(約三十八メートル) の大講堂が建設されることとなった。
 場所は大隈邸の敷地内。建設費は在校生、校友から地元商店街、下宿業組合さらには早大とは直接関係がない福島県の旅館従業員一同からの寄付で、当時の金額で総額一五六万八千円余り集まった。
 その後、関東大震災の影響などで計画が一時中断されたこともあったが、ゴシック様式で演劇にも使える講堂をという高田早苗総長の発案に基づき、早大の建築学科の創設者でもある佐藤功一、耐震構造の父と呼ばれた内藤多仲、音響工学の先駆者的な存在であった佐藤武夫らが設計を開始した。 施工は戸田組(現・戸田建設)であった。
 同時期に建設された東大の安田講堂を手本としながらも、一本の支柱もなく大梁だけで2階客席を支え、音響効果を高めるための凹形の緩やかなカーブの内壁、照明を助けるホリゾントの使用、さらには宇宙を表現した楕円形の採光窓など、独自の工夫も少なからずなされた。
 搭上の時計には、アメリカ・ボルモチィアのマクレエン社からパナマ運河を越えて運ばれた鐘がしつらえられた。 この鐘は、現在でも8時、9時、12時、16時、21時と一日六回、ウェストミンスター宮殿のと同じハーモニーが奏でられている。
 ところで、「大岡越前」などで知られる早大出身の俳優・加藤剛氏の誠実な人柄についてある雑誌が「大隈講堂の鐘のように」と評していたのを、随分昔に見た記憶がある。
確か、NHK大河ドラマで平将門を演じていた時期であったのか。あるいは、筆者の記憶違いかもしれないが、とにかく、まじめな人柄を表現するのにその例えとして使われるくらいに今でも正確に時を告げている。
 
 さて、この大講堂の着工は大正十五年の二月十一日、竣工は昭和二年(1927)十月二十日。
 以後、大学主催の行事や講演会など様々なイベントに使用されてきた。それらを全て列挙しても、とてもしきれるものではないが、それらの中から色々と考えさせられるある出来事を紹介してみたい。
 60年安保闘争から二年後の昭和三十七年二月。アメリカのロバート・ケネディ司法長官夫妻と学生との討論会が大隈講堂で開かれた。ところが、アメリカに批判的な左翼系学生たちの野次と怒号で、会場は一時混乱状態となった。その時、来場していた当時の応援部員が壇上で指揮を執って、校歌の合唱を始めたところ、野次も怒号もぴたりとやみ、ケネディ氏を批判していた学生たちまでもいつしか大合唱の輪に加わっていた。
 ケネディ夫妻も学生たちと一緒に口ずさみ、 その二年後に再度来校した時には、夫妻とも校歌の歌詞をすっかり覚えていたという。
 学校史を彩る美談として伝えられている。母校の校歌の歌詞やハーモニーは思想信条の違いを超越するもの、ということなのであるが、それがいつもそうであるとも限らないのが現実である。
 もちろん、前述のケネディ氏来校時のエピソードがさもありなんと思われるような、例えば、早慶戦の夜の新宿で見知らぬ学友と一緒に校歌を歌ったり、早大出身の首相が誕生すると校友の野党議員が祝辞を述べたりするようなことはあった。しかし、その一方で、早大学内では学生運動で悲惨な内ゲバがあった。母校を媒体とする結びつきに対しての冷ややかな視線というものを感じるときも筆者には少なからずあった。イデオロギーや人間に対する好悪(そのどうにもならない点は森鴎外も「阿部一族」で述べているが)を校歌などで超越することが出来ないという現実も否定はできない。
 しかし、宗教上の対立によるテロのニュースなどを見聞する度に、それらを止揚させる何物かは存在しないのか、という思いはある。それが学校の校歌ではなくとも:。
 
 さて、筆者が入学したばかりの頃であるが:。早大出身の俳優森繁久弥氏が主演のミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」が大隈講堂で上演された。時あたかも、商学部の入試問題漏洩事件で、大学は批判にさらされていたが、
「あなたちには関係のないことなのですから、どうか頑張ってください」
 と森繁氏は熱いメッセージを送った、ということである。
が、「ということである」という伝聞調の書き方をしてみて、あの頃の残念さがよみがえる。実は筆者はこの場に居合わせることが出来なかった。観覧するためには、学部事務所で整理券を受け取らなければならないということを当日、それも上演開始直前になって知ったからである。結局、大隈講堂には入ることが出来ず、この話は後に知ることになる。
大学では、学校行事などについては、常に学内の掲示板で確認しなければならない。先生方が教室で一々教えてくださることはほとんどない。 「もう子どもではないのだから」という戒めと筆者は受け取るしかなかった。
 
 大隈講堂は平成十九年(2007)に重要文化財に指定された。それよりも数年前のことであるが、筆者は会津若松城を訪れ、少年白虎隊や新撰組の土方歳三、斉藤一らに思いを馳せながらも、「自分にとっての天守閣は大隈講堂なのだな」という感慨が沸いてきた。
 
  *参考文献
「エピソード早稲田大学」奥島孝康 木村時夫監修 早稲田大学出版部
 他