テロリストへの寛容              

 

 

                 菊池 道人

 

 

                              

 明治二十二年(1889)。この年は大日本帝国憲法が発布され、明治体制が確立した年として歴史に刻み込まれているが、大隈重信の生涯にも重大な年である。
 この年の十月十八日。外務大臣の任にあった大隈は閣議に出席、それを終えた後、首相官邸(当時の首相は黒田清隆)から外務省に移るべく、馬車に乗っていた。
 霞が関にある外務省の門前まで来た時である。
 突然、一人の男が馬車に向かって物体を投げつけた。爆裂音が鳴り響く。
「馬鹿っ」
 という大隈の怒鳴り声。馬車は一部を損傷するも、門の中へ:。
 爆発物を投げつけた三十くらいの男は、駆けつけた警察官から、
「凶徒は何処に逃げたか」
 と尋問されると、
「虎の門方面に逃げました」
 と泰然と答えた。そして、警察官が立ち去るや、懐中から短刀を取り出し、喉を突いて自らの命を絶った。
 大隈に爆弾を投げつけた男の名は来島恒喜。福岡県出身で、黒田藩士の家に生まれた。
 余談だが、早大野球部初代部長・安部磯雄教授の実家も黒田藩士である。
 豊臣秀吉をして「自分の死後に天下を取る男」といわしめた名軍師・黒田如水の血筋の藩であるが、その終焉期の藩士の子弟二人が、対照的な形で大隈重信と関わっている。
 
 来島は明治維新から西南戦争へと続く激動の中、政治問題に強い関心を持ち、土地を開墾しながら政治活動を行う開墾社に参加するが、この結社が向陽義塾さらには玄洋社となる。
 玄洋社は、
  第一、皇室を敬愛すべし、
  第二、本国を愛重すべし
  第三、人民の権利を固守すべし、
 を旨とし、箱田六輔、平岡浩太郎、頭山満らが中心人物で、当初は自由民権運動の一派であった。
 しかし、幕末期に欧米と結んだ不平等な条約の改正を求める運動が高まると、玄洋社もそうした時流に乗って国家主義的な色彩を強めていった。
 
 条約改正の主たる目的は、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復であるが、大隈の前任の外務大臣・井上馨は、これらと引き換えに、外国人判事の各裁判所への任用を交換条件として提示した。幕末期、長州藩の過激派志士として英国公使館焼き討ちにも加わったこともある井上ではあるが、鹿鳴館の建設を推進し、西洋流のダンスパーティーを奨励するなど、日本の文明化すなわち欧米化をアピールしていた。こうしたこともあって、対外強硬派から激しく非難されていた。
 これに対して、後任の外務大臣たる大隈は、外国人判事の任用を大審院に限るとした案で交渉をすすめていたが、これがイギリスのジャーナリズムに暴露されると、これもまた批判の矢面に:。
 世論の大勢は外国人判事の任用は一切、認めないというものであった。
 
 普段は寡黙で酒色も好まなかったという来島恒喜。そのような彼にとっても、大隈の外交交渉は軟弱なるものと映った。意を決するや、玄洋社も離脱し、大隈狙撃の機会を狙っていた。朝鮮改革を企て、大阪で捕らわれて投獄されたこともある自由民権活動家・森久保作蔵から爆弾を譲り受けると、ついに実行に及んだということであった。
 
 襲撃された大隈重信は右足に重傷を負い、当日夜に手術を受け、結局、一命はとりとめたものの、右足を失った。
 テロリズムによる政治活動の妨害は許すべからざることのはずである。
 ところが、加療中の大隈は、なんと側近を自刃した狙撃者・来島恒喜の葬儀に参列させている。そしてその後も法要の度に香料を贈り、追悼演説までした。
 来島の行動が国を憂いてのものであることを大隈も認め、一身をなげうつほどの勇気を讃えたのであった。
 
 条約改正は、明治二十七年、陸奥宗光外務大臣の手で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部を回復、同四十四年、小村寿太郎外務大臣によって、関税自主権は完全に回復した。
 
(付記)自分の命を狙った者を許し、その冥福も祈るとは。人を許すことは簡単ではないことですが、それだからこそ、それをなし遂げるのは偉大なことなのです。筆者もこれまでの自身の生きかたを振り返り、反省、懺悔です。