たとえ叶わぬ夢でも
 
                                   菊池 道人
 
 夢を持つことは若者の特権である、という。いや、若者ならずとも、生きている限りは夢を抱いていたいと願う人も多いであろう。
 が、夢のあり方は様々:。
 創設してから四年後の明治十九年(1886)。早稲田大学の前身である東京専門学校に熊本からある青年が入学してきた。彼の名は宮崎寅蔵。徳富蘇峰が開いていた地元の大江義塾から転学してきたのである。
 彼の一族はまさに夢多き一族である。次兄の八郎は自由民権運動に目覚め、反明治政府の志から西南戦争では西郷隆盛に与して、戦死を遂げている。以後、彼の父は寅蔵ら遺された弟たちに「官吏にはなるべからず」と厳命したという。
 さて、はるばる熊本から上京し、早稲田に身を投じた寅蔵であったが、在籍期間は極めて短い。程なく中退し、キリスト教に入信している。
 そして、その後の経歴からして、どうやら早稲田に於いては、真の夢とはまだ巡り会っていなかったようである。その後、熊本英学校や長崎のミッションスクールであるカプリ英和学校に学ぶも、彼の夢の対象は欧米ではなく、アジアに向くようになっていた。
 当時、欧米列強の侵略に苦しんでいたアジアを解放し、日本と連帯させるというのが寅蔵の夢であった。
 朝鮮独立党の金玉均と交わり、タイの開拓事業にも参加、フィリピン独立運動も支援するが、その志半ばにして世を去った兄の弥蔵の影響もあって関心の対象を中国大陸に向けるようになる。
 清王朝は末期的症状をきたし、西欧列強に浸食されつつある中国。王朝を打倒し、共和制国家樹立を志す孫文で横浜で知り合い意気投合した。
 寅蔵は白浪庵滔天と号し、孫文の革命運動を支援する。しかし、その道は苦難の連続である。日本からの武器輸送に失敗するなど、幾度も挫折に遭遇した。なによりも寅蔵こと滔天を苦しめたのは貧困である。
 妻の槌子は、海軍の軍服を縫う内職などをして懸命に生計を支えた。
 滔天自身も浪花節語りで糊口をしのぐようになった。
が、そうした苦難の日々、自身は袖をすりあわせる程度の縁でしかなかった早稲田と別の形のつながりも生まれる。
 
 明治三十八年(1905)、早稲田大学に清国留学生部が発足した。「清朝政府の教育行政を補完する」のがその主旨であるが、留学生の中には、例えば宋教仁のように祖国の革命を志す者も多数いた。そして、彼らは東京に居を構えていた滔天の家にも出入りするようになっていた。
 また早稲田の地も革命を志す青年たちの交流の場となっていた。
 平成二十八年(2016)1月から2月に早大では、「宮崎滔天と早稲田に学んだ中国人留学生展」が開催され、その記念シンポジウムが1月下旬に開かれたが、その時のバネリストの一人となった早稲田大学 地域・地域間研究機構研究員の紀旭峰氏の発表によれば、孫文や周恩来などの後の中国政府要人たちが早稲田界隈に住み、また孫文らの革命運動に理解のあった数少ない日本の政治家の一人である犬養毅の邸宅も現在の大学史資料センターのすぐ近くにあった。
 アジア大陸の大変革の胎動は早稲田でも起きていた。中国の辛亥革命は日本の明治四十四年に当たる1911年のことである。
 
 民主国家として再生した中国と真の近代化を成し遂げた日本との連帯。これが滔天と孫文の夢であった。
 しかし、孫文らが南京に樹立した中華民国政府の政権基盤は脆弱で、旧清王朝の実力者、袁世凱らとの妥協を余儀なくされた。孫文はやがて政権を追われ、一時は日本へ亡命した。日本政府も孫文らに対しては冷淡であった。第一次大戦後の対華二十一箇条の要求など、日本は中国に対して、次第に帝国主義的な姿勢を見せ、中国国内でも五四運動など反日の気運も強まっていた。
 日中関係の行く末を憂いながら、滔天は大正十一年(1922)に、孫文はその三年後に世を去った。
 昭和六年(1961)の満州事変は日中の関係をさらに悪化させる。そして、六年後は日中戦争。時の近衛文麿内閣は不拡大方針の声明を出す一方で、中国国民党の蒋介石との和平交渉を密かに画策していた。
 そしてその使者として選ばれたの滔天の長男の宮崎竜介。弁護士で社会運動家でもあった。竜介は東大在学中に新人会を設立するなど大正デモクラシー運動に関わっていたが、父の影響で中国人留学生たちとも交わっていた。 そうした人脈力を近衛は見込んでいた。
 しかし、神戸にて出航を目前に、竜介は憲兵隊に逮捕され、特使派遣は実現できなかった。
 その子息によって辛くも命脈をその死後も保っていた滔天の願いはむなしくついえた。
 
 戦後、田中角栄内閣によって共産党政権の中国と国交回復したのは昭和四十七年(1972)。同五十三年には福田赳夫内閣によって日中平和友好条約が結ばれる。
 しかし、現在、日本は中国との間に尖閣諸島の領有権問題を抱えている。この問題に象徴される中国の海洋進出は、日本のみならずフィリピン、ベトナムさらにはアメリカとの緊張も醸し出している。
 対外強硬策を進める中国の国内は共産党による事実上の一党独裁の下、ウイグル、チベットなどの民族問題や人権、言論弾圧が頻発している。
 これらの問題を日本もいつまでも対岸の火事として見ていられるのであろうか。
 宮崎滔天の大陸にかけた夢は対日、中国国内とも、現実とはかけ離れている。
 だが、それはただむなしいだけのものなのか。
 現実があるべき姿ではないというのであれば、あるべき姿を思い起こすのは、果たされぬままの先人の夢なのではないのか。
 叶う夢ばかりが夢ではない。叶わぬ夢を見ることも、決して無駄ではない、とは思うが:。
 
参考文献 「宮崎滔天全集」平凡社刊 他