1882・10・21 大隈重信からのメッセージ
菊池 道人
早大本部キャンパスの真ん中に立ちつづけ るのは、お馴染み大隈重信銅像。 学園のシンボルともいうべきこの銅像はい つも無言ながらも何かを語りかけている。 一体、何を? 「人生意気に感じたら びくともするな」 である、と「人生劇場・早稲田ヴァージョ ン」の前口上では云う。もっとも、この銅像 が朝倉文夫によって製作されたのは、昭和七 年(1932)のことで、「人生劇場」の主 人公・青成瓢吉のモデルともいわれる作者・ 尾崎士郎が早稲田に入学した大正五年(19 16)当時には、銅像どころか大隈重信本人 が生存していた。 大隈重信が死亡したのは、大正十一年(1 922)一月のことであるが、その死後もそ の銅像が、何を語りかけているのであろうか ?もっと勉強しなさい?若者は元気がなけれ ばだめだ?
大隈重信は、天保九年(1838)、佐賀 藩士の子として生を受けた。 幼少より学問を好むも、「葉隠」に代表さ れる藩風は、若き大隈には偏狭なものと映る ようになっていた。学制改革を試み、藩校・ 弘道館で騒動を起こして、退学を命じられこ ともあった。これ以後、大隈は、蘭学を志す ようになっていた。ペリー来航とその圧力に 屈しての開国以来、西欧事情に関心を向ける 者も多く、大隈も、長崎に遊学し、オランダ 人宣教師・フルベッキに英学も学ぶなどして 、貪欲に西欧の知識を吸収していった。 やがて、二十四歳の若さで蘭学寮の教官と なり、さらには藩主の鍋島閑叟にオランダ憲 法を講じるまでとなった大隈は、藩政にも参 加するようになっていた。 時代は、尊皇攘夷から倒幕へ、それをリー ドしていったのは、薩摩藩や長州藩である。 大隈も時の将軍・慶喜に大政奉還を説くこ とを志すも、藩当局は、中央政界の動きに関 心を示さない。大隈は脱藩して、京に潜行す るも、逮捕されて、佐賀に送還され、一時、 謹慎の身となってしまった。 この間にも大政奉還、王政復古の大号令、 戊辰戦争、さらには明治天皇による五箇条の 御誓文と時代の流れは展開していく。 佐賀藩が時流に乗らぬ間に明治維新となっ てしまった。そのことが、後の大隈の政治活 動にも微妙に影響を与えていくことになる。
勝海舟と西郷隆盛の会談によって江戸城の 無血開城がさなれた二日後、大隈は、参与兼 外国事務局判事として長崎に在勤することと なった。すでに、佐賀に大隈ありと聞こえて はいたが、その存在を非凡なるものとして印 象づけたのは、キリスト教徒処分問題である 。徳川幕府はすでに倒れたとはいえ、キリス ト教は許可されていなかった。イギリス公使 バークスは、長崎裁判所の行ったキリスト教 徒処分の撤回を要求してきた。この時、パー クスと直接交渉を行い、内政干渉であると突 っぱねたのが大隈であった。 この一件以来、大隈重信は、岩倉具視、大 久保利通、木戸孝允など新政府首脳にも一目 置かれるようになった。 キリスト教徒処分問題の翌月、慶応四年( 1868)五月、イギリス人殺傷事件の交渉 でも敏腕をふるって、外国官副知事に任じら れ、明治二年には会計官副知事を兼任、さら には大蔵大輔三年九月には参議、六年には大 蔵卿兼任と、着実に政界の中枢へと登りつめ ていった。 大隈は、経済・財政面でもその手腕を発揮 す。 旧藩の藩債整理、地租改正、通貨統一、会 計検査院の設立さらには鉄道施設や郵便事業 など、大隈の発案によってなされた様々な施 策が、近代国家を実体あるものとしていった 。 しかし、自由民権運動が高まってくると、 国会開設などを巡って、薩摩藩や長州藩出身 の政治家たちとの対立を深めていった。 大隈は、国会の早期開設を唱えるも、長州出 身の伊藤博文らはこれを時期尚早として反対 した。 加えて、北海道開拓使の官有物を薩摩出身 の政商・五代友厚に不当に安い値段で払い下 げることに大隈は反対した。 薩長藩閥政治批判の世論が高まる中、伊藤 博文や岩倉具視らは、大隈が在野の民権運動 家と結託しているとし、排斥を企てた。 明治十四年(1881)十月、大隈が、明 治天皇の東北・北海道巡幸に随行している間 、大隈追放が内定、天皇が帰還した直後の十 月十一日の御前会議で、正式決定した。 伊藤と西郷従道が大隈邸を訪れ、辞表提出 を求める。 大隈は穏便に官を辞する覚悟で、皇居へ参 内しようとしたが、門衛に拒まれ、天皇への 拝謁すら許されなかった。 大隈にとっては、屈辱的な「明治十四年の 政変」であった。
野に下った大隈は、翌年、イギリス流の議 院内閣制を主張する立憲改進党を結成し、自 由民権運動の一方の旗頭として再起した。 薩摩や長州の藩閥政治と対決し、日本に立 憲政治・政党政治を根づかせることを志した 。その一方で、新国家を担うべき人材育成の 必要性も痛感し、学校設立も思い立った。 明治十五年十月二十一日。 東京府の西、早稲田の地に政治学、法律学 などを講じる「東京専門学校」が開校された 。かねてより、大隈とともに語り合って いた「鴎渡会」の小野梓、高田早苗、天野為 之らが、教壇に立つこととなった。 その開校式当日。 来賓には慶応義塾創立者の福沢諭吉を初め 錚々たる顔ぶれが揃う中、当の大隈重信本人 は最後まで姿を見せなかった。 政変で下野した政府の有力者が学校を開く 。この事実は、これより五年前に西郷隆盛が 私学校生徒にかつがれて、西南戦争を引き起 こしたことをいやがうえでも想起させた。 政府当局による弾圧を避けるため、大隈は この日、学校の隣の自邸に引きこもっていた のであった。 そして、この「東京専門学校」の進むべき 道筋を、創設者・大隈重信に成り代わり、学 校経営の実務を取り仕切ることになる小野梓 の演説が示した。以下一部を引用する。
私が本校の議員としての立場からいへば、 本校の学生を誘って改進党員に加入させると いうことはとるべき態度ではない。本校の目 的は学生諸君をして速やかに真正の学問を得 せしめ、早く之を実際に応用せしめんと欲す るに在る。故に本校の学生は、真正の学識を 積むことこそ目標とすべきである。諸君もし 卒業の後政党に加入せんと欲せば、諸君が本 校で得た真正の学識によって自ら決すればよ い。本校は決して諸君が改進党に入ると自由 党に入ると、ないしは帝政党に入るとを問ふ て、その親疎をわかたないのである。
政治家・大隈重信には、教育者、早稲田大学創設者とは別の評価がある筈なので、それ 以後の足跡はここでは省略する。 しかし、明治十五年十月二十一日、後の早稲田大学こと東京専門学校開校式に、創立者 でありながら出席しなかったという行為と、 それを補足するかのような前掲の小野梓の演 説こそが、百年以上も後にも、あの銅像が早 稲田に通う人々、早稲田を訪れる人々に訴え 続けていることなのではないのであろうか。 少なくとも、真先に主張したかったことで あることには相違あるまい。
(付記)NHKの番組ではないですが、まさ に「その時、歴史が動いた」の感があります ね。校歌にも歌われる「学の独立」とはまさ に「政治からの独立」をも意味していると言 えるでしょう。これに照らして、学園の歴史 を省みるに、その時々の政権の顔色をうかが って曲学阿世に走ることも、狂信的な思想団 体が学生自治会を牛耳ることも、本来の建学 の精神からは対極にあるといわねばならない でしょう。 そして、平成時代、二十一世紀に入って気 掛かりなことがあります。 学校当局が、「第二の建学」とした「早稲 田大学第二世紀宣言」では、「学問の独立」 は「独創的な先端研究への挑戦」とされてい ることです。筆者は、「独創的な先端研究: 」という考え方そのものを否定する意志は毛 頭ありません。むしろ、必要なことであると も認識しています。 しかし、先述の小野梓の演説「諸君が改進 党に入ると自由党に入ると、ないしは帝政党 に入るとを問ふて、その親疎をわかたないの である」に、現存する「自民」「民主」「社 民」などの政党名を入れ換えてみても、全く 色あせることはないと思いますが、いかがな ものでしょうか?まして、昨今、無党派層の 拡大、国民の政治不信が声高に論じられてい る時代、体制派、反体制派を含めたあらゆる 政治勢力から独立し、毅然としなおかつ冷静 な視点から社会・国家を見据え、それそれが 歩むべき道筋を見いだすことは、より一層、 必要なのではないでしょうか?「学問の独立 」を「政治からの独立」と位置づけることは 時代錯誤であると考えているような先生方が 現在の早大にいらっしゃるのでしょうか? 筆者には、最近、大隈重信先生の銅像のお 顔がひどく不機嫌そうに見えるのですが:。