バンカラさんが通る                                                                                                                菊池 道人   
 
バンカラとはハイカラをもじった対義語である。ハイカラとは西洋式の身なり や生活様式のことであるが、明治時代、この言葉によって代表される西欧化指向 に対して、東洋風の豪傑を気取り、粗野な言動や身なりを表す言葉として広まっ ていた。  学校の校風でいうならば、ハイカラが慶応でバンカラが早稲田というのが今な お根強いイメージである。  建学の理念は慶応が「独立自尊」で早稲田が「学問の独立」ともに独立という 言葉がキーワードである。福沢諭吉と大隈重信という創設者同士も無二の親友で あったが、ともに国家権力や政治的な力関係に左右されずに学問修行を行うとい う姿勢には共通したものがある。  しかし、その学生気質は対照的である。  早稲田といえばバンカラ。それを象徴するかのような生き様をした男がいた。 明治二十八年(1895)、早大の前身たる東京専門学校専修英語科に入学した 押川方存(まさあり)である。  が、号である春浪の方がその活躍を知られているので、以下春浪で通す。  キリスト教伝道導・押川方義の長男として愛媛県松山に生まれたが、東京専門 学校入学までは学校を転々としていた。余り上手ではなかったが、野球に熱中し すぎて明治学院を辞めさせられた。この学校は、東京の学校でも比較的早くに野 球を始めた学校であるが、父の方義は学業不振の原因と決めつけた。春浪は父が 院長を務める東北学院に転校するが、喧嘩沙汰で退学、札幌農学校に移るが、こ こでも乱闘事件を起こして、水産伝習所に移った。将来は捕鯨をとの志を抱いた が、鯨の数が減少しているという話を聞いて、その道も断念、父の方義が昵懇に している大隈重信が創設した東京専門学校に入ったのであった。  この専門学校は当時からバンカラで通っていた。後に春浪は「僕等の入った時 分には、今日とは余程異なり、一言にして評すると学生の梁山泊とも云うべく、 破帽弊衣の連中が多く転がっていて、喧嘩はやる口論はやる、高足駄で廊下を横 行闊歩する、雨の降る日などは、蓑笠で教場へ飛び込んで来る乱暴人などもあっ て、互いに豪傑風を気取り、運動会をやればまるで野武士の集合の如く:」と当 時の学生たちの様子を述懐している。そして、春浪自身も相変わらずのバンカラ ぶりであった。  借馬に乗ったところ、馬が暴れ出し、交番に突っ込んだこと、酒に酔った無頼 漢十数名と喧嘩して袋叩きにされ、三ヶ月余りも入院したこともあった。  しかし、こうした春浪の性格と校風とが適ったのか、明治三十一年に英語科を 卒業した後、引き続いて邦語政治科に入学した。そして、専門学校在学中に、春 浪の才能は開花し、世に出た。  野球や喧嘩に明け暮れる一方で、文学青年でもあった春浪は、その文才を発揮 して、冒険小説「海底軍艦」を執筆、児童文学界の重鎮、巌谷小波の知遇を得た 縁で、ついにこの処女作を出版したのであった。  彼がいうところの痴情小説や卑猥詩歌などは国民を堕落させるだけなので、冒 険小説、武侠小説などで男子の生きるべき道を説く、というのが春浪の文学精神 である。  明治三十四年に東京専門学校を卒業した春浪は、その後も「魔島の奇跡」「銀 山王」「東洋武侠団」など多数の作品を世に問うた。  ところで、春浪が早稲田在学中は志半ばのままであったことが一つある。それ は野球部創設である。明治学院中学時代に落第するまでその魅力にとりつかれて いた春浪は、東京専門学校にも野球チームをと意気込んでいたが、当時のこの学 校は、野球を知っている学生は少なかった。学生の年齢層が高く、中には先生よ りも年上という者も少なくなかった。運動といえば柔道や剣道といった日本の武 道が主で、野球、テニスなどの西洋の運動競技には余り関心がなかった。  春浪が卒業した明治三十四年、東京専門学校は大学昇格を見越して高等予科を 新設、ここに中学を出たての若い学生がこぞって入学するようになった。野球経 験のある者たちも急に増え、郁文館中学で名捕手として鳴らした大橋武太郎を中 心にチアフル・クラブというチームを結成、これが安部磯雄教授の尽力によって 正式な野球部となった。この野球部創設二年目の明治三十五年に、春浪の弟・清 が入学、入部、後に第三代主将となる。兄よりも遙かに野球がうまかった清は、 その後、日本最初のプロ野球チーム・芝浦協会を創設するなど野球界に多大な貢 献を成しているが、春浪も旺盛な文学活動の傍ら、スポーツの振興に力を尽くし ている。早大の野球部や庭球部の学生を中心に他校の学生さらには文化界、政界 の著名人も名を連ねた社交団体「天狗倶楽部」を結成して、運動会や旅行会を催 したりもしたが、中でも特筆すべきは野球擁護の論客として活躍したことである。  明治四十四年、朝日新聞が学業の支障になるなどの理由で、「野球害毒論」を 展開したが、春浪はそれへの反論の陣頭に立ち、神田青年館で演説会を開いた り、安部磯雄と共著で「野球と学生」を出版した。野球は柔道や剣道などの武道 と同じように、精神修養としての効能がある、というのが春浪の主張であり、そ れはその後にも続く日本の野球思想にも少なからぬ影響を与えた。  ちなみに、春浪の同郷の文学界の先輩・正岡子規は、野球を題材とした歌も数 多く詠み、その普及に貢献したが、春浪のこうした活動は文学者によるスポーツ 振興としても注目すべきであろう。  春浪は雑誌「武侠世界」も創刊して、主筆となった。この「武侠世界」では後 に早大野球部の初代監督でアマチュア野球の精神的支柱ともなった飛田穂洲が記 者として活躍している。   しかし、春浪は酒に溺れることも多く、それがために健康をむしばんでい た。次男と母を相次いで亡くしたことで精神的にもかなりの衝撃を受けていた。  大正三年(1914)十一月十六日、押川春浪は三十八歳の若さで世を去った。  短い歳月に多くのことが凝縮されていたような生き様であった。    (付記)この文を書くに当たり、明治時代の文化史・風俗史にも大変お詳しい 作家・横田順彌氏のご著書を参考にさせて頂きました。横田氏は明治期の野球に も精通していらっしゃいますが、そのきっかけは押川春浪の弟、清が横田氏が大 ファンである中日ドラゴンズの創設期に相談役として関わっていたことであるそ うです。氏の野球史研究活動とそのご著書が縁で私菊池も色々とお世話になるこ とに:。押川清は私の高校(郁文館)の先輩でもあります。