それは都の東北で始まった
                                                             菊池 道人  
                                         
 

隅田川の西岸、浅草のはずれに橋場という地名の場所がある。
「伊勢物語」で、在原業平と思われる男が

 名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

 と詠んだ場所はここである、という説もある。
業平らしき男が都鳥と詠んだ白い鳥は、鴎のことであろうか。
 この辺りは、今でも、鴎が多い。
 この橋場の地にはかつて「鴎の渡し」という渡船場があった。
明治十四年(1881)春頃から、「鴎の渡し」近くにある小野梓宅(といっても、義兄の小野義真邸の別棟を借りていたのであるが) に青年たちが集うようになっていた。この青年たちは、小野宅を訪問する際、揃って行くようなことはせずに、わざと散り散りに訪れていた が、その理由を説明する前に、小野梓の経歴を述べる。
 ペリー来航の前年、嘉永五年(1852)、土佐国(高知県) 宿毛の郷士の家に生まれた。
「身を以て犠牲とし之を国家の用に供するは男子第一の栄誉なり」との父の遺訓に従い、戊辰戦争では、倒幕軍に加わった。
戊辰戦争終結後、他藩の者たちと広く交わろうと志し、旧幕府の昌平坂学問所 に入学した。ところが、朝敵の学校に入ることはまかり成らぬとの藩の忌諱に触れ、帰国せざるをえなくなった。
 土佐藩といえども、坂本龍馬のように気宇壮大なる志と広い視野を持った人傑ばかりではないのだが、青雲の志に燃える小野には、こうした藩意識は、偏狭なセクト主義にしか映らなかった。
 平民の家に養子に行くように見せかけて、藩を離れた。
 何とか身軽になった小野は、海外留学を志望して上海に渡り、当時、西洋列強に侵略されつつあった中国大陸の実情を見て回る。
 その後、一旦は帰国して英語を学んだ後、アメリカへ渡って、憲法や行政法を学び、さらに後には、官費留学生としてイギリスへ赴き、法律や政治の他、銀行の組織なども学んだ。
 帰国したのは明治七年(1874)五月だが、程なく、「共存同衆」 という会を結成して、社会の近代化のための啓蒙活動に従事するようになる。その二年後、司法少丞に任官、民法副課長となった。
 次第に時代の流れに必要とされるようになった小野に着目したのが、参議兼大蔵卿の大隈重信である。
 明治十三年に会計検査院が設立されると、大隈の引きで、検査官となった。

 さて、その小野梓の自宅に青年たちが集うきっかけ、それは間接的な人のつながりによるものである。
 小野の友人に小川為次郎という統計院の官吏がいたが、その小川の友人に橘顕三という人物がいて、弟のカイ二郎とともに進文学社という私塾を開いていた。この進文学社で英語教師をしていたのが、当時、東京大学に在学していた高田早苗である。橘兄弟の紹介で高田は小川為次郎と親しくなり、小野梓のことを小川から聞くようになり、次第に関心を抱きはじめた。そして、小川の紹介で、高田が小野に初めて会ったのは、明治十四年の二月のことであった。
 すっかり意気投合し、現職の官吏である小野はまだ学生であった高田に
「君たちは大学で政治、経済を学んでいるのだが、自分は実際に政界に身をおいて、君たちの知らないようなことも多少は知っている。君の友人の中で、これはと思う人がいたら何人でも連れてきたまえ」
と言った。
 高田は、大学の学友の岡山兼吉、市島謙吉、山田一郎、砂川雄峻、山田喜之助、天野為之の六人を誘った。
 高田も含めた「七人の侍」はかくして、会計検査院の官吏、小野梓宅に集い、時には鴎の舞う隅田川を見渡しながら、学問や時局について語り合った。遅くまで議論に花が咲き、東大の寄宿舎の門限に遅れることすらあったという。
 小野梓と高田ら東大生たちの勉強会は鴎の渡しにちなみ、「鴎渡会」 と名付けられた。武骨な政治談義の会にしては風流な名前であるが、「七人の侍」たちが散り散りに訪問することと関係のある理由がある。話の内容が、この時期、反政府的な方向で熱を帯び、人目を忍ぶ必要があったからである。
 折しも、北海道開拓使の官有物が政商の五代友厚に不当な安値で払い下げられようとしていた。
 開拓使長官の黒田清隆は薩摩藩出身、五代友厚も薩摩藩の儒官の子であった。
 現代でもしばしば問題になる、天下り業者の絡んだ政財官の癒着の原型をここに見るような感があるが、当時も、民間からは激しい批判の声があがり、それが国会開設を望む自由民権運動と結びつくようになっていた。
 その中心となっていたのが、小野が 頭領と仰ぐ大隈重信であった。そして明治十四年十月、大隈は伊藤博文らによって政界を追われ、野に下った。
 大隈は、イギリス流の議会政治、議院内閣制を目指す立憲改進党を結成し、伊藤らの薩長藩閥政権に対抗する。
 小野梓は、この改進党の主義綱領を起草している。
 政変のあった翌年、明治十五年四月、高田早苗ら鴎渡会の七人は小野の紹介で雉子橋の大隈邸を訪れ、大隈重信その人と初対面している。その後、小野から高田ら鴎渡会の七人の侍たちに、大隈が政党結成とは別のもう一つの志を持っていることが告げられた。
 大隈が言うには
「自分は早稲田に別邸を持っていて、養子の英麿が天文学の研究をしていて、理科の学校を作りたいと言っているので、それを校舎にあてようとしていたのだが、諸君のように法律や政治、経済を学んだ同志を得たのだから、理科のみならず、法律や政治、経済も教える学校を作りたいと思っている」
ということであった。高田らは、卒業後の身の振り方で悩んでいた折でもあったので、この話は渡りに船でもあった。
 これが東京専門学校こと後の早稲田大学の始まりである。
 鴎渡会のメンバーがこぞってこれに参画したのであった。
この年の十月二十一日が開校式であった。
 以前にも述べた通り、創設者たる大隈重信はこの開校式に姿を見せなかった。この五年前に西南戦争を起こした西郷隆盛の残像を政府関係者が鮮烈に抱いていたこともあるが、それのみならずこの学校の歩むべき道筋を身を以て表したのでもあった。
 明確な言辞で表現したのは、実際に学校経営の采配をふるうことになった小野梓のこの日の演説である。
 この原稿を書いているのは、早大創立百二十五周年の四十余日前のことである。
 以前にも引用したので、蛇足かもしれないが、その精神を後世に伝えようという確固たる意志を現在の早大当局からは感ずることが出来ないので、左に小野の演説の一部を再度引用する。
「我が学生にして異日卒業の後、政党に加入せんと欲せば、一に諸子が本校にて得たる真正の学識によりて自らこれを決すべし。本校は決して諸子の改進党に入ると、自由党に入ると、乃至帝政党に入るを問うて、其の親疎を別たざるなり」

学校の道筋を示した小野梓ではあるが、この四年後、惜しくもわずか三十五歳で病没した。
最後に鴎渡会のメンバーのその後の学校での役割、経歴を略述する。

高田早苗 憲法、政治学、史学などを講ずる。初代初代学長、第三代総長。第二次大隈内閣で文部大臣。

天野為之 「経済原論」を著す。現在の商学部の祖でもある。早稲田実業校長、第二代大学長。しかし、大正六年の早稲田騒動で高田早苗と対立して、大学を去り、以後、早実の経営に専念。

市島謙吉 図書館長を務める。後に大日本文明協会理事長。多くの随筆や回顧録を残し、学園史の貴重な史料に。

岡山兼吉 弁護士としても活躍、早稲田では商法や英国刑法を講ずる。しかし、学校を神田に移転することを主張して退けられたことから早稲田を去り、中央大学の前身たる英吉利法律学校を設立。

砂川雄峻 創立一年で早稲田を去って、大阪に移り、後に関西法律学校(後の関西大学)理事長などを務めた。

山田一郎 政治言論、政体論を講ずる。改進党の地盤拡張に貢献。

山田喜之助 岡山兼吉と志を同じくして、英吉利学校に移る。国際法などを講ずる


 途中で袂を分かつ者もいるところがまた個性の強い人間が多い早稲田らしいところでもあろうか。中央大学や関西大学など他大学の設立にも関与する人もいるところも見れば、鴎渡会の存在は、一早大のみならず、日本の教育界の母体の一つといってよいであろう。

(付記) 隅田川と早稲田といえば、毎年四月に行われる恒例の早慶レガッタも思い出される。
同じ東京の学校でも慶応が山の手ならば早稲田は下町的な印象が強い。
隅田川流域出身の早稲田関係の著名人で思い出される人も何人かいる。
数々の忘れがたき名作ドラマを描く山田太一氏(昭和33年教育卒)は浅草の生まれである。
 隅田川東岸からは、本塁打世界記録保持者で現・福岡ソフトバンク監督の王貞治氏(昭和34年早実卒 早大推薦校友)が出ているが、その王氏の恩師として知られる荒川博氏(昭和28年商卒)も浅草出身で、早稲田実業時代、当時、同じく浅草に住んでいた大正時代の早大の主力選手であった河合君次氏(昭和2年政経卒)の指導を受けていた。
 河合氏から荒川氏そして王氏へとつながる系譜については、拙著「虹のスラッガー」の最後の方で触れたが、これらの話も含めて、いつか当シリーズで取り上げたい下町がらみの早稲田物語もいくつかある。