理工学部は養子であった?
 
                              菊池 道人
 
 このシリーズも長くなったな、という印象があるが、「校内編」を振り返ってみると、ジャンル的には政治、文学、スポーツが主で、まだ肝心なものが抜けていた。
 理工学部のことである。
 筆者は理工系学問への素養はほとんどなく、早大入試の際もさすがに理工学部は受験しなかったが、それとは別に、早大理工学部の創設は他の学部に比べて遅れていたのも確かなことである。
 明治十五年の創設に際しては、理学科も開設されていた。創設者・大隈重信の養子である英磨が天文学を修めていたので、それを活かすためでもあったが、創設期に八名の入学者があったものの、その後は志願者はほとんどなく、いつしか立ち消えとなっていた。
 しかし、近代工業の発展のためには理工系学部は不可欠と、創設二十五周年の明治四十年、当時の学長である高田早苗は東京高等工業学校(現・東京工業大学)校長の手島精一に相談した。
 渡りに船とはこのことにこそふさわしい言葉であるのか。
 実は手島の友人が佐賀県は唐津に工科大学を創設しようと奔走していたが、立地条件に恵まれぬことから学生募集が困難との理由で立ち消えになろうとしていたのであった。
 東京ならば、学生が集まるかもしれない。
 手島は高田にその友人を紹介することにした。
 
 彼の名は竹内明太郎。勝海舟や福沢諭吉が咸臨丸でアメリカに渡り、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼が水戸の尊王攘夷派浪士に暗殺された万延元年(1860)に土佐(高知県) 宿毛に生まれた。ちなみに宿毛は、早大創設に際して実質的な経営実務を執行するも、この時期にはすでに他界していた小野梓の生誕地である。
 高田にもそして大隈にも感慨深いものがあったはずである。
 
 明太郎の父は竹内綱。土佐藩主山内家家老の伊賀氏に仕えていた。幼少の頃より、文武に優れていたが、経済の分野に並々ならぬ才覚を見せていた。
 土佐藩の目付として、地租の改正を打ち出し、窮乏していた藩の財政立て直しに貢献した。坂本龍馬をはじめとして、多彩な人材を輩出した土佐藩であるが、綱が最も意気投合したのは後藤象二郎である。特に未開の東南アジアに日本人を植民させるという構想は若き綱の心を捉えた。
 時あたかも、開国か攘夷かで国論が二分されていたが、土佐藩攘夷派の中心的な人物であった武市半平太とは相いれなかったようだ。
 ある時、「かねてから貿易を許しているオランダまで追い払ったならば、薬品も染料も洋式の鉄砲の輸入もできなくなるではないか」と武市をやり込めたことがその自叙伝に見える。経済に目を向ける人間には、排外主義は邪魔なものでしかなかった。
 維新後、綱は大蔵省に奉職、ここでも取締役制度、町村会制度の導入に尽力、大阪港築港計画を知事に進言するなど辣腕を振るった。しかし、 京都府疑獄事件の処理を巡っての司法卿・大木喬任との対立から、大蔵省を去る。
 折しも、肝胆相照らす後藤象二郎もいわゆる征韓論を巡る政変から、同郷の板垣退助らと下野した。
 綱は薩長両藩出身者主導の政府に反発する後藤や板垣らの政治行動に加わるようになっていた。
  その綱の長男である明太郎の勉学の道も父の背中を追うようなものであった。
 土佐藩出身で三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が大阪に開いた英学塾を皮切りに、「西国立志編」で知られる中村正直の東京同文社、同郷の啓蒙思想家・中江兆民の仏学塾に通い、自由民権思想を学んでいった。
 明治十年、西郷隆盛らによる西南戦争が九州で起こると、板垣や後藤らはそれに呼応して蜂起し、明治政府を転覆させようと思い立った。この時、明太郎の父、綱は銃器調達の役割を担っていた。
 しかし、西郷らの反乱は鎮圧され、後藤らの土佐での蜂起計画も警察に漏れてしまった。綱も逮捕投獄の憂き目に。新潟の監獄に捕らわれの身となった綱に、明太郎は英和辞典などを届けた。獄中にあっても、勉学の志を忘れない父の姿がそこにあった。
 やがて、自由民権運動の時代に。その一翼を担った板垣退助の腹心として、出獄した綱も活動する。板垣らの自由党が庶民を啓発するために「絵入自由新聞」を創刊したが、それには明太郎が携わっていたという。
 綱は政治活動の一方で、鉱山開発も手掛けるようになる。政府から払い下げられた高島炭鉱を経営するが、これは前述の獄中生活の間に、経営難から岩崎弥太郎に譲渡せざるを得なかった。
  しかし、綱は炭鉱経営をあきらめず、佐賀県松浦郡内にあった海軍用地内の鉱山を政府から払い下げてもらう。芳谷炭鉱であるが、政治活動に多忙な綱に成り代わり、実質的な経営に当たったのは、長男の明太郎である。以後、明太郎は実業界に身を置くこととなった。
 明太郎は、イギリス人技師を招いたり、炭坑用機器を輸入するなど、意欲的に先端技術を取り入れた。佐賀県では初の電話架設となる芳谷鉱山と唐津港を結ぶ専用電話も設置した。その後、竹内鋼業株式会社を設立、東京に本部を置きながら、石川県小松町近くの遊泉寺銅山を買収する。鉱山用に石川県最古となる神子清水発電所も建設するなど、地元の発展にも貢献するが、その優れた先見性ゆえに、鉱山事業の限界も察していた。
 石炭も銅もいずれは鉱脈が尽きてしまうからである。折しも明治三十三年、パリの万国博覧会を見学した明太郎は、ヨーロッパ諸国の先端的な工業技術を目の当たりにして、衝撃を受けた。
「これからの日本産業は機械工業だ」
 明太郎は、先ずは芳谷炭鉱の付属として唐津鉄工所を設立する。そして、遊泉寺銅山にも小松鉄工所を。
 早大理工学部関連とは別の明太郎の面についての結末を一足飛びに紹介すると、この小松鉄工所こそが現在のコマツである。
 竹内明太郎はコマツ創業者でもあるのだ。
 
 さて、実業家としての明太郎の特徴の一つは、「人づくり」に力を入れたことである。唐津鉄工所では、工場内に三年制の見習養成学校、工科青年学校を作り、人材育成に努めた。小松鉄工所でも同様の見習生養成所を設立、さらには故郷の高知県でも後には県立となる高知工業学校を創設している。
 明太郎の工業教育への熱意は自社の人材育成にはとどまらない。日本の工業教育全体にも思いを馳せていた。
 欧米の技術水準に追いつき、追い越すためには、従来の海外のテキスト偏重から実験重視に変えなければならない。
 そうした思いが、工科大学創設へと向かわしめた。明太郎は若い技術者たちを自社負担で海外に留学させた。新たに設立された大学の教壇に立つ人材を育成するためである。
 冒頭にも登場した東京高等工業学校校長の手島精一の腹心、牧野啓吾に準備作業を託した。開校予定地は、明太郎の事業の出発点ともなった唐津である。しかし、前述のように学生を集めるには地の利を得なかった。
 
 そこへ早大の高田早苗から手島精一への話である。早大では、理工科設立に必要な百五十万円という資金を得るため、大隈重信以下学校関係者が募金に奔走、明治天皇からも三万円の下賜があったものの、人材面で苦戦していた。
 しかし、明太郎の方では、資金と人材は用意出来ていて、学校の立地条件のみが足かせであった。そこへ、人が多く集まる首都・東京の大学に理工科を設立するという話である。
 早大と竹内明太郎の会社が相互補完する形で話はまとまった。
 明治四十一年四月。早稲田大学理工科は開設された。創設時の教授陣は、機会学科長が遠藤政直、電気学科長が牧野賢吾、採鉱学科長が小池佐太郎、建築学科長が後に大隈講堂を設計した佐藤功一、さらには、明太郎の甥で「早稲田の山本か山本の早稲田か」とまで言われた電気工学の山本忠興もいた。いずれも竹内門下生ともいうべき人々である。
 
 明太郎の家族について余談を加えると、十八歳年下の弟、茂は実業家・吉田家に養子に入っている。第二次世界大戦後、首相として、サンフランシスコ平和条約に調印するなど戦後政治の礎を築いた「ワンマン宰相」こと吉田茂である。
政治的には、大隈重信とは政治的立場を異にした板垣退助の側近、竹内綱の子である明太郎がふ化させた工科大学が、いわば早稲田に養子に入るような形となって、大きく育つことになる。
 大隈は晩年、明太郎を「無名の英雄」と評している。
 
参考文献 
「沈黙の巨星 コマツ創業の人・竹内明太郎伝」
「竹内綱自叙伝」
「エピソード早稲田大学」奥島孝康・木村時夫監修     
 他