何の目的もないのに学んだ創設者
 
                                 菊池道人
 
 
 余はその時、一定の見識を有してこの事を挙行したるなりとはいはず、また洋学を為すの果たして漢学に勝るものあるを予知したるなりともいはず。先輩の啓誘に出でしにもあらず。 (「大隈伯昔日譚」より)
 
 これは早稲田大学の創設者・大隈重信が佐賀藩の藩校である弘道館を退学して、蘭学修行に転じた時の心境を回顧したものである。
 蘭学を学ぶ動機といえば、たとえば、勝海舟ならば剣術の師匠である島田虎之助に勧められ、さらには城中にあったオランダの大砲に書かれた横文字を見て、「これ文字なれば読むあたわざるの理なからんや」とその意を堅くしている。勝が蘭学修行を始めた天保年間は洋学嫌いの幕臣・鳥居耀蔵が大目付、町奉行として威をふるい、高野長英や渡辺崋山らが投獄された時代である。
 それに比して、大隈が蘭学寮に入った安政三年(1856)、日本はすでに開国していた。にもかかわらず、若き大隈は、蘭学が漢学よりも優れたものであるという認識もなければ、先輩に誘われたわけでもなく、特に目的をもっていたからというわけではない、としている。それどころか、自分の感情が自分の境遇に従ってそうさせたとまでいっている。
 
 朱子学や「葉隠」の思想に凝り固まった藩校の体質に反発し、尊王論を唱える義祭同盟にも参加、藩校の改革運動にも加わった大隈であったが、改革派と保守派の激しい対立はは乱闘騒ぎまで引き起こし、その責任を問われて退学にまで追い込まれた。
 そうした経緯に背中を押されたということももろちんあったのであろう。
 が、だからといって、蘭学を学んで具体的に何を為すのかという明確なビジョンはこの時期の大隈にはなかった。これが早稲田大学創設者の立志なのか?
 
しかし、人生の転機にはいつでも明確な言葉が必要なのであろうか?
「なぜ、この学校を、この会社を志望するのか」と問われて、自分の言葉で答えることができる人はいったいどれくらいいるのか。
 むしろ、答えに窮してマイナスな印象を与えることを恐れ、ありきたりの教科書通りの答えで何とか切り抜けようとすることの方が多いのでは。その場はそれで済ませても、自分の思いとはかけ離れた、言い古された言葉で取り繕うことにより、いつしか見失ってしまうものも多いのではないだろうか。
 大隈とは無二の親友であった福沢諭吉は、緒方洪庵の適塾に学んでいた日々をこう回顧している。
「とにかく当時緒方の書生は十中の七八、目的なしに苦学した身であるが、その目的のかったのが、かえってしあわせで、江戸の書生よりもよく勉強ができたのであろう」(「福翁自伝」より)
 それに比べて、福沢最晩年すなわち明治末期の学生たちは立身出世や金儲けを目的に勉強していて真の勉強はできないだろう、とも述べている。
 学問をするのに目的が必要なのか?という問いかけもしてみるものではないだろうか。
 
「一定の見識」もなかった佐賀藩士・大隈重信は蘭学寮に転じてから二十六年後に東京専門学校を開く。それからさらに九十九年後、「一定の見識」もなくこの学校に入学したのが筆者たる菊池道人である。
 
 
 (付記)「一定の見識」もなかった筆者を早稲田へといざなったのは、中学三年生の時に見た早慶戦でした。当時の早稲田の選手には、後に巨人軍で活躍した松本匡史氏や山倉和博氏、早大監督も努めた佐藤清氏がいました。オリックスの岡田彰布監督が入学したばかりの頃です。来年度から早稲田の監督を務めることになった岡村猛氏もいました。筆者は当時は芝生であった外野席で早稲田側の言葉ではとても表すことができない(今でもひたすらに体感するばかりの)応援に魅せられていました。当時、「歴史文学ロマンの会」の先輩方は何処で応援されていたのですか?覚えていらっしゃったら何かのおついでに教えてください。昭和五十一年度春の早慶戦、二回戦です。