早稲田の近くにも 新選組!

                                                                            菊池 道人

 夏目漱石の実家に因んだ「夏目坂」から分 かれる道がある。  「弁天湯」という銭湯のある場所からであ る。  それ程広い幅の道ではない。  閑静な住宅街の間を東南へと突き抜ける。 途中には、有島武郎の旧宅跡を伝える説明板 があった。なる程、心を落ちつかせて、筆を 走らせるには絶好の雰囲気であったのであろ う。  現在もそのような感じが何処かに残ってい るかのようである。  しかし、不意に両車線のある通りにぶつか ると、商店なども立ち並び、たちまち生活の 音声が聞こえてくるような雰囲気へと変わる 。  営団地下鉄東西線・早稲田駅から歩いて約 二十分。最近、都営大江戸線の牛込柳町駅が 出来た。  今から約一世紀半前には、この辺りには、 竹刀を打ち合う音や勇ましい掛け声が聞こえ ていた筈である。

 江戸牛込柳町甲良屋敷内に天然理心流の試 衛館道場が開かれたのは、天保十年(183 9)のことである。  この年は、洋学者の渡辺華山、高野長英が 逮捕されたいわゆる「蛮社の獄」があった。  外国船の接近などで、次第に不安が高まっ ていく世相、士民の間でも武道熱が高まり始 めていたのであろうか。  この時期、江戸で三大道場といわれていた のは、北辰一刀流の千葉周作が神田お玉が池 に構えた玄武館、京橋浅蜊河岸には桃井春蔵 の鏡新明知流の士学館、九段俎橋には斎藤弥 九郎の神道無念流・練兵館。  これらの名門道場に比べ、天然理心流・試 衛館は、「いも道場」と呼ばれ、蔑視されが ちであった。  それもその筈。天然理心流は武州三多摩で 育った剣法であった。  創始者は近藤内蔵之助長裕。遠江出身で、 古流の天真正伝神道流祖・飯篠長威斎家直の 子孫であるという。寛政年間(1789−1 800)頃から、主に三多摩地区で弟子たち に稽古をつけていたと伝えられている。  幕府の直轄地であった多摩地方は、百姓た ちの間でも、武道の稽古が盛んで、幕府から の禁令があっても、なかなか、竹刀を放そう とはしなかった。  天然理心流の門弟たちにも、こうした農民 たちが多かったが、その中で、多摩郡加住村 の三助方昌が見込まれて養子となり、理心流 二代目となった。  以後、多摩の百姓家からの養子が続く。  早稲田にも近い牛込柳町に試衛館を開いた 三代目の周助邦武も多摩郡境村の百姓の出。  そして、この周助にも子がなかった。  周助は武州調布の宮川久次郎という豪農が 構える道場にしばしば出稽古に赴いたが、こ の久次郎の三男の勝太という少年がなかなか 非凡に剣才を見せていた。単なる技術ばかり ではない。宮川家の盗賊が入った時のこと。  今こそ、日頃の鍛練の成果を見せんと気負 い立つ兄たちを制して、 「賊というものは入った時は気負い立ってい るので、今、戦えばかなり手こずる。逃げる 時になれば、逃げることにばかり考え、心が 留守になる。そこを狙うのが剣の秘訣」  勝太はその作戦通り、兄たちとともに、盗 賊を見事に討ち取った。  こうした所も、近藤周助に気に入られたの であろう。  なぜならば、天然理心流は実戦性を重んじ ているからである。 勝太は、嘉永二年(1849)、数え十六 歳で近藤家の養子となり、名も勇と改めた。 (名乗りは昌宣)。  理心流四代目を継いだのは、文久元年(1 861)のこと。  頬骨の張った、眼光の鋭い、口も大きい、 いかつい風貌の四代目当主ではあったが、他 流試合には快く応じ、手厚くもてなした。不 作法な道場破りにも、決して腹をたてること はなかったという。  こうした近藤勇の人柄を慕い、食客として 試衛館道場に身を寄せる門弟たちも多かった 。  天然理心流四代目当主を継いでから二年後 の文久三年(1863)は運命の年であった 。  正月早々、幕府構武所の松平主税介がかね てより自ら献策し、老中たちから命を受けて 、浪士募集を開始したのである。  この背後には、庄内藩郷士、清河八郎が糸 を引いていた。  嘉永六年(1853)のペリー来航、翌年 の日米和親条約の締結による開国以来、幕府 が欧米の圧力に屈し、朝廷の許可を得ぬまま に不平等な条約を結び、急な貿易開始による 経済の混乱もあって、幕府の外交政策を批判 するいわゆる「尊皇攘夷運動」が高まってい た。  京都では、尊皇攘夷派浪士による幕府要人 暗殺が相次いでいた。中には、政治的主張などはうわべだけの暴行も少なくはなかった。  それらを取り締まるために、在野の士の力 を借りるというのが、浪士募集の趣旨であっ た。 「今こそ、尽忠報国の時機:」  近藤勇は、試衛館の門弟たちの中から精鋭 を引き連れ、集合場所である伝通院に馳せ参 じ、中山道から京へ向かった。  この時、近藤とともに加盟したのは、日野 出身で「石田散薬」という薬の行商をしてい た土方歳三、二十歳の若さで塾頭となった白 河藩出身の沖田総司、十八歳で神道無念流の 免許皆伝を受けながらも、試衛館に身を投じ ていた松前藩出身の永倉新八、北辰一刀流を 学んでいた山南敬助に藤堂平助、伊予松山藩 出身の原田左之助といった人々である。  いずれも、豪農や下級武士の家に生まれ、 才能はありながらも、厳しい身分制度による 不遇に身を持て余し、飛躍の機会を渇望して いた男たちである。  ちなみに、この時結成された「浪士組」隊 員への支給額は一人当たり十両二人扶持。さ らには幕臣への取り立ての可能性も示唆され た。  さて、京都に到着し、新徳寺に集合した浪 士たちを前、浪士組の黒幕的な存在であった 清河八郎は意外な演説をした。  関東に戻り、攘夷すなわち外国との戦争を 行なうことが真の目的であるという。  清河の思惑通り、浪士たちに江戸帰還命令 が出た。  これに対して、近藤ら試衛館一派や水戸藩 出身の芹沢鴨らは、将軍家茂(十四代目)が 上洛している折り、その警護をつとめさせて ほしいと、時の京都守護職であった会津藩主 ・松平容保に嘆願し、結局、会津藩お預かり という形で二十数名が京に残ることとなった 。  当初、壬生浪士組(壬生は近藤らの屯所が あったところ)と呼ばれていたが、後に、会 津藩から「新選組」と名づけられた。  隊旗には「誠」の文字が描かれ、隊員の征 服は、だんだら染であった。  近藤勇と芹沢鴨が局長であったが、酒に酔 っての粗暴な振る舞いの多かった芹沢は、粛 清され、近藤がトップの座につき、土方がそ の補佐役の副長、永倉、原田、沖田ら試衛館 の門弟たちは、配下の隊員を指揮する助勤( 後に組長)となり、尊皇攘夷派の取り締まり に尽力した。  ところで、新選組の要職に着く者たちを輩 出した試衛館があった牛込柳町は、現在、早 稲田大学のある場所からは南の方角に当たる が、早大の北側で、芭蕉庵のある小石川関口 にも新選組ゆかりのエピソードがある。  御家人の次男であった山口一は、ふとした ことから旗本の師弟と喧嘩沙汰になり、相手 を殺傷してしまったことである。  一はこの事件をきっかけに、京都に出奔、 姓も斎藤と改めて、聖徳太子流の剣術を学ん でいた。  そこへ、近藤らが上洛し、京の治安維持に 努めるという。  斎藤一と近藤らとの接点は、いつごろ生じ たのかは、史実の上では不明であるが、その 剣の才をすぐに認められたのであろう。  沖田、永倉ら試衛館派の者たちと同格の助 勤の役に結成間もない頃から就いていた。  近藤ら天然理心流の剣士に、斎藤ら他の流 派の剣客を加えた新選組の名を天下に知らし めたのは、元治元年(1864)六月の池田 屋事件である。  肥後藩出身の宮部鼎蔵に吉田稔麿ら長州系 の志士を加えた一派が倒幕計画を三条通の池 田屋で練っている所を急襲して、クーデター を未然に防ぎ、会津藩、幕府からも多大な恩 賞を授与された。 「御用改めぞ」  と言って、池田屋へ真先に切り込む局長・ 近藤勇の姿は、現代のドラマや映画でもお馴 染みの場面である。

 余談というよりも蛇足になるが、早大の創 設者・大隈重信は、天保九年(1838)生 まれ。同五年生まれの近藤勇よりは四歳年下 である。  その大隈が倒幕を志し、副島種臣とともに 佐賀藩を脱藩して上京したのが、慶応三年( 1867)三月のこと。  この時、長崎から同じ船に乗っていたのが 、後に大政奉還の立役者となる土佐藩の後藤 象二郎。後藤はこの約半年後に近藤勇と面談し ているが、大隈と近藤ら新選組との接点を記 した史料は筆者の見聞する範囲では存在しな い。  しかし、この頃から大政奉還を構想してい という大隈にとっても、上京に当たり、先ず 警戒すべきは新選組であったことは間違いな い。あの青い制服を目にして、緊張したこと もあったことであろう。(その大隈は、新選 組ならぬ佐賀藩の役人に逮捕され、佐賀に送 還されている)  しかしながら、それ程までに、尊皇派、倒 幕派の志士たちに恐れられていた新選組も、 先述の芹沢鴨の粛清を始め、内部抗争を繰り 返していた。  伊東甲子太郎(常陸志築藩を脱藩)ら十数 名は、孝明天皇陵の警護という名目で、新選 組を離脱、高台寺に屯所を構えた。御陵衛士 とも高台寺党ともいわれる伊東の一派の真の 目的は倒幕にあり、薩摩藩とも気脈を通じて いた。この時、小石川関口で旗本の師弟を殺 傷して、江戸を出奔したという経歴を持つ斎 藤一も、伊東らについていったが、実は、近 藤の意を受けた間諜であった。  斎藤は、伊東らの近藤暗殺計画を知ると、 直ちに、近藤に密告した。  近藤の命を受けた永倉新八、原田左之助は 伊東らを七条油小路に襲撃、伊東を含めた四 人を殺害した。  殺された四人の中には、試衛館出身の藤堂 平助がいた。藤堂は、試衛館に来る前には、 伊東とともに北辰一刀流を学んでいた。伊東 が新選組に加盟したのも、藤堂の推薦であっ た。それゆえ、近藤ら試衛館グループとの板 挟みに苦しみながらも、旧友の伊東甲子太郎 についたのであった。  さすがに近藤も、試衛館で共に汗を流した 藤堂だけは見逃すようにと、永倉や原田に指 示していたが、事情を知らない三浦常次郎と いう新入りの隊員に背中を斬られて、絶命し た。  志を同じくしていた人々も、時流れ、やが て、同じであるという状態を保つことが出来 ずに、袂を分かち、反目するということは、 昔も今もありがちなことではあろう。が、藤 堂平助の件は余りにも、痛ましい例ではある 。この油小路での暗殺よりも約一ヵ月前の慶 応三年(1867)、十五代将軍・慶喜は大 政奉還を奏上している。  翌年、正月の鳥羽・伏見の戦いを皮切りに 関東、東北、北海道と戦場を転々とさせた戊 辰戦争の中、例えば、近藤勇は江戸・板橋に て斬首され、例えば、土方歳三は函館五稜郭 にて銃弾に倒れたように、新選組の隊員たち は、まるで暴風に散る花びらのように、命を 落としていった。  明治新政府にとっては、憎き逆賊であった 新選組発祥の地、試衛館道場の跡地には、長 い間、それを伝えるものは何もないままにさ れていた。  しかし、平成十六年度のNHK大河ドラマ 「新選組!」(三谷幸喜脚本)が放映された ことを機に、市ヶ谷柳町25番地のアパート に「試衛館道場跡」と題した説明書が張られ ている。  その近くには、「新選組ゆかりの地」と書か れた幟。  周辺の商店などには、NHKドラマで近藤 勇に扮する香取慎吾が、拳を口の中に入れよ うとしている写真のポスターが張られている 。  近藤勇は拳を出し入れ出来るくらいに口が 大きく、「加藤清正も拳を入れるくらいに口 が大きかったので、自分も清正のように出世 をしてみたいものだ」とも言っていたという 。

(付記)試衛館の猛稽古でひと汗かいた後の 新選組の面々が、早稲田田圃を吹き抜ける風 に涼をとる。私たちにとって懐かしいあの場 所にもこの場所にも、近藤勇や土方歳三が歩 いていたことでしょう。  ちなみに、筆者菊池の拙著「斎藤一」(P HP文庫)に、明治維新後も生き残り、警視 庁警部補になった主人公が、大隈重信の謀叛 を警戒し、開校式当日の早稲田近くに姿を見 せるという場面がありますが、あれは著者に よる「意図的」な虚構であるということを念 のために申し上げておきます。