夏目漱石と早稲田
                                                                                菊池 道人
 
夏目漱石はその生涯において、三度、「早稲田」と関わりがある。
 先ず第一は、この世に生を受けた場所としてである。
 現在の東京メトロ・東西線の早稲田駅近くの牛込馬場下横町にて慶応三年(1867)1月5日に生まれた。父は名主の夏目直克。母はちえ。金之助と名付けられた漱石は五男の末っ子であった。
 漱石の生家付近は現在は新宿区喜久井町となっているが、これは夏目家の定紋が井桁に菊であったからであるという。また、漱石生家跡から南へと上がる緩やかな坂は今でも夏目坂と呼ばれているが、これも名主である漱石の父が名付けたからである。いかに夏目家が羽振りがよかったかを示すエピソードである。以前にもこのシリーズで述べたが、新選組発祥の地・試衛館道場もそれ程遠いところではない。漱石が生まれる数年前までは、近藤勇ら後の新選組の面々が夏目家の近くを闊歩していたことであろう。
 漱石の記憶の世界に早稲田の地が初登場するのは、八歳の時である。生まれてほどなく四谷の古道具屋に里子に出され、さらには塩原昌之助の養子となり、浅草に住んでいた。「生まれたうちへ帰ったと気がつかずに、自分の両親をもとどおり祖父母とのみ思っていた」と晩年の著書「硝子戸の中」で述べている。後に実家に戻り、「早稲田」の家から市ヶ谷の小学校に通うようになった。漱石の生家は、明治十三年(1880)に火災にあっている。それからしばらくは牛込区肴町(神楽坂)の借家に移っていた。

この稿をあえて「校内篇」に加えた理由は、漱石の二度目の「早稲田」との関わりである。
明治二十五年(1892)5月から漱石は後の早稲田大学こと東京専門学校文学科の英語講師となった。帝国大学英文科に在学のままで、現在ならば大学生がアルバイトで予備校の講師になるようなものであろうか。 創設からまだ十年しか経ておらず、しかも大学ではなく「専門学校」であった頃ならではの話である。
漱石はどんな先生であったのであろうか。当時の東京専門学校には生意気な学生も多く、教師を質問攻めにしてわざと困らせるような者も少なからずいたという。少し後の時代であるが、「滝口入道」などで知られる高山樗牛も東京専門学校講師の英語講師となっていだか、当時学生であった正宗白鳥が高山の誤訳を執拗に指摘するので、高山はとうとう教科書を教壇に叩きつけて悔しがったという。
 「バイロン」「ディ・クィンシー」の講義を受け持った漱石も多分にもれず、学生たちの質問攻めの洗礼を受けたが、漱石は返答に窮すると即答を避け、調べ直してから次回の講義で回答していという。沈着にして誠実な人柄が滲み出ているエピソードである。
そのような夏目先生を例えば後の倫理学者・綱島梁川のように慕う学生もいれば、また反感を抱いて排斥運動まで企てた者たちもいた。その事実を知った漱石は、一時、退職を決意したことを親友の正岡子規への手紙で仄めかしているが、結局は思いとどまった。
 漱石は明治二十六年7月に東京帝国大学を卒業したが、東京専門学校には二十八年の3月まで奉職している。そして、専門学校の職を辞した翌月、松山中学校に赴任した。「坊っちゃん」の舞台へ旅立ったのである。

漱石が早稲田へ帰って来たのは、明治四十年(1907)9月のことである。すでに「吾輩は猫である」「坊っちゃん」などの代表作や「文学論」で文壇での地位を着実なものにしていた時期であった。漱石の新居は「早稲田南町七番地」である。喜久井町の生家は、この十年前に父の直克が亡くなった後、長兄の直矩が売却していた。久しぶりに生家の近くに立ち寄った漱石は、「茫然として佇立した。なぜ私の家だけが過去の残骸のごとく存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれが崩れてしまえばいいのにと思った」と「硝子戸の中」でその時の心境を述べ、その後、生家が取り壊された後の感想は同じ著書で「時は力であった」と言っている。里子、養子に出されたことや早くに母を亡くしたことなど、辛い記憶ばかりが喜久井町にまつわりついていたのに相違ない。筆者が東西線の早稲田駅から地上に上がった時とは全く異なる「過去」への思いである。「時は力」も共感しやすい言葉である。
「三四郎」「門」「それから」の三部作以降は「早稲田南町」で生まれた。鈴木三重吉、森田草平、寺田寅彦、野上弥生子、内田百聞、和辻哲郎、芥川龍之介など文壇を担う弟子たちも数多く訪れた。「明暗」を朝日新聞に連載のまま、大正五年(1916)12月9日、文豪・夏目漱石は「早稲田」から冥界へと旅だっていった。

付記 筆者は小学校五年生の時に初めて漱石と出会った。きっかけはポプラ社刊の「坊っちゃん」である。巻末には立教大学教授の福田清人氏の「人と作品」の解説文が掲載されていたが、それを読んだ時、漱石の生誕地が「牛込」であることが印象に残っている。なぜならば、筆者の母親の祖父(筆者には曾祖父)にあたる人が牛込に一時、住んでいたからである。今は亡き祖母から「牛込のお爺さん」という言葉をその当時、何回か聞いていた。その「お爺さん」が牛込に住んでいたのは昭和の初め頃と思われるが、最近になって、飯田橋駅から神楽坂を上がったあたりであるということを母親から聞いた。神楽坂は前述した火災の後に夏目家が一時、仮住まいをした場所であり、漱石の長兄・直矩が父の死後に転居したところでもある。「牛込」という地名を聞くと、古い箪笥から匂う防虫剤の香りが漂ってくるような気がする。