そして地下鉄
 
                                菊池 道人
 
 前回、都電の話を書いて気づいたことであるが:。
交通の歴史からも様々な人間模様に想像を巡らすことができる。
 都電の前身の一つである東京市街鉄道の技手となった「坊ちゃん」。月給は松山の中学校教師時代よりも十五円安い二十五円で家賃は六円だが、この再就職先には、「赤シャツ」や「野だいこ」のような人物はいなかったのであろうか。
 厩橋発・早稲田行きの39系統には、野球選手ではなく一高校生としての王貞治氏の素顔があったのだろうか。高校二年生であった筆者が初めて荒川線に乗り、早稲田を訪れたのは昭和五十三年のことであったが、この年は王選手が通算800号のホームランを記録した年でもある。しかし、野球界の大ヒーローゆかりの路線はこれよりも十年前に廃止されていた。こう書いていると、消え去ったものに対する哀惜、感傷が先行してしまいがちだが、 いかなる存在にも長短両所があるはずであり、都電も決して例外ではない。都電の短所といえば、廃止の理由となった車両渋滞に加え、車両の外側にぶらさがるような危険な乗り方をする人が出るくらいの混雑であった。ぎゅう詰めの乗客たちは「鮭の干物」とまで呼ばれ、「東京名物満員電車、待っても待ってもまだ乗れない」 と大正時代の流行歌「パイノパイノ節」 にも歌われた。それほどの混雑のためにダイヤが乱れることも:。
 そして、そうした状況を冷徹な視線で凝視する早稲田人がいた。
 その人の名は早川徳次(のりつぐ)。明治十四年(1881)山梨県に生まれ、甲府中学(現・甲府一高)から第六高等学校(現・岡山大学)に進むも、病のために退学、後に早稲田大学法科に入学した。 明治四十一年、早大を卒業した早川は、政治家を志し、後藤新平に師事、後藤が総裁を努めていた南満州鉄道の秘書課に嘱託として勤務、以来、鉄道事業に関心を持つようになった。後藤が南満州鉄道を去った後は、鉄道院中部鉄道管理局に入り、「一兵卒から大将になりたまえ」と紹介者ともなった後藤のアドバイスに従い、新橋駅の切符切りから鉄道人生をスタートさせた。その後、東武鉄道社長・根津嘉一郎の紹介で、佐野鉄道(現・東武佐野線)や高野登山鉄道(現・南海高野線)の経営再建に携わり、敏腕を発揮するが、あるとき、閑散とした大阪港の様子を見て、港湾と鉄道を結びつけることを考え、そのテーマを研究すべく欧米視察を決意、母校・早大の創設者・大隈重信の援助で、イギリスに渡る。大正三年(1914)のことであった。
 現地で早川の心を捉えたもの。それは首都・ロンドンの地下を走る鉄道であった。地面の下を鉄道が走ることですら新鮮な驚きであるが、が、それ以上に早川の心を動かしたのは、バスや自家用車と交錯することもなく、何両もつないだ電車が走ることである。人々が先を争って必死に乗り込むという姿もほとんど見られない。
「いつか東京にも地下鉄を」
 帰国した早川は、都電の混雑ぶりを目にして、その意を固くしていた。鉄道の専門家や技術者、実業家たちに地下鉄の必要性を説くが、ほとんどの人が夢物語と一蹴するばかりであった。資金面や海に近い東京の地質の軟弱さなどが理由であった。
 しかし、早川はそれに屈することなく、上野、銀座、新橋、品川の交通量を毎日集計したり、石橋建設での地層図や井戸の湧き水量なども調べ上げ、具体的なデータで論証していった。やがて、渋沢栄一らの支援で東京軽便地下鉄道株式会社(後に東京地下鉄道と改称)を設立するも、大正十二年の関東大震災でまたしても地下鉄反対論者からの批判にさらされる。早川は、サンフランシスコ大地震でも現地の地下鉄は無事であったという実例でこれに反論する。大正十三年五月にようやく浅草・上野間の工事認可が下りた。起工は翌年九月、昭和二年(1927)十二月三十日に日本最初の地下鉄が開業した。
 
 日本最初の地下鉄は昭和九年には新橋まで延長する。早川の構想では、さらに品川から神奈川へ、現在の都営浅草線から京浜急行へ乗り入れるコースとほぼ重なるルートがあった。ところが、それに待ったをかける人物が:。東京高速鉄道の経営権を握る五島慶太である。
 五島は鉄道院に勤務し、早川の東京地下鉄道の免許交付にも協力したが、大正九年に退官、当時は開店休業状態であった武蔵野電気鉄道の経営に携わることとなる。この武蔵野電気鉄道が東急電鉄として後に発展、五島は事実上の創業者としても知られているが、東京高速鉄道を設立し、地下鉄にも進出していた。昭和十四年に五島の東京高速鉄道は渋谷・新橋間を全線開業すると、すでに新橋まで来ていた早川の東京地下鉄道との相互乗り入れを申し入れる。しかし、早川は、あくまでも品川から神奈川方面への延長にこだわり、五島からの申し出を拒み続けていた。
 業を煮やした五島が採った強硬手段。それは株買占めによる東京地下鉄道の乗っ取りであった。早川が苦心して創り上げた東京地下鉄道の筆頭株主となり、経営権を掌握した五島によって、早川は相談役に追いやられた。そして、ついに両社を隔てた新橋駅の壁は撤去され、浅草・渋谷間が直通運転となった。現在の東京メトロ銀座線の前身である。品川から神奈川への延長に固執した早川には頑迷さが否めないが、世間では五島の強引な手法が批判を浴び、「強盗慶太」とのあだ名まで。
だが、五島が勝利者であった期間は長くはない。鉄道院の佐藤栄作鉄道課長は陸上交通事業調整法の趣旨に基づいて五島から経営権を奪い、国家が経営するようになった。昭和十六年九月すなわち対米戦争開始の三ヶ月前であった。両社は「帝都高速交通営団」 として一本化され、営団地下鉄の名でしばらく世に通ることとなる。
 
 地下鉄の父・早川徳次の胸像は、現在は銀座駅構内にある。その早川の母校・早稲田大学の近くを地下鉄が走るようになったのは、東京オリンピックが開かれた昭和三十九年のこと。当時は高田馬場・九段下間の東西線が開通し、夏目漱石の生家跡近くに早稲田駅が誕生した。
 早川と五島との抗争の幕引き役となった佐藤栄作がこの年から内閣総理大臣となる。
 東西線は昭和四十四年から中野・西船橋間全線開通となるのだが、西船橋まで延長されたこの路線についての筆者の思い出を記すことをお許しいただきたい。
 筆者は生後半年後から小学校時代前半を東京都江東区東砂で過ごした。父親の勤務先の社宅に住んでいた。小学校二年生の年に東西線が高架で自宅の庭からも見える場所を走ることとなった。筆者が住んでいたあたりは、近くを流れる荒川放水路の水面よりも地面が低いゼロメートル地帯で、地下に路線を通すことは難しいので、東西線もやむなく南砂町以東は地上に出るようになったという話を聞いた記憶がある。
通っていた小学校は東西線の高架のすぐ下にあった。学校のすぐ近くを鉄道が走るようになったことは、私も含めた当時の子どもたちにとっては、感動の対象であった。まるで、明治五年に初めて陸蒸気を見た人々のようであったのか。
 授業中なのに、東西線の車両が走る度に窓の外へと視線を移す私たちに、担任の先生も苦労されていたことが今でもはっきり思い出される。やがて、東西線の姿がごく日常的な光景に組み込まれていくと、それを見て騒ぐことも少なくなっていくが、最後まで目をやっていた生徒は筆者であった、と思う。
 やがて、住まいとしていた社宅が会社の事情で取り壊されることとなり、筆者も埼玉県越谷市へ転居するこことなった。いよいよ引越し用トラックに乗り込もうとする筆者の目にすっかり見慣れていた東西線の車両が:。
「もうこれでお別れだな。さようなら」
そんな言葉をかけてもみた。
しかし、それから十年後に再び、東西線との縁が:。大学への通学は茅場町から早稲田まで東西線であった。
大学を卒業して間もない頃、当時の勤務先の用で西船橋へ行くことがあった。銀色に青のラインの東西線の車両を見て、上野駅にて故郷を思う人々の気持ちがひしひしと察せられた。
 
 平成十六年(2004)に民営化し、営団から東京地下鉄株式会社(通称は東京メトロ)と名を変えた地下鉄。早稲田にはもう一つ駅が出来た。早大理工学部の真下、副都心線・西早稲田駅である。この線は池袋から東武東上線と西武線、渋谷から東急東横線と相互乗り入れをしている。神宮球場や秩父宮ラグビー場へ通う筆者は横浜駅から東急線に乗るのだが、「飯能市行き」とかいわれても、いまだにビンと来ない。しかし、この線で早稲田まで乗り換えなしで行けるのである。
不死鳥会の例会へ参加するためには、東急から乗り入れる地下鉄を利用する。これも故郷行きの電車なのだ。
 
  *参考文献
 「地下鉄誕生」中村建治 交通新聞社
  「エピソード・早稲田大学」奥島孝康 木村時夫監修 早稲田大学出版部