早稲田都電物語 
 
 
                        菊池 道人

 

 
 唯一現存する都電は三ノ輪橋・早稲田間を走る荒川線である。筆者がこの電車に初めて乗ったのは高校二年生の晩秋の頃。当時、在籍していた郁文館高等学校の創立九十周年祝賀会が椿山荘で行われ、その帰りと記憶しているが、なにしろ、この文を書いている時から三十数年前のことであるから余り自信がない。椿山荘に近い駅なら、雑司が谷か鬼子母神前なのであろうが、それすら定かではない。しかし、行き先が「早稲田」となっていることで、この電車に乗ったという動機には思い当たるものがある。
(この電車で早稲田に行ける)
そんな思いに背中を押され、少し早いが、入試の下見も兼ねて、早稲田行きの電車に乗ってみた。
 大隈講堂前で、何語だかわからなかったが、外国語で歌う女子学生がとても大人びて見えたことは、今でもはっきりと覚えている。
 
 都電の起源をひもといてみる。
 東京都交通局が昭和四十六年に発行した「都電・60年の生涯」には、明治二十三年に開催された上野公園での内国勧業博覧会に本邦初の電車が展示されたことが写真入で紹介され、これ以後、各地で電車設立の動きが高まったという。
 明治三十六年八月、東京では、それまでの馬から電気へと動力を変換させた東京馬車鉄道会社(後に東京電車鉄道会社と改名)が新橋・品川間を、九月には東京市街鉄道が神田・数寄屋橋間をそれぞれ開業した。ちなみに東京市街鉄道略して街鉄は、夏目漱石の「坊ちゃん」が赤シャツと野だいこを懲らしめて、松山での教員生活を終えた後の再就職先である。翌年には、東京電気鉄道が土橋・御茶ノ水間を開業するのだが、これら三社が合併、そしてこれを東京市が四十四年に買収して、東京市電(後に都制に変わったことで都電と改名。以後、本稿では都電に統一)の歴史の始まりであった。
 大正、昭和と時代が進むにつれて都電は東京に網の目のように施設された。
 早稲田・三ノ輪橋の荒川線は、王子軌道という別会社が設立したものだが、これを昭和十七年に都電が買収した。第二次世界大戦の戦災で被害を被った路線も少なからずあったが、戦後も都電は東京都内の重要な交通機関であった。筆者は小学校時代の前半までを東京都江東区で過ごしたが、最寄の都電駅は葛西橋であった。これは須田町までの29系統の始発駅にして、終着駅であった。この葛西橋の都電に、何度か乗った記憶がある。
 
 早稲田には、三ノ輪橋行きの荒川線の他に二つの系統の都電路線がかつて通っていた。
 一つは茅場町・高田馬場間の15系統。大手町、九段下と都心部のビル街をくぐり、飯田橋を過ぎて、江戸川橋まで来ると、次第に緑が多くなる。「都の西北、早稲田の森に:」車窓から見える景色の変化に校歌の一節を実感できるコースであったのだろう。
 もう一つは、厩橋・早稲田間の39系統。隅田川を越えて来るこの線は、下町と都の西北を結んでいた。
 王貞治氏も現在は東京スカイツリーにも近い墨田区押上から都電で早稲田実業へと毎朝、登校していた。早大校友の写真家・栗原達男氏の著書「ぼくらの星(スター)、王貞治」(ポプラ社)によれば、柳島車庫と須田町を結ぶ24番(系統)で隅田川にかかる吾妻橋をわたり、上野広小路で39番に乗り換えた、ということである。墨田区出身で野球少年でもあった栗原氏は、ラーメン屋「五十番」の倅・王貞治の評判も聞いていたということだが、早大へはやはり都電で通学していたそうである。
 都電は下町の早稲田マンには欠かせない足であったのである。
 しかし、高度経済成長による交通事情の変化は都電にとっては逆風となる。都電と増え続ける一方の自動車とは、双方にとって障害となっていた。公安委員会が交通渋滞緩和のために、乗用車の都電の軌道敷内での通行を許すようになったのは、昭和三十四年のこと。
 王氏が巨人軍に入団した年であるが、早稲田実業の大先輩でもある荒川博コーチから伝授された一本足打法でホームランを量産しだす頃には、廃止される都電の系統も:。先ず、三十八年に新宿駅・荻窪駅間の14系統がなくなった。路面混雑に加え、「東京オリンピックに都電は邪魔だ」という声もあった。
 さらに地下鉄の増加も追い討ちをかけ、廃止される系統は相次ぐ。
 早稲田を通っていた15、39両系統も東西線開通に伴い、昭和四十三年に廃止された。交通渋滞と関係のない地下を通る鉄道には太刀打ちできなかったのであった。
 前述、葛西橋の都電こと29系統はいつまであったのか?筆者は昭和四十六年三月に江東区を去り、埼玉県越谷市に転居したが、廃止されたのはその前か後か?ウィキペディアで調べてみたら、1972年(昭和四十七年)11月ということであった。
 
それでも都電を惜しむ声は根強かった。早稲田・三ノ輪橋間の荒川線は、専用軌道がほとんどで、路面の自動車の妨げにならないということで存続され、現在に至る。
 この荒川線の存在意義を考えるため、都の西北と東北とを結ぶ複雑な交通事情にも触れておこう。早実時代の王貞治氏は、当時は武蔵関にあった同校グラウンドでの練習を終えると、西武線で高田馬場まで戻り、山手線で上野へ出、そこから都電で帰宅したという。登下校が別ルートであった。
 同じく墨田区出身で前述の栗原氏とは少年野球で対戦したこともあり、後に早大、大昭和製紙で強打の外野手として活躍する蕪木正夫氏は、王氏の入学と入れ違いに早実を卒業しているが、在学中は毎朝、向島広小路と神田須田町を結ぶ都電の30番、上野広小路で39番に乗り換えて早稲田車庫、武蔵関グラウンドでの練習を終えると、王氏と同様、高田馬場から上野までは山手線さらに都電で帰宅していた。
 再三にわたり、個人的な話で恐縮だが、筆者も浪人時代、越谷市内から東武線で北千住へ出ると、地下鉄千代田線に乗り換えて西日暮里、そこから山手線で高田馬場駅前の早稲田予備校に通っていた。しかし、早大に入学してからは北千住から地下鉄日比谷線で茅場町、東西線に乗り換えて早稲田であった。高田馬場駅前でコンパがあった時などは、浪人時代と同じルートで帰宅していた。
 要は、山手線は速度面も含め、高田馬場から日暮里や上野への近道だということなのである。まして、蕪木氏や王氏のように早実野球部伝統の猛練習に疲れてというのであれば、帰りは近道をというのは無理からぬはずである。だが、山手線沿線以外の下町から早稲田へ行くとなると事情は異なる。高田馬場駅から山手線の内側へ入るすなわち東へ戻る早稲田までの距離が遠回りで余分なものになってしまう。しかし、筆者のように北千住から茅場町経由というのも南へ迂回するようなコースではある。
 その点、早稲田から大塚、王子とJR線の駅を対角線上に結びながら、東京の東北部に向う都電荒川線は距離的には近道だ。筆者も地下鉄駅のある三ノ輪(日比谷線)か町屋(千代田線)経由での都電通学も考えたが、結局、電車の速度や駅数の多さ、さらには在籍していた文学部のキャンパスが都電の駅から遠いことも勘案して、定期試験終了後などの気分転換用にとどめておいた。
 時間的な制約のある通勤、通学には適さないかもしれない。
 しかし、昔ながらの下町風情など沿線の景色を楽しむには絶好である。時間的な効率性以外の価値観というものも考えさせる。都電荒川線とはそのような存在でもある。
 
 
  参考文献
「都電・60年の生涯」東京都交通局
「ぼくらの星(スター)王貞治」 栗原達男 ポプラ社
「エピソード・早稲田大学」奥島孝康・木村時夫監修 早稲田大学出版部
                            他