落第から始まる夢もある
                    
                                       菊池 道人
 
 

 学校での得意科目がその後の人生、特に職業選択のきっかけとなることはよくある。例えば、音楽ならばミュージシャン、英語ならば通訳か英語教師というように。
 しかし、苦手科目から人生が始まるという例もないことはない。否その人自身の人生どころか歴史の流れにすら影響を与えてしまったのである。                                      

東京大学文学部政治経済科の明治十四年(1881)六月の学年試験でのこと。ホートンの英文学の問題で、「ハムレットにおける王妃ガートルードの性格について論ぜよ」との出題があった。
 シェイクスピアの「ハムレット」に登場するガートルードは主人公のデンマーク王子、ハムレットの実母であるが、彼女の夫すなわち主人公の父が毒殺されると、その弟(ハムレットの叔父)クローディアス と再婚した。実は、ハムレットの父を殺したのはこのクローデイァスである。
 ホートン教授からの出題に対し、坪内雄蔵という美濃国(岐阜県)加茂郡太田 村出身の学生は「ガートルードは悪女である」という趣旨の回答を提出した。東洋的な道徳に照らして、夫を暗殺した男に嫁いだ女性を論難したのであるが、試験の点数は悪かった。結局、坪内はその年は落第ということになってしまう。当然のことながら、坪内は大いに落胆する。この落第の前年に母を翌年には父と兄を相次いで失い、失意のどん底にあった坪内であるが、それにしても、悪女を悪女と断ずることの出来ぬ西洋の文学観というものは、若い坪内に少なからぬ衝撃を与えた。
 無理もない話ではある。それまでの日本の文学思想というものは滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」に代表されるように勧善懲悪的なものが主流であった。それに対して後に逍遙こと坪内雄蔵は「小説神髄」を著して、人間の心をその醜悪な面も含めてありのままに描く「写実主義」を主張、従来の勧善懲悪を批判した。さらにそれを創作の場で実践すべく「当世書生気質」も出版した。学年試験の失敗以来、シェイクスピアを初めとする西洋文学を徹底的に研究した坪内の努力が、我が国の近代文学の出発点となったともいえる。明治十八年(1885)のことであるが、坪内の別の功績について述べるために、話を一旦、東大卒業の明治十六年(1883)に戻す。
 東大での学友、高田早苗から誘いがあった。
「東京専門学校の講師にならないか」
東京専門学校。それはこの前年、大隈重信によって創設された学校である。いわゆる明治十四年の政変で参議の職を追われて下野した大隈は、自由民権の推進の傍ら、独立精神を持った人材の育成を志していたが、その具現化のために尽力した一人がこの高田早苗であった。 高田からの誘いに応じた坪内は、当時は田んぼの真ん中にあった貧相な木造校舎で、西洋史や憲法を講じた。その講義ぶりはまるで講釈師のようであると学生たちには好評であったが、「シェイクスピア」の講義を担当していたのは坪内を専門学校に誘った高田であった。そして、この当時の東京専門学校は、政治学や法律学が中心で「文学部」はなかったのである。
しかし、東大でのガートルードの一件以来、坪内の西洋文学特にシェイクスピア研究への情熱の炎はやむことを知らなかった。牛込余丁町の自宅に学生を招いて、シェイクスピアの講義を自主的に行った。 東京専門学校に文学科が誕生したのは明治二十三年(1890)九月のこと。その中心になったのはもちろん、坪内である。
 この背景の一つに「稿本・早稲田大学百年史」は坪内が指摘していた「時文の紛乱」を挙げている。文学科創設の年は第一回帝国議会が開かれた年であり、その前年には大日本帝国憲法も発布されている。
 政治制度の上では明治体制が完成したと見るべきであろうが、開国以来、西洋文明の大量流入による文化上の混迷は続いていた。西洋の文物や思想を適切に表現する日本語が確立できず、文体や語法も混乱していた。坪内はそれを憂いていたのである。しかし、それ以上に坪内が強く心に念じていたもの。それは教え子の一人、柳田泉が述べているように「文学が人生為善の方法となる」ことではないのであろうか。

 文学部創設の翌年に創刊された「早稲田文学」の初代編集長も坪内が努め、以来、島村抱月、谷崎精二さらに後には丹羽文雄、石川達三などそうそうたる顔ぶれが編集者に名を連ねている。 
 坪内は早稲田中学の教頭、校長も歴任し、教育にも並々ならぬ情熱を注いだ。
 坪内によるシェイクスピア全集の翻訳完成を記念して昭和三年(1928)に建設された演劇博物館には、日本及び世界の演劇関連の展示物、図書が多数、保存されている。
学生時代の挫折がこれ程までに多大な業績を生む源となるとは:。
 最後に坪内の早稲田への功績をもう一つ述べておきたい。
 東京専門学校改め早稲田大学に校歌が制定されたのは、明治四十年(1907)のこと。作詞は前述の「早稲田文学」の編集にも関わっていた相馬御風であるが、歌詞が一応できあがった上で、坪内の監修を仰いだ。坪内は最後に「早稲田、早稲田」のリフレインを付け加えるのがよいとアドバイスした。東儀鉄笛による曲にのり、このリフレインは日本全国津々浦々さらには世界に知られるようになる。
 

(付記)つい数年前、ある人に言われました。「早稲田出ているのに何でそんな仕事(著述業)なんかしているの?いい会社にも入れたのに」文学と早稲田とはもう一般的なイメージの上では結びつかなくなったのでしょうか? もっとも総長が人生劇場を前口上入りで唸っても、早大出版部から「尾崎士郎全集」が発刊されるという話が聞こえてこないようではそれも仕方のないことですねえ。