神様の置き土産は坂の名
 
                                菊池道人
 
 神楽坂。東京メトロ東西線での早稲田の東隣の駅である。
 かつては花街として栄えていたが、無骨な早稲田の地とは対照的な華やいだ風情であったことであろう。
 ところで、この神楽坂の地名の由来についてのあるエピソードを書こうと思い、その典拠となっている「改撰江戸志」を探そうと、筆者の地元の横浜市、神奈川県、さらには国立国会図書館そして早大図書館と蔵書検索サイトをあたってみたが、とうとう見つからずじまいであった。ウィキペディアによれば、原本は残っておらず、江戸時代末期の文政年間にその存在が確認されたとということである。
 そういうわけで、なにやら弁解がましいが、これは一つの語り伝えということで紹介したい。
 大坂の陣も終わり、徳川幕府体制がようやくその礎を固めていた元和年間、江戸城の拡張工事に伴い、田安郷(現在の九段坂上付近) にあった築土明神が牛込へ移転する際、神輿が重くて、坂を上ることができないでいた。ところが、神楽を演奏すると、神輿は軽々と持ち上がり、現在の築土八幡町まで運ぶことができたという。これが神楽坂という地名の由来であるが、それにしても、音曲の効果というものは、例えば、神宮球場での「紺碧の空」 やチャンスメドレー(魁、大進撃、スパークリングマーチ、コンバットetc)のように勇気と活力を与え、実力以上のものを引き出す効果があるのか?
 それとも、神輿の中の神様が移転を拒み不機嫌であったのを、神楽によって心を開いたのか?
色々と考えさせられるが、容易に回答を得られるものではないだろう。
 それはさておいて、神楽坂の地名にゆかり築土明神の由緒にも触れておこう。
 この社が創建されたのは天慶三年(940)6月。関東独立政権樹立を目指すも、この年の2月に藤原秀郷や平貞盛らに討たれた平将門を祀ったものであるが、「学問の神様」菅原道真も併せて祀られている。 
将門と道真は関係が深い。とはいっても、道真が左遷先の大宰府で亡くなったのは、延喜三年(903)のことで、将門の乱はそれから三十数年後に始まるのだから、両者の直接的な接点はない。しかし、時の朝廷政権を震撼せしめた将門の反乱には、藤原氏の政権独占と対立し、中央政権の要職である右大臣から太宰権帥といういわば地方勤務へと左遷され、不遇のままに生涯を終えた道真の影がつきまとう。
 将門は関東各地の国司をことごとく放逐した後、巫女の神託によって「新皇」の位に就くのだが、その神託の中に「菅原朝臣の霊魂表すらく」という台詞がある(「将門記」より)。つまり、将門が新皇の位に就くのは、道真の霊魂が捧げるところなのである、というのだ。
 道真の死後、朝廷の要人が落雷で死ぬと、その祟りであるといわれていたが、時の政権に対する不満のようなものが、体制の内外という違いこそあれ、主流勢力への抵抗を試みた両者を結びつけたことであろう。将門が生まれた年は道真が死んだ年と同じであるという説もあり、そのことから将門は道真の生まれ変わりであるということもいわれていた。
 なお、道真の三男・景行は、将門の生まれ故郷・下総の国司ともなっている。
 このことも色々と想像をかきたたせる要因であり、案外、歴史の真相を秘めているかもしれない。
 さて、時代は大きく下るが、もう一人、菅原道真とつながりのある偉人がいる。
 早大創設者・大隈重信である。
 具体的な系譜は不明ながらも、大隈は菅原道真の子孫といわれ、自身もそう公称していた。
 「エピソード・大隈重信」(奥島孝康・中村尚美監修)の冒頭でもこのことに触れているが、「道真は、権勢を誇った藤原一族との抗争に敗れ、中央から追われるところなど、大隈の明治一四年の政変と通じるところもある」(金子宏二氏記)という箇所は筆者もまったく同感。まさに歴史は繰り返すものなのか?反骨精神と学問への情熱という遺伝子は道真没後九百七十九年の時を経て、近代日本にその芽を出した。
 
 一見離れているようないくつかの点を線で結んでみた。こじつけめいた感がなくもないが、それぞれの時の主流となった権勢への抵抗という一つの線のようなものも見えてきたような:。この線は、日本という国にある種の活力を与えている。
 
 さて、菅原道真と平将門を祀り、神楽坂の地名とも関係深い築土明神であるが、第二次世界大戦の戦災で全焼、戦後、千代田区富士見に再建されたが、九段中学建設のために、現在地の九段北に移転した。
 平安時代から続くこの神社の歴史において、牛込の地に鎮座していたのは一時的なこと(それでも三百数十年間)であったが、 それでも神楽坂という地名は置き土産のように残している。