早稲田に一番近い城の話など
                                                                          菊池道人
 
  神楽坂で城跡を見つけた。今から二年以上前、日本出版クラブ会館でのとある会合に参加する折、道路を挟んで向こう側にある光照寺に「牛込城跡」という石碑を見つけた。 牛込城から往事は目と鼻の先に見下ろすことのできた江戸城を築いたのは太田道潅。管領・上杉氏の家宰であった道灌は、主君の上杉定正に謀反の疑いで暗殺される時、「当方滅亡」と叫んだと云われている 。
 その予言通り、道灌の死後、関東地方を実質的に支配していた管領・上杉氏は、伊豆から箱根山を越えて関東に勢力を伸ばした北条早雲に圧迫されるようになる。
 道灌が築いた江戸城も、早雲の子の氏綱の代には、北条の支配下となる。
 三代目の氏康の頃には、管領の上杉氏も放逐し、関東のほぼ全域を勢力下においた北条氏は、江戸城や河越城といった主要な要塞を起点とするいくつもの小さな支城を築いた。牛込城もその一つで、江戸城から始まる支城による防衛線の最初の一点であった。
 たとえば、北条氏に滅ぼされた管領・上杉氏の再興を志す越後の上杉謙信が関東へ侵攻 してくると、上野の厩橋城(現在の前橋市)あたりからそれを知らせる狼煙が上がる。
 高層ビルなどない時代、見通しがきく関東平野ならば中山道沿いに築かれたいくつもの支城を通して、松山城や河越城といった主要な城に緊急の情報が伝えられ、さらに江戸城へと伝えられる。牛込城からあがる狼煙を見て、江戸城内の北条方の将兵たちは有事を知り、さらに北条の本拠地である小田原へとつないでいくのである。
 パソコンでメールをチェックするわれわれ現代人と、牛込城の狼煙を凝視する江戸城の番兵たちを重ね合わせることもできる。
 
 この牛込城について、氏康の代に作成された北条家臣団の名簿ともいうべき「小田原衆所領役帳」によれば、大胡氏が六拾四貫四百三文の所領高で在住していた。上野国大胡にいた大胡重治が北条氏康に従って牛込に移り、重治の孫の勝行が牛込と改姓した。
 この牛込氏の所領は、現在の早稲田大学のある地域も含まれていたはずである。
 戦国時代の関東地方、早稲田の地の主は、この牛込城に住んでいたのである。江戸城にもっとも近い要塞であった。
 やがて、小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされ、牛込城のすぐ近くの江戸城には徳川家康が入ってきた。時代の大きな波には抗えず、牛込氏は家康に臣従するようになる。 牛込城ももはや不要な要塞として取り壊され、その跡地には神田にあった光照城が移転され、現在に至る。
 戦国時代、早稲田の地の臍の部分は牛込城であった。小田原北条氏の興亡とともに機能していた。