校歌誕生  
 
 
                       菊池 道人

 

 画竜点睛という言葉がある。絵に描いた竜に瞳を入れる、つまり最後の仕上げのことである。
 明治三十九年(1906)十月。早稲田大学は学内に校歌募集の広告を出した。東京専門学校から大学となってから五年。翌年の創立二十五周年を記念してのことである。
 
 校歌を歌う機会といえば、スポーツの試合の応援が思い出されるが、明治三十六年に始まり、ときあたかも校歌募集の時期に、応援の加熱が原因で中止となった早慶戦では、まだ校歌が歌われていなかったのである。
 さて募集に当たって提示された条項。
 一、校歌の目的は之れを本大学の諸儀式、学生の諸会合に於いて歌わしめんとす。
 一、校歌を分ちて第一校歌、第二校歌の二種とす。
 一、第一校歌は荘重、典雅、壮快、感奮、雄大などいう語のいずれかを以て形容し得べき声調なるを要す
 (中略)
 とした上で、イギリスのイートン学校の歌などを参考例として挙げていた。
 選定の中心となったのは、教授の坪内逍遙と島村抱月。
 日本近代文学のいわば本流ともいうべき写実主義、自然主義のパイオニアの目に叶う詩やいかに:。
 ところが、蓋を開けて見ると、二十三作の応募があったものの、これはと思うものは一つもなかった。
 応募作の具体例は残っていないし、仮にあったとしても、韻文の才がない筆者には、その善し悪しを論ずることもできないのだが、ただ、島村抱月は旧制第一高等学校の寮歌「ああ玉杯に花受けて」などを高く評価していて、それに匹敵するようなレベルのものがなかったということなのであろうか。
 ちなみに、応援歌では、昭和六年(1931)に第六応援歌として制作され、現在は第一応援歌として歌い親しまれている「紺碧の空」が当時、高等師範部(現在の教育学部の前身)に在学していた住治男氏が作詩し、採用されている。
 その他にも、在校生によって作詩され、現在でも頻繁に歌われている応援歌には「ひかる青雲」(岩崎巌作・昭和二十二年)、「いざ青春の命のしるし」(宮永正隆作・昭和五十七年)、「早稲田の翼」(早大応援部作・平成十九年)などがあるが、やはり校歌となると、そのハードルが高かったのであろうか。
 募集は二度にわったものの、とうとう当選作は出ることはなく、作詞者は適当な人物を指名するという方針に切り替わった。一時は、当時、在校していた北原白秋も候補に上がったが、まだ校歌を依頼するには未熟であるとして、卒業生の中から選ぶこととした。
 そして、白羽の矢が立ったのが相馬御風である。
 本名は昌治。新潟県糸魚川市出身で高田中学(現・高田高等学校)時代から詩歌を志し、明治三十五年に早稲田大学の前身である東京専門学校に入学、島村抱月に師事し、雑誌「白百合」を発刊するなど、旺盛な創作活動を繰り広げていた。卒業後は島村が再刊した「早稲田文学」の編集に携わっていた。
 そして、作曲は代々続く雅楽の家に生まれ自らも宮内庁雅楽寮に勤める傍ら、早稲田の文学科にも学んだ東儀鉄笛に依頼することとなった。
東儀は坪内や島村が主催した演劇研究団体「文芸協会」にも所属、演劇の道を志したこともある。その後は西洋音楽も学び、東京音楽学校(現在の東京芸大)講師もしていた。  
 
 学校を出てから二年目の相馬はひどく光栄に思ったと後年、述懐しているが、作曲者の東儀と打ち合わせをしたところ、東儀はイギリスやアメリカなど外国の校歌を取り寄せたりし、実際に演奏もした。
 八七調で荘重を旨とし、十日以上の日数をかけて、以下の歌詞が出来た。
 
  一
 都の西北 早稲田の森に そびゆる甍は我等が母校 我等が日頃の抱負を知るや
 進取の精神 学の独立 現世を忘れぬ 久遠の理想 輝く我等が行く手を見よや
 
  二
 東西古今の文化の潮 一つに渦巻く大島国の 大なる使命を 担いてたてる
 我等が行く手は極まり知らず やかでも久遠の理想の影は
 あまねく天下に輝き布かん
 
  三
 あれ見よかしこの常磐の森は 心の故郷我等が母校 集まり散じて 人は変われど
 仰ぐはおなじき理想の光 いざ声そろえて 空もとどろに 我等が母校の名をば讃えん
 
 三番の「心の故郷」がとてもいいと絶賛した坪内は、「わせだ、わせだ」のリフレインを最後につけたらどうかと提案し、これが世に知られることとなる。
 
 さて、歌は出来たものの、当時の早稲田には学生バンドがまだなかった。そこで、作曲者の東儀鉄笛によるアカペラの歌唱指導が安部球場の三塁側スタンドで行われた。
 三番の「空もとどろに」にの箇所は「とっどろに」と力強く切って、緩急をつけるようにとの東儀の熱血指導がくりひろげられたが、それとは裏腹に、現在では、「とーどろに」と伸ばし「極めてなだらかに、水が低きにつく如く歌われる」(早稲田大学百年史)ようになっている。
 
 
  明治四十年十月二十一日、創立二十五周年式典において、陸軍戸山学校の軍楽隊の吹奏により、この歌は初めて披露された。
作詞者の相馬御風は、その他にも、弟格の早稲田実業学校など数多くの学校の校歌を手がけた他、「カチューシャの唄」「春よこい」なども作詞している。
 
 
  参考文献
「稿本・早稲田大学百年史」  早稲田大学出版部
「エピソード・早稲田大学」奥島孝康・木村時夫監修  早稲田大学出版部
「都の西北」木村毅 ベースボールマガジン社
「応援歌物語」牛島芳  敬文堂                         
                             他