早慶戦・中止から復活まで 
 
講師 菊池道人
早慶戦と聞いて、皆様は何を思い出しますか? 松本・山倉・岡田・小宮山・仁志・藤井・和田:あの選手たちの若き日の雄姿。それとも夜の新宿? 百年以上の歴史を誇る早慶戦ですが、実は20年近くも中断されていた時期がありました。この空白の時代に、往時の先輩方はどのように挑み、そして伝統の一 戦を復活させたのか?「歴史文学ロマンの会」再建を志す我々も先輩方の叡智と 心意気に学ぼうではありませんか。   ------------------------------------------------------------------------  
第一回早慶戦 明治36年(1903)11月21日 三田綱町慶応グラウンド 午後1時30分試合開始 審判 黒田昌恵(一高選手)   
  1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
K 0 2 1 2 0 0 2 4 0 11
W 0 5 1 0 0 0 2 0 1  9
出場メンバー <慶応>         <早稲田>  
(一)時任             (捕)泉谷
(捕)青木             (右)猪瀬
(遊)林田             (遊)橋戸
(二)宮原             (三)小原
(中)吉川             (中)獅子内
(三) 柳             (投)河野
(投)桜井             (左)鈴木
(左)高浜             (二)押川
(右)宮本             (一)森本  
試合時間1時間57分 戦前の予想外の早稲田の善戦であるといわれていた。  
 
早稲田から慶応への挑戦状
早稲田から慶応への挑戦状(早稲田第2代主将・橋戸信筆)
拝啓仕候陳者貴部 益御隆盛之段斯道之為め奉賀候弊部 依然として不振、従ふて選手皆幼稚を免れ ず候に就ては 近日之中御教示にあづかり以て大いに学ぶ所あらば素志こ の上も 無之候 貴部之御都合は如何に候ふべき哉 勝手ながら大至急御返還被下度 御承 知之上は委員を指向け グラウンド審判官之事など万々 打合せ仕るべくこの段得 貴意候也                       早稲田大学野球部                                委員拝 十一月 五日 慶応義塾野球部       委員御中
 
慶応から早稲田への返信(高浜徳一選手から泉谷祐勝選手宛て)
拝啓 秋気相催 し候所益大に御練習之御事と推察いたし候 依而貴校と当校とは是非ともマッチ を致す可き者とただに 門外漢之風評のみならず当方の弥次連も非常に希望致し 居り候様子に御座候へ共兎角申込云々の角立ちたること 有之候為め幹事乃内に も之に決しかね居る向きも有之候 様子とすればこの際御校にて御申込相成候は ば直ちに 成立可致候この頃は丁度よき時節に候へばこの期をはず しては正に互 方にこの後益々都合悪しく相成申可く候 と存ぜられ候小生などは貴兄乃対手と なるなと乃変な者 と存し居り候へ共然し仕合は是非いたし度心掛居り候 御校之 御様子は如何にや双方議熟して戦ふと云ふ風 至極おもしろしと存候御校さへよ ろしく候へば当方は小生 より申出幹事連へも勧告致し見る覚悟に候間御一報煩 し 度候 先は右迄  如斯に御座候                                   敬具 十一月八日夜八時半                              高浜徳一
泉谷祐勝様 机下へ  
 
慶応野球部創設  明治17年頃、アメリカ人語学教師のストーマーからコーチを受けて、塾生たち が初めてボールを手にした。当時のメンバーの一人、村尾次郎は「新橋アスレ チック倶楽部」(鉄道局職員や外国人技師を中心にしたクラブチーム)の創設 者・平岡ひろしとも親交があり、新橋倶楽部の選手からもコーチを受けるように なっていた。21年にアメリカから帰国した岩田伸太郎が入会して大いに野球を 奨励して、「三田ベースボール倶楽部」を組織、近隣の青山学院や明治学院など と試合を行った。25年に義塾体育会が発足するとそれに加盟し、学校を代表する部として正式発足。
*第1回早慶戦前の慶応の戦績*  明治32年 立教中学に13対5、明治学院に 17対14、12対6で2連勝。横浜商業に18対11で敗れる。 明治33年 明治学院に27対3、麻布第二に29対11で勝利。横浜外人倶楽部に9対3で 敗れる。独協中学には18対11、当時、一高に次ぐ実力といわれた学習院には 17対8で大勝した。 明治34年 東海道遠征を試み、浜松中学、和歌山中学、 静岡中学、それに三高などに勝利。 明治36年 関西遠征を行い、三高や京都一 中などに6戦全勝。  
 
早稲田野球部創設 明治34年(1901)春、高等予科を新設したため、旧制中学を卒業したての 若い学生が多数入学するようになった(それまでは先生よりも年上の学生がいる など、平均年齢が高く、野球など知らない者も多かった)。この「若者」たちの 中には、中学時代に野球選手として鳴らした者もいて、郁文館中学出身の大橋武 太郎を中心に「チアフルクラブ」というチームを結成し、水稲荷神社下の空き地 (現在の商学部校舎前)で練習を始めた。同じ年の11月、安部磯雄教授の発案、 尽力により、学校公認の部として正式に発足した。 *第1回早慶戦前の早稲田の戦績* 明治34年 学校の公認が得られる前は、弟格 の早稲田中学にも負けてばかり。 11月、学習院に7α対6で逆転サヨナラ勝ち 明治35年 5月、駒場農科大学に12対5で敗れる。 10月、学習院に14対 2で敗れる。 明治36年 10月、横浜外人倶楽部に9対7で勝利。 (この一 戦によって、当部の実力は世に認めらるる事になった。 (「早稲田大学野球部史」より)  
 
早稲田野球部のアメリカ遠征 安部磯雄教授は、早稲田野球部の創設の頃から、「もし一高、学習院、慶応に全勝したならば、アメリカ遠征に行きましょう」と約束していた。安部はかつて、キリスト教と社会主義を学ぶために、欧米 に留学していたのであったが、アメリカでの留学を終えてドイツに向かう途中、 イギリスの首都・ロンドンに立ち寄った時のことである。明治27年7月12日 の新聞を読んでいた安部は、イギリスのオクスフォード大学とアメリカのエール 大学の陸上競技の記事を見つけた。そして、その時から安部の心にある理想が芽 生えた。「もし世界各国が国際競技に力を入れるようになれば、武力での争いも なくなるのでは。日本でもこのようなことをやってみたいものだ」。その理想を 胸に帰国した安部は、早稲田の教壇に立つようになっていたのであった。その安 部が出した条件を野球部は創部四年目の明治37年に早くも満たした。慶応に2勝(別表参照)したばかりでなく、それと前後して、学習院にも2勝、当時、東 京府下でも最強といわれた一高にも勝利を収めたのである。しかし、日本人大 リーガーが活躍するなど想像だにできなかった時代のことである。初代主将の大 橋武太郎は両親の猛反対で退学を余儀なくされていた。加えて日露戦争の真っ最 中。「戦時下に野球などのために外遊など以っての他」批判の声も上がってい た。しかし、早大創設者の大隈重信は、「戦争は軍人がやるもの。学生には学生 としてなすべきことがある」と安部を激励し、ついに明治38年4月4日、安部 部長に引率された早稲田の12名の選手は、コレア号に乗って、横浜を出港し た。4月20日にサンフランシスコに到着。それから六月中旬までの二ヶ月間、 アメリカ各地をまわり、現地の大学チームなどと26試合を戦い。7勝19敗。 しかし、勝敗以上に科学的な野球技術を習得したことは、その後の日本野球界の 発展への多大な貢献となった。それまでは、内外野手もミットを使用していたも のを、グラブに改め、足袋からスパイク、バント戦法、二遊間の連係プレー、スライディング、スコアブックのつけ方など、今日では当然のものとなっているよ うなことを、広く普及せしめたのであった。
 
*2回目以降のスコア* 第1回早慶戦後、これからは定期的に行おうという申し合わせた。 2戦目以降(明治38年まで)は以下の通り
第2戦 早13−慶7(明治37・6・4)   
 3  早12−慶8(37・10・30)   
 4  早0−慶1(38・3・27)   
 5  早0−慶5(38・10・28)   
 6  早1−慶0 (38・11・8)   
 7  早3−慶2(38・ 11・12)
 
高まる早慶人気 過熱する応援 回を重ねるごとに早慶戦の人気は高まって いったるこの原因を大和球士氏は、「両校とも明治37年にそれまで最強といわ れた一高を打倒したこと」「日本人で初めてアメリカへの野球遠征を果たした早 稲田の注目度」「日露戦争の勝利で東京中が沸き立っていたこと」が原因と分析 し、さらには両校の創設者、福沢諭吉と大隈重信の親交についても触れている (「真説・日本野球史・明治篇」参照)。ともかくも、社会的にも注目されて、 観客も増え、応援も次第に熱狂的なものとなっていた。ところで、この当時の応 援についてだが、早慶両校とも現在の応援部、応援指導部は存在しなかった。 (そのことがこの後に触れる出来事の伏線になる)早稲田には吉岡信敬という名 物野次将軍がいて、彼が自然に学生たちのまとめ役、すなわち応援団長になって いた。慶応は他の運動部の学生たちが、臨時に応援団を結成していた。また、慶 応の「若き血」早稲田の「紺碧の空」のようなオリジナル応援歌もなく、童謡や軍歌の替え歌が応援の際に歌われていた。しかし、早稲田は別表の野球部のアメ リカ遠征の折り、現地仕込みのカレッジエール(Wの文字の記されたエンジの小 旗を振っての応援)、慶応は人文字を採用するなど、今日の応援合戦の基礎とも いうべき斬新なアイデアもすでに誕生していた。  
 
運命の明治39年秋  1回戦 早稲田・戸塚球場  10月28日 早稲田は3回表に、慶応・青木投手の三塁への悪送球で1点を先制したが、慶応は4回裏に 吉川の右前への適時打で同点、さらに早稲田の田部遊撃手のエラーも出、これが 慶応の決勝点に。2対1で慶応の勝利。 試合後、両校の選手、応援団の茶話会 なども開かれ、和気あいあいとした雰囲気であったが、慶応の学生の一部が大隈 重信邸前で、「万歳」を叫んだため、早稲田側の反感を買った。  
2回戦 慶応・三田綱町グラウンド  11月3日 0対0で迎えた4回表、早稲田はアメ リカ仕込みのバント戦法を駆使、押川のスクイズで1点を先制。8回表には、押 川が中前に2点適時打。早稲田のエース・河野が完封。3対0で早稲田の勝利。 1勝1敗。 この試合、両校応援団の打合せで、応援席の人数は慶応500人、 早稲田250人と約束していた。しかし、早稲田側は、早稲田中学、早稲田実業の生徒も動員、さらに橋戸信の母校・青山学院、押川清の母校・郁文館の生徒た ちも先輩選手の応援に駆けつけたため、予定外の1200人の早稲田応援団が 内、外野を埋め尽くした。早稲田の吉岡信敬応援団長が馬に乗って応援したという「伝説」(横田順彌氏はこれに疑問を呈しているが)もある。そして、試合後、なんと早稲田の学生たちが福沢邸前で「万歳」を叫んだ。 相手校の創設者邸前での万歳、応援席の配分問題でも両校応援団幹部の話し合いもまとまらずに、11月11日の決勝戦は近づいていた。早稲田の吉岡団長が指 揮者を六頭の馬に乗せ、刀まで用意しているという噂が飛び、慶応応援団も柔道着を着こんで、乱闘の準備を始めていた。試合の前日、慶応の鎌田栄吉塾長は早 稲田の高田早苗学長、安部磯雄野球部長を訪ね、3回戦の中止を提案。早稲田側 もこれを了承した。早稲田ではこれを一時的な中止と解釈していたが、実は長期 的なものであった。
 
現役がダメならばOBが: その後、早稲田側から慶応へ、何度も試合の再開 を申し入れるが、拒絶されるばかりであった。 慶応では、野球部としては早慶 戦の復活に賛成であるが、学校当局が頑強に反対していた。 早稲田もついに明 治44年12月19日、慶応に絶縁状を送りつけた。このまま、早慶戦は幻の試合の ままとなってしまうのか? 一方、それと前後して、現在の羽田空港付近にグラ ウンドが誕生した。明治42年4月のことである。 これは冒険小説家・押川春浪 が親しくしていた京浜電車会社(現在の京浜急行)の技師長で文芸家評論家でも ある中沢臨川を説いて、京浜電車会社を動かし(利用客の増大を見こんで)、無 料の貸しグラウンド設立の運びとなったのであった。設立まもない4月25日、 「東京倶楽部」対慶応の試合が行われた。東京倶楽部はこの前年、一高、学習 院、慶応、早稲田などのOBによる野球チームで(試合再開に反対していたの は、あくまでも学校当局で選手やOBは親しく交流していた)、この試合には、 早慶戦中止当時の早稲田主将・押川清も加わっており、世間では非公式の復活と みていた。その後「東京倶楽部」は早稲田OBの「稲門倶楽部」、慶応OBの 「三田倶楽部」とに分かれたが、今度はこの両チームの試合が行われることに なった。明治44年10月29日、戸塚球場においてである。これも押川春浪の 発案によるものである。尚、春浪は早稲田の押川清選手の実兄で、技術は弟には 及ばなかったものの、東京専門学校(後の早大)在学中、野球部設立を志し、結 局、果たせなかった。この年の「三田・稲門戦」は3回戦まで行われ、三田の2 勝1引き分け。世間では、「準早慶戦」と見て、中止前の早慶戦にまさるとも劣 らぬ盛況であった。
*(「現役がダメならばOBの手で」これこそが我ら「不死鳥会」のヒントです*
この三田・稲門戦では、最高50銭の入場料を取り、その収入の全額を白瀬のぶの南極探検隊に寄付した。日本人同士の試合で初めての有料試合でもある。  
 
稲門・谷口VS三田・小野に沸く 三田・稲門戦は明治44年に行われて以来、しばらく中断していたが、大正10年に復活、人気を博した。これは早稲田 OBの押川清、河野安通志らが日本最初のプロ野球チーム・芝浦協会(ただし、 昭和4年に解散、したがって、現存する球団としては読売巨人軍が最古)を設 立、その経営資金を得るためでもあった(会場も芝浦球場)。この時から、両 チームに3名ずつ現役の早慶の選手を加えることになり、早慶戦復活を熱望する ファンの人気を集めた。特に、注目を集めていたのは、稲門の谷口五郎投手と三 田の小野三千麿投手の一騎打ちであった。
*三田・稲門戦の戦績* 大正10年 春 三田6−3稲門 稲門6−3三田 三田 3−0稲門 秋 稲門6−2三田 稲門1−0三田
大正11年 春 稲門2−0 三田 三田3−2稲門 三田7−3稲門 秋 稲門2−1三田 三田5−0稲門  三田3−1稲門 以下略
*小野三千麿:*神奈川師範から大正7年、慶応義塾入学。速球投手として鳴ら す。大正11年、三田倶楽部がハンター率いるアメリカ大リーグ選抜に9−3で 勝った時の投手。日本人で初めての、大リーグ相手の勝利投手である。後、毎日 新聞に入社、都市対抗野球の発展に尽力。野球殿堂入り。  
*谷口五郎:*釜山商業から大正9年に早稲田大学入学。早稲田の第4回アメリカ 遠征ではほとんど一人で投げぬき、五大学リーグ(六大学野球の前身)の優勝に も度々、貢献した。卒業後は大連実業に入り、都市対抗野球で活躍、戦後はノンプロの常盤炭鉱監督さらにはプロ野球の巨人、大洋(現横浜)のコーチも務め た。野球殿堂入り。
 
谷口の逆モーション事件  やはり早稲田と慶応との戦いには、過熱がつきもの であった。大正11年秋、当時、早稲田の現役選手として三田・稲門戦に出場し ていた谷口五郎投手は、密かに開発していた逆モーション投法を披露した。これ は投球の際、普通は前方から腕を回転させるのに、谷口投手は後方から前方に回 転させた。1回戦では、三田側から谷口の投球はボークではないかとの抗議が あったが、この試合の審判は三田の抗議を退けた。しかし、これが八日後の2回 戦にも尾を引いた。三田の高浜益雄選手は、打席で谷口に対して舌を出すなどの 行為で挑発。これに怒った谷口は、高浜の足に死球をぶつける。高浜が興奮して バットを谷口めがけて投げつければ、谷口はグラブを叩きつけて、ダッグアウト に引き上げ、試合は一時中断した。谷口はチームメイトになだめられて、マウンドに戻り、試合は再開。しかし、谷口は一ヶ月近くの謹慎を命ぜられ、逆モー ションについても、後日、論議の的となった。結局、谷口の投球はボークではな い、という結論が出た。  
 
復活への道  大正3年 振興の明治大学が加わり、早、慶、明の三大学リーグ 戦(今日の東京六大学野球の前身。以下リーグ戦と称す)が始まるが、早慶は直 接対決せず。  大正6年 日本体育協会会長となっていた柔道家の嘉納治五郎 が早慶戦復活への仲介を試みたが、不調に終わった。同年、リーグ戦に法政が加 わり、四大学となるが早慶の直接対決はないまま。 大正10年 リーグ戦に立 教が加わり、五大学に。 大正11年 ラグビーの早慶戦が始まる。(14対0 で慶応の勝ち) 大正13年 明治の内海弘蔵、法政の武満国雄両野球部長が早慶両校に復活を迫る。早稲田・飛田忠順(穂洲)監督はこれに賛成したが、慶応 側は態度を保留した。慶応では野球部としては復活に異存はなかったが、当局の許可が得られぬままであった。当時の桐原信二主将と野坂三郎マネージャーが関係者の説得に奔走する。  
 
何故、慶応当局は早慶戦復活に反対したのか?: それは当時、慶応の評議員会会長を務めていた三井財閥の総帥、池田成彬の存在 であった。学校運営に多大な影響力を持つ池田が強硬に早稲田との試合に反対し 続けていたのであった。その理由は明らかではない。慶応野球部の桐原主将、野坂マネージャーが池田邸を訪問しての懇願も受け入れられなかった。 大正14年 東京帝国大学がリーグ戦に加わり、いよいよ六大学野球連盟の誕 生。しかし、早慶戦は行われぬまま。業を煮やした明治が、早慶抜きでの新リーグ結成論をぶちあげる。慶応は十五日間の猶予を求めた。慶応野球部員たちは、 平沼亮三塾長に一任することに決め、山岡鎌太郎主将、土肥次郎副マネージャー が大阪に旅行中の平沼を急遽、訪ねることにした。その道中、偶然にも慶応の先 輩・高橋彦二郎が名古屋から同じ汽車に乗った。高橋は、平沼塾長が京都にいる ようだから、会ったらば、諸君のことを話しておく、と告げた。果たして、高橋は、京都で平沼に会い、平沼は山岡と土肥のことを聞いて、大阪のホテルにて二人の話を聞いた。帰京した平沼は緊急評議員会を開いて、それが重大なきっかけ となったといわれている。その後、慶応の板倉卓造体育会理事と早稲田の高田早 苗総長が会見し、早慶戦復活が決定した。
 
*復活早慶戦*は大正14年10月19日に行われた。試合開始に先立ち、早稲田の安部磯雄野球部長は、応援歌などを自粛するよう呼びかけた。 この時期は、まだ両校に現在の応援部、応援指導部はなく、秩序たった応援は確立されていなかった。試合は11対0で早稲田の勝利。 なお、この試合、早稲田の五番・ライトで先発出場し、1安打を記録している* 河合君次氏*の野球人生を描いた「虹のスラッガー」(前野書店)を発表者・菊 池道人は上梓したが、その取材の過程で三田・稲門戦、早慶戦復活の過程につい
て知り、先述のとおり、後日「不死鳥会」のヒントにした。  
 
*参考文献* 「真説・日本野球史」(大和球士 ベースボール・マガジン社) 「早稲田大学野球部・栄光の軌跡」(ベースボール・マガジン社) 「ああ安部球場 紺碧の空に消ゆ」(相田暢一 ベースボール・マガジン社) 「早慶戦の謎」(横田順彌 ベースボール・マガジン社) 「快男児 押川春浪」(横田順彌 パン・リサーチ出版局) 「早稲田大学野球部史」「慶応義塾野球部百年史」 「早稲田野球部初代主将」「虹のスラッガー」( 2作とも菊池道人 前野書店)
最後に河合君次先輩・西大立目永先生のご冥福をお祈り申し上げます。(菊池道人)