元勲のお気に召さぬか我が母校
 
                                  菊池 道人
 
 武蔵野台地の東端から早稲田の森を見下ろす庭園付きのホテル。名付けて椿山荘。
この邸宅の主であった人物は自らを「一介の武弁」と称していた、という。
確かに、椿山荘の主の経歴を述べるに、長州藩の足軽以下の身分であった中間の家に天保九年(1838)に生まれた山県有朋は、後に池田屋事件で新撰組と戦ってその命を散らした友人の杉山松助に学問では叶わないことを悟ると、槍術で身を立てる決意をし、裏庭のイチジクの実をこどことく打ち落とすまでになったという。その後、黒船来航以来の時代の荒波が押し寄せる中、尊皇攘夷運動に関わるようになると、久坂玄瑞の誘いにより、当初は前述の杉山松助に勧められるも固辞していた松下村塾へ入門、吉田松陰の薫陶を受けるようになる。
 それ以後の経歴を略述するに、高杉晋作の発案した、農民、町人たちによる奇兵隊の軍監として、長州藩内の俗論党 (守旧派)排斥のクーデターや幕府による長州征討軍との戦いに奮戦、大政奉還後も北陸、会津へと転戦した。明治維新後は陸軍卿などを歴任して徴兵制度を採用し近代国軍創設に尽力、西南戦争では参軍として官軍の総指揮をとった。本稿の主題である椿山荘はその功金で購入したものである。その後も、参謀本部の設置や軍人勅諭の頒布など軍政関係に多大な足跡を残している。特に、参謀本部の権限強化は明治憲法に於ける統帥権の独立へとつながり、彼の死後から二十数年間の我が国の歴史を省みるに当たっては、しばしば議論の対象となるが、それらの是非を論ずるのは別の機会に譲るとしても、どうしても自らが称していたように「武の人」という印象が強い。もちろん、内務卿として、市制・町村制・府県制を制定するなど非軍事部門での功績も見逃せないし、総理大臣も二度務めているが、それと前後して、日清戦争では第一司令官として自ら戦地に赴いたことなどは、まさに「一介の武弁」の面目躍如たるものがある。
 しかし、文雅の素養が皆無であったというわけではない。父の影響もあって、和歌もたしなみ、また、槍術の方に志を傾けたのも、学問では前述の杉山松助に叶わぬと思ったからであり、山県自身にまったく学才が無かったというわけではなかった。
 その山県有朋の少年時代のエピソードとして、椿とメジロを好んだということが徳富蘇峰編述「公爵山県有朋伝」にある。本稿の主題である椿山荘も椿の花にちなみ、鳥のメジロから目白という名の地を居住地に選んだのも「其の機縁がないでもない」と徳富は述べている。
 
 山県の最大の趣味は築庭である。小田原の古希庵、小石川水道町の新々亭なども手がけている。久留里藩・黒田家の下屋敷を大久保利通が暗殺された明治十一年に購入し、椿山荘と命名したこの屋敷の庭も山県の手によるものである。竹裏渓、幽翠池、三又松、芙蓉亭、天狗松、聴秋瀑、延年橋、古香井、雲錦池、稲香亭は荘内十勝と呼ばれ、絶景を誇っていた。周囲の景色もまた名勝揃い。
 屋敷の周辺の四季折々の姿たる荘外七勝は、富嶽暮雪、蕉庵夜雨、駐橋夕照、蓮峯晩鐘、関口秋月、高田晴嵐そして早稲田落雁であるが、冬には雁が集う早稲田に、山県にとって厄介な存在が居を構えていた。
 大隈重信である。政党政治を主張、自らも立憲改進党を率いた大隈に対し、山県は敢えて政党を度外視する超然主義を終生、崩さなかった。同じく長州出身の伊藤博文が後には政党の必要性を認め、自ら政友会総裁に就いたのとも異なった政治姿勢である。
 そのような山県にとって、明治十四年の政変で下野し、椿山荘のすぐ下である早稲田の地に学校を開いた大隈はまるで体の一部に出来た腫れ物のようなものであったのか。
 明治十五年六月十五日付け伊藤博文宛の書簡に「早稲田の学校にて遊説派出の人物を養成し」と当時は設立準備中であった大隈の学校事業を警戒するような文言もある。もっとも、学校と政治活動は別物であることを大隈は明確にしたということは、本シリーズでも度々触れた通りだが、学生の間には、山県に代表される藩閥政治への反感という雰囲気も根強かったのは確かである。その一例を挙げる。時は明治三十四年頃、山県が日英同盟を唱えていた頃であろうが、大隈が早稲田に開いた専門学校の書生が椿山荘前で藩閥政治批判の演説を始めた。巡査の注意をものともしない執拗なこの書生に山県は激怒し、槍で一差しとばかりに長物に手をかけたという。しかし、いくら何でも、この時期、すでに元老の地位にあった政治家が書生風情を槍で手打ちにということは大げさだろう。
第二次世界大戦後の保守合同すなわち現在の自由民主党結党の陰の立て役者ともなるこの三木武吉という書生はいささかの誇張癖があるようだ。ほぼ同時期の自身のエピソードとして、野球部を創設したのも自分である、と晩年語っている。
 三木がうどんの食い逃げ事件で退学を余儀なくされた高松中学(現・高松高校)からは早大OBでグラウンドの魔術師とも呼ばれたプロ野球界の名将・三原脩監督など数多くの野球人が出ているが、早大野球部創設の経緯は菊池著「早稲田野球部初代主将」を読むまでもないだろう。飛田穂洲編「早稲田大学野球部史」には前掲拙著の主人公・大橋武太郎をはじめ、創設期のメンバーが明記されているが、三木武吉の名はどこにも見あたらない。しかし、まったくの嘘ではない。
 早大野球部で初代マネージャーとして創部に尽力した弓館小鰐(本名・芳夫)が著した「スポーツ人国記」によれば、創部間もない頃にメンバーに加わったものの、守備練習中に股間に球を当てて卒倒、以後、野球から離れたという。著者の弓館は毎日新聞などの記者として活躍していたのだが、大新聞に勤務し、しかも野球部のそれこそ山県有朋のような元老的存在の人物が無責任なデタラメを世に示すということは考えにくいので、三木は一時期在籍というのは事実と認めてよいだろう。
 
 さて、回り道はこれくらいにして、本題に戻ると、椿山荘の主・山県有朋は「予にして富人であったならば、早稲田一帯の地面を買い潰して、之を一面の池と為し、椿山の風致を添うることとせん。斯くてこそ椿山荘も初めて天下の名園たるべけれ」と人にも語ったという。嗚呼、我らが夢を語りしあの四号館ラウンジも池の底:。ここで韻文の才無きことも顧みず、本稿の題名ともなった戯れ歌を:。
 
    元勲のお気に召さぬか我が母校
 
  大正七年に椿山荘は藤田平太郎男爵に譲り渡された。山県有朋の死はそれから四年後。大隈重信の死と同じ年であり、墓所も同じく護国寺である。
 早稲田を見下ろした山県邸、現在は藤田観光所有のホテル椿山荘である。
 
参考文献 「山県有朋」藤村道生 吉川弘文館 「公爵山県有朋伝」徳富蘇峰編述 他