堀部安兵衛の助太刀
菊池 道人
「高田馬場」といえば、現在ではJRなど の駅とその周辺の地名である。 しかし、その由来となった場所は、それよ りもさらに東、早稲田大学近くの水稲荷神社 の隣である。 その由来は江戸時代初期に遡る。 徳川家康の側室、高田君(松平忠輝の生母 茶阿局)が庭園を作った。さらに三代将軍家 光の寛永年間、幕府はその地に馬場を作った 。 五代将軍綱吉の元禄七年(1694)二月 。この高田馬場で、囲碁の上での口論を原因 とする果たし合いがあった。 伊予西条藩士の村上庄左衛門と菅野六郎左 衛門との間である。 村上には弟の三郎右衛門と知人の中津川祐 見とその家来数名が加勢した。 対する菅野は、若党の左次兵衛に草履取り 、そして義理の甥の中山安兵衛。 二月十一日四つ半時(午前十一時)に決闘 は始まる。 六郎左衛門と庄左衛門とは激しく斬り結び 、共に重傷を負っていた。 しかし、菅野方の中山安兵衛は、村上三郎 右衛門と中津川祐見を斬り伏せると、瀕死の 義理の伯父・六郎左衛門に加勢して、庄左衛 門をも倒した。 菅野六郎左衛門はこの日のうちに死亡した が、助太刀をして三人までも倒した安兵衛の 武名はたちまち世間に知られるようになった 。瓦版などが大げさに書き立て、安兵衛が倒 したのも十八人とまでいわれるようになり、 後世の講談や浪曲、映画などでも取り上げら れるようになった。
中山安兵衛武庸はこの年二十五歳。 そもそもは、越後国(新潟県)新発田藩主 溝口信濃守重雄の家臣で、二百石を知行して いた中山弥次右衛門の子として生を受けた。 母親は安兵衛が生まれた年に死亡している 。産後の肥立ちが悪かったのであろうか。 父の弥次右衛門は、城の巽の櫓を管理する 立場であったが、桐油合羽を虫干ししていた ところ出火し、櫓が焼失してしまい、その責 を負って、罷免され、程なく病死した。安兵 衛が十三歳の時である。 その後、安兵衛は浪々の身となり、それか ら暫くの事は明らかではないが、一説によれ ば、上野国(群馬県)の間庭で、樋口氏から 念流を学んだともいわれている。 安兵衛の江戸出府は元禄初め頃。 牛込元天竜寺竹町(現在の新宿区納戸町あ たりか)に居住し、堀内源太左衛門の道場に 入門した。 同門には、儒学者として名高い細井広沢も いて、細井から学問を学んだりもしていたこ とであろう。 安兵衛の剣の技は益々磨きがかかり、つい には諸藩の江戸藩邸に出向いて、代稽古も務 めるようになっていた。 その安兵衛、前述の菅野六郎左衛門と伯父 甥の契りを結んだ。 幼き日々、母親の愛情を知らず、また父も 失った安兵衛は、六郎左衛門を実父のように 慕っていたことであろう。
安兵衛の武名を聞いて、是非、婿養子に迎 えたいと言って来た者がいた。 播州赤穂藩の老臣、堀部弥兵衛金丸である 。弥兵衛は江戸留守居役で二十石取り。 浅野長直、長友、そして安兵衛の助太刀の あった時代の長矩と三代の赤穂藩主に仕えて いた。 弥兵衛には弥市兵衛という実子がかつてい た。文武に優れ、性質もおとなしくて真面目 であったが、その頃、堀部家に身を寄せてい た三宅弥怱右衛門という浪人の素行が悪かっ たので、弥市兵衛が注意したところ、三宅は それを逆恨みし、まだ十六歳の弥市兵衛を殺 してしまった。弥兵衛は逃亡した三宅を追い かけて、息子の仇を討ち果たしたが、弥兵衛 は跡取り息子のいないことをずっと嘆いてい た。 そこで、一人娘の婿に武名の誉れ高い安兵 衛をと望んだのである。 講談などでは、高田馬場の助太刀の際に、 この弥兵衛の娘が縮緬の扱帯を差し出して、 それを安兵衛が襷にしたのが縁である、とま ことしやかに語っているが、これは虚構である。 堀内道場には、後に安兵衛と運命を共にす ることになる奥田孫太夫という赤穂藩士もい たことなどから、この伝によって、弥兵衛が 安兵衛に面会を求めて来たのであろう。 安兵衛は、最初はこの申し出を断っていた が、弥兵衛の熱意に押され、ついに堀部家の 家督を継いで、播州赤穂藩浅野家に馬廻とし て仕えることになった。
元禄十四年(1701)三月十四日。 安兵衛の運命を激変させる大事件が起こっ た。 勅使饗応役を幕府から仰せつかっていた主 君の浅野内匠頭長矩が、指南役の高家筆頭、 吉良上野介に対して遺恨を抱き、刃傷に及ん だ。この遺恨の真相については、諸説あり、 正確には不明であるが、浅野長矩は即日切腹 の上、御家断絶、吉良上野介はお構いなし、 というのが幕府の下した裁きであった。 これに対して、安兵衛らは、江戸にいて、 その原因を知っていたからであろうか、刃傷 の原因を作った上野介にお咎めなしという処 断に反感を抱き、吉良への復讐を唱えた。 しかし、吉良屋敷には上野介の実子・綱憲 が養子となっている上杉家の家臣たちも警護 を固め、とても主君の仇を討てるような状態 ではない。このままで討ち入っても、犬死に するだけだと手をこまねいていると、国元で も幕府の裁きに抗議して、赤穂城に籠城する という噂が流れていた。安兵衛は、幕府に一 戦を挑んで討ち死にならば、それもよし、武 士としての面目も立つものと、前述した、堀 内道場の同門、奥田孫太夫らと赤穂に向かっ た。 しかし、赤穂に着いてみれば、城は明渡し と決まったという。 首席家老の大石内蔵助良雄に面会してみれ ば、先ず、浅野家再興を優先するという。 憤然とする安兵衛らに大石は、「この度の ことは大石に任せてくれ。後々のことには含 みもある」 江戸に戻った安兵衛らは、大石の「後々の ことには含み」を吉良への復讐と信じて、そ の時を待ち続けていた。しかし、浅野家再興 が進行しないにもかかわらず、大石はなかな か腰を上げない。それどころか、祇園に繰り 出して、遊興に耽っているという。 安兵衛らは何度も大石をせっついた。 一時は、江戸在住の「急進派」だけで吉良 屋敷に斬り込もうとまで考えたが、国元の老 臣の吉田忠左衛門らの説得で自重した。 浅野家再興が絶望となると、安兵衛らは大 石らの真意を問いただすべく、上京した。 元禄十五年七月二十八日、京都・円山にて 、大石内蔵助はついに、吉良上野介への復讐 の意を同志たちに発表した。 この後、安兵衛は、江戸に戻り、吉良屋敷 に近い本所林町に剣術道場を開きながら、敵 の動静を探っていた。 そして、十二月十四日。 大石内蔵助を首領とする赤穂浪士四十七名 は吉良上野介を討ち、本懐を遂げた。 堀部安兵衛もその一人、高田馬場での助太 刀も加えると、人生に於いて、二度目の仇討 ちであった。 翌年二月四日、幕府の処断により、切腹。 享年三十四歳。戒名は刃雲輝剣信士。
浪人時代の安兵衛は、大の酒好きで、また 町人たちの喧嘩の仲裁を得意としていたこと から、「のんべ安」「喧嘩安」などと呼ばれ ていたといわれるが、実際は酒はほとんど飲 まず、実直な人柄であったという。ただこうした「伝説」が生まれるのは、赤穂浪士の中でも、比較的、庶民に近いところで暮らしていたこともあるからなのであろうか。 剣ばかりでなく、文才にも恵まれた人で、 主家断絶後の経緯を同志たちの書状などとも にまとめた「堀部武庸筆記」という記録も残 し、後世の赤穂浪士研究の貴重な資料になっ ている。
(付記)吉良への斬り込みが困難とみると、 赤穂城での籠城もまたよし、と切り換える。 手段は何でもよし、とにかく、「武士の面目 」にこだわった人なのでしょうね。 (菊池 道人)