半布里の富士山

創作民話  半布里の富士山   

 ずーと・・・ずーと昔、日本の真ん中、駿河の国で大噴火があり、日本一高いお山ができました。

  高いことが日本一だけではない、裾野が大きくなだらかに広がり、東から見ても西から見ても、北から見ても南から見てもまったく形が同じで、美しいことでも日本一のお山になりました。

あまりに高く、美しいことが日本中で評判になり、2つとない山「不二山」といわれました。

ところが、しばらくして名前も美しいものにしようとなって、不二山は「富士山」とかえられたということです。

 この日本一のお山のことが国中に広まり、あっちでもこっちでもおらが富士山だといって、利尻富士とか薩摩富士、豊後富士とか讃岐富士、伯耆富士に、近江富士、まだまだ尾張富士、というのもある。

 こうして、日本中に富士山という名前のお山が決められた、ということです。

 美濃の半布里に住む蛙たちも、「おれ達も富士山が欲しい」といって、形の美しい山を探していました。

 半布里から見ると、西と東に形のいいお山がありました。

ある蛙は東に見える岩肌のお山を富士山にしよう、また他の蛙は西に見えるお山が形がよくて

富士山だ、といって聞きません。

 駿河の富士山は東西南北どちらから見ても同じ形をしていてとても美しいということだ。

半布里の蛙たちはどちらの山がそれに近いか、まずは富士山をみに行こう、となったが、駿河は遠くて行くことが出来ませんでした。
 そこで、蛙達は、さっそく代表の蛙に西の山と東の山を見に行かせることにしました。

そして長い旅のすえ、帰ってきた蛙はどちらも元気がなかった.

四方から見て、形が同じではなく、裾野も広くはなかった。両方とも「富士」ではなかった。と説明しました。

それでも、富士山が欲しい蛙がいい出しました。

 近郷の蛙を迎えて相談し、「2つのうちどちらかに決めよう」・・・・と。

 東の山と西の山の丁度中間で、どちらの山も見える田んぼに集まることになりました。

東の山を見てきた蛙が言いました、伊深にある岩の山がいい、山裾に住んでいる蛙に聞いたところ、「岩でできているからどっしりしていている、この形は何万年も前から変わっていない」と言っていた・・・・と。

一方、西の山から帰った蛙は、大きな松の木に覆われて緑が美しい、赤土のお山で誰でも登れるやさしいやまだ。

こちらのやまがいいと主張しました。

集まった蛙達はどちらの意見を聞いても、すぐには決まりません。

まとまった意見は、山というものは、どっしりしていて動かないものがいい、「蛙達が沢山集まり、考えて決めた富士山だ」と、何万年も後々に伝わる伝説になるには、いつまでたっても形の変わらない東の岩山を「富士山」としよう。となったのです。

こうして半布里から見える富士山が決ったということです。

 蛙達が集まって決めた富士のお山は、今もこの地の名前をとって「伊深富士」といい、半布里の人たちに愛されています。

一方、西の山は赤土でできていたため長い間に少しずつ形が変わり、今では丁度すり鉢を伏せたような形に変わってしまい、その後、だれいうともなく、その形から「すり鉢山」といわれるようになった、ということです。

 半布の蛙が近郷の蛙達を迎えて相談した田んぼは、その後「迎田」といわれるようになりました。

                 おわり

 現在の富加町役場の北側一帯が「迎田」です。しかし、近年埋め立てが進み、蛙が住むような田の面影は見られなくなりました。