創作民話 |
猿飛び岩のお話 |
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ずーっと昔の話しである。美濃から飛騨に通じる道は幾つかあったが、加治田の宿から山並みを縫って飛騨に至る道が、狭いけれけれども最も難所が少ない街道として、利用する旅人も多かった。
濃尾平野の北端、加治田の宿を過ぎると急に岩山が迫り、街道と言ってもそこからは山道である。 そんな山道に入るとまもなく二、三戸の家があって、わずかばかりの田を耕して暮らす村があった、ここを「一反田」といった。
川浦川を挟んで一反田の前山は岩ばかりの山で、雨風をしのぐ小さな洞穴も沢山あって猿が住むには、とても住みやすい山だった。 そこに二匹の猿が住んでいた。母猿とこどもの猿で、広い岩山を駆け回り元気に暮らしていた。 |
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美濃地方のこのあたりでは、昔から100年位に一度大洪水が起こり、田畑が流れたり、山が崩れるといった大被害が出ることがあると言い伝えられていて、住民は恐れていた。 その日も朝から曇っていたが、母猿は食べ物を集めようと、いつものように、川浦川に倒れかかった倒木の橋を渡って向かいの一反田の山へ出かけていった。 一反田の山は日当りも良く栗や木の芽など、食べ物が豊富にあり、子猿を残したまま食べ物を探しに行くことが多かった。 |
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昼過ぎから、空が真っ黒な雲に覆われたかと思うと、風も強くなり嵐になってしまった。降りしきる雨は、尋常ではなく、川の水も急激に増していた。村の人たちが恐れている大洪水の兆しである。母猿は木の実を拾うと急いで子猿の待つ岩山に帰ろうとしたが、既に川浦川は洪水となっていて、いつも渡っていた倒木の橋は洪水に押されてぐらぐらと揺れていた。 子猿の待つ向こう岸にどうしても渡らなければならない。母猿は毎日のように使っていたので慣れていた。
少しの揺れくらいで落ちるものか。いま行かないと洪水はますますひどくなる。 母猿は意を決して、倒木の橋を渡り始めた。 丁度その時である、まれに見る大水で倒木の根元が水に洗われていて、岸から離れてしまったのである。 |
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さあ大変。
この様子を見ていた子猿は、いたたまれなくなり母猿を呼びながら斜面の岩を飛び越え、飛び越え川下に追っかけたが、追いつかない。 しばらく追いかけたところで、川は岩山から大きく離れ蛇行していた。子猿は、とうとう流れていく母猿を見失ってしまった。
子猿は考えた、先回りして母猿を助けよう・・・・・と ところが、岩山はそこで切れていた。川は洪水になっている。向いの岩山までは10間(およそ18メートル)程もある。 思案している閑はない。 |
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その時子猿はとんでもない行動に出てしまった。「エイ」と掛け声を出したかと思うと、向山めがけて飛んだのである。
何と、子猿はここを飛び越えてしまった。普通だったら到底一飛びでは届かない距離であるが、母を思うばかりの行動が、こんなことまでなし得てしまった。
そして更に駈けていった。先回りで追いついたかに見えたが、岩山はそこでぐーんと高くそびえ、山はそこで終わっていた。この山には昔、天狗のが住んでいて、この一帯を天王と言った、川下に向かって大きく開け見晴らしは良かった。 |
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子猿はここで流れてくる母猿を見つけようと、雨の中、ひっしになって目をこらして待ったが、見つからない。 とうとうその日は暮れてしまった。そして次の日も、その次の日も子猿が岩山を飛び渡る姿があって、川下に向かって母猿を呼ぶ声が天王の山から聞こえていたが、それっきりで母猿は帰ってくることがなかった。
次の年の春、親子の猿が住んでいた付近一帯では、赤い山つつじが一斉に黄色の花をつけて、悲しみを表し、山は喪に付していたという。
今でも他の地方では見ることがない黄色い花を付けるつつじが、この山では毎年みることができ、天然記念物になっている。
また、その川に住んでいた赤い魚が、それ以降黒い喪服の色になつて、今も住み続けており、毎年雨が多い梅雨の時期になると、亡くなった猿の母さんを偲びたくさんの蛍が出て、明るく照らしているという。 |
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子猿が飛び越えたという岩山は、「猿飛び」と名づけられ、最近では近くに石の観音様と、お堂もできて、人の往来も多くなっている。 終り。 |
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参考事項
この地域でしか見られない、黄色いつつじ「ヒカゲツヅジ」は猿飛び付近で手厚く保護されています。
また黒い魚「ネコギギ」(クロダス)は伊勢湾に流れ込む川にしか生息しない、珍しい魚で生息数が少なく、これも国の天然記念物として保護されていて、この地域にも生息している。
そして、近年蛍の生息地は少なくなってきていますが、この地の川浦川では、麦秋のころになると、多くの蛍が見られることから、幻想的な光を一目見ようと、遠くは名古屋方面からも見物者が多い蛍の里になっています。
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