付録 龍福寺の雲版のこと
龍福寺には岐阜県指定の重要文化財である雲版が宝物として保存されているが、この雲版は奈良県の明日香村の近くで約600年前に作られた刻銘があるものの、なぜ今、龍福寺にあるのか記録が無くて全く不明であるということです。 昭和53年9月、佐藤紀伊守400年遠忌を記念して龍福寺から発行された「龍福寺史」から雲版の詳細を見ます。 |
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県指定重要文化財 工芸 雲版 一面 青銅製雲形 たて 55センチメートル 幅 50センチメートル 厚さ 縁 1センチメートル 重さ 10キログラム 刻印銘 藏春禅庵 大和國高市郡越智比丘 嘉吉3年(1443)12月日 景就 |
「龍福寺史」の記述から・・・・・・
雲版は、寺院で合図に打ち鳴らす楽器である。
その形が社寺建築の妻に見られる懸魚に似て、わだかまった雲の形をしているので、このように名付けられた。
板状をしており、中央下方に鐘座がある。禅宗寺院の庫裏や斉堂に懸け、衆僧に食事の合図のために打ち鳴らすので斉板ともいう。
鎌倉時代に中国から伝わったものである。
懸垂のため穴が上部に一箇所開いている。多年煙の通う場所にあったため、煤が固く付着している。
この雲版は銘文のように嘉吉3年に蔵春庵用に景就という工人が造ったものであるが、何時どのようにして当寺に移ったものか、記録がない。
現在、奈良県高市郡高取町(明日香村の隣)に黄檗宗の光雲寺という寺があるが、中世この寺の塔頭に藏春禅庵というのがあったことが、関市の中村実堂氏の調査で判っている。
現在、当寺ではこれを庫裏に懸け、行事の時の食事の合図に打ち鳴らすが、音色が良くて、300メートルほど隔った下の町まで聞こえるという。
奈良県高市郡高取町越智24 光雲禅寺 住職 関 俊道氏 近鉄飛鳥駅から西へ徒歩20分ほどのところに光雲寺はありました。 関住職にこの寺の歴史など、いろいろ聞いてみますと・・・・・・・・・・ 室町時代奈良盆地には、山崎の合戦で、「洞ヶ峠を決めた」ことで有名な筒井順慶と越智氏の2大勢力があった。 越智と言うところは、この越智氏発祥の地で本拠があったのが越智丘陵である。越智の一角に南北朝時代初期の貞和2年(1346)越智伊豫入道宗林が自らの菩提所として禅宗の一寺院を建立して、興雲寺と名付けたことが「越智家古老傅覚」に記載されていて、室町初期文安3年(1446)に至り京都大徳寺の義天玄紹和尚が来て復興開基した。越智氏はその後長らく戦乱の間にあり、天正年間に一族没落して以来は、「浄土宗の僧守戸一烟護之」とあるように、宗派も変わり、衰頽荒凉のまま100年あまりの間、辛くも命脈を保つと言う有様でした。その後、更に100年を経て、天和年中(1681頃)黄檗宗祖隠元禅師の法孫京都西山淨住寺の鉄牛和尚が赴任して、再興することとなり、黄檗宗に改まり、寺名”興”の字を”光”に改め、以後法灯が続けらている。 |
光雲寺山門 光雲寺本堂 ↓ |
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光雲寺境内の山際には越智氏歴代の墓所もあって奈良では有名な寺院である。 このように、寺の歴史はかなりはっきりしていますが、境内に「蔵春禅庵」という塔頭があった記録は無く、全く初めて聞くことであります・・・・・とのことであった。 |
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「蔵春禅庵」・「越智比丘」という刻銘の「雲版」がこの地から遠く美濃の国の龍福寺にあることも、初めて聞きました。 越智という地名は、ここから橿原市の北越智までありますから、もう少し範囲を広げて調査してみる必要があります・・・・・と。 ご説明いただいた関住職→ |
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光雲寺にも「雲版」がありますが、記名はこの寺の銘ではなく、おさと・さわいちで有名な壺阪寺に近い、高取藩主植村家の菩提寺で天台宗の名刹「真各山 宗泉寺」のものです。 雲版には、宗泉寺の刻銘がある→ |
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門前の一本杉 門前には、貞和2年(1346)越智伊豫入道宗林が自らの菩提所として禅宗の一寺院を建立して爾来600年にわたる星霜を見守って、昔から近隣の人々の信仰を集め、樹齢1000年になろうとする神木がある。 この杉の木、根元にあった「瑠璃の井戸」とともに幾多の伝説を有し、天正年間織田信長の命を受けた筒井順慶に攻められた島屋陣羽守の息子二人が、追っ手を逃れこの杉の木に登り難を逃れた。そのとき二人の息子が42歳と25歳の厄年であったことから、厄除けの杉と呼ばれ、明日香の岡寺(西国霊場7番の札所)の星祭には、この杉の枝が厄払いの行事に使われ今日に至っている。 また光雲寺では、毎年2月11日、薬師堂において厄除けの法要を厳修している。とのことである。 |
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龍福寺の雲版の故郷を訪ねて、いろいろ調査してきました。