cliche



チュン、チュン、チチチチ……。
使い古された定例句のような朝の光景。
鳥の囀りに薄く瞼を開けた先で、目を覆いたくなる程の眩い朝日がぎらぎらと輝いている。
何の変哲もない、逆に些か平凡すぎる気のあるそんな光景が今はとても煩わしく、ジャックはげんなりしながら直射日光から逃れるべく手を翳した。
朝の爽快な覚醒の為には朝日を浴びるのが良いと聞いたことがあるが、きっとそれを言った奴は運が良かっただけに違いない。
どこが爽やかな目覚めだ。無理矢理叩き起されたような不快感と、倦怠感にジャックは整った顔を盛大に顰めた。
ポッポタイムに住まいを移して久しいが、朝日が射し込んで目が覚めたなんて初めてだなとぼんやり思い浮かべる。
宛てがわれたジャックの部屋は日の出とは逆の西に向いているので、昼を過ぎなければ窓から陽が射すこともない。
いつもより寝すぎてしまったのか、少なくとも正午はとっくに過ぎているであろう。
あぁ、またクロウにどやされるのだろうなと思い浮かべただけで辟易する。こうしている次の瞬間にも「いつまで寝ていやがる!」などとクロウの怒鳴り声が聞こえてくる気さえした。
明るい窓の外からは依然、チュンチュンと雀の囀りが聞こえている。
その鳴き声にさえ起床を急かされているように感じジャックは溜息をもらしながら、不意にぴたりと動きを止めた。
……雀、だと?
正午過ぎなのに雀の鳴き声が聞こえるのか?
そもそも、雀の鳴き声が聞こえるのに何故西に面したジャックの自室に光が射し込むのか。
何かがいつもと違う。
そう理解するや否や、ジャックはバサリと音を立てて毛布を剥いでいた。
よく考えればこんなふかふかで、いかにも質の良さそうな毛布になど全く見覚えが無い!
飛び起きて部屋を見渡す。
「……ここは…」
見慣れない壁紙に、自分のものではない家具や調度品。
誰の部屋かと考える以前にそもそもここがどこかも見当がつかず、血の気が引くように一気に目が醒めて己の体に目をやれば状況は更に悲惨なものであった。
かろうじて服は身に着けていたが、それこそただ単に“身につけているだけ”でシャツのボタンは胸元が不自然に大きく開いている有様だ。
見知らぬ部屋のベッドで衣服が肌蹴た状態で目覚めたということは…つまり、そういうことなのだろうか。
だらだらと背筋を冷たいものが伝っていく。
先程から感じていた倦怠感の理由がわかっても全く嬉しくない。
ここはどう見てもポッポタイムではない。ここがどこなのか思い出そうにも昨夜の記憶がやたら曖昧だ。
確認のためジャックのすぐ隣、丁度人一人が横たわれるだけの空きスペースに手の平を当ててみれば、そこにはほんのりと人肌の温もりが残っていた。
血の気が引いていくとはまさにこういう状態のことを言うのだろう。
「これは…どういうことなのだ、オレは一体…」
寝乱れてはいるもののベッドの上には真っ白いシンプルなカバーのかけられた枕が一つ。
見知らぬ部屋の住人がジャック一人なはずもなく、部屋の簡素なインテリアからして相手は男であろうと想像は容易い。
まさかとは思うが、自分は見ず知らずの男と寝てしまったのだろうか。
藁にも縋る思いでジャックは昨夜の記憶を探り始めた。
確か、昨日の夜は少し風に当たってこようと一人でハイウェイに向かったはずだ。
人通りも疎らな夜のハイウェイでこの部屋の主と出会っているはずなのだが、あの時姿が見えたのは……。
その時ガチャリとドアノブが動いた。
「……あ、目が覚めた?」
ドアの向こうから現れた風馬の姿に咄嗟に声が上擦る。
「か、風馬…!?」
「おはよう、ジャック」
見慣れた人の好い笑みを眺めているうち、徐々に記憶が鮮明になっていく。
そうだオレは昨日、ハイウェイを走っていて偶然、夜間パトロールをしていた風馬のDホイールが目に入ったのだ。
程なく風馬もジャックに気づいたようで、二人して路肩に停車して話し込んだ後、仕事終わりだと言う風馬の家へ招かれたのだった。
特に予定があるわけでも無く、風馬の好意を無下に断る理由もない。
風馬の作った料理を食べ終わると、風馬が冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して来た。
それから、明日は非番なんだ。と誘われるままに酒を飲んで……。
風馬の顔を見たことで何とかそこまでは思い出し、これで風馬の家で目が覚めた理由はわかった。
しかし、本当に重要なのはその先だ!
自分自身を叱咤し、必死に昨夜の記憶を手繰り寄せようとするも、何故か昨晩の記憶が全く蘇ってこない。
そんなジャックを余所に風馬はにこりとジャックを覗き込んだ。
「朝飯出来てるぜ?一緒に食べよう」
普段通りの爽やかな笑顔が今は眩しすぎて直視できない。
「そ、その前に…っ!」
みっともなく赤面してしまったのを誤魔化すようにジャックは声を荒げた。
「一つ聞きたいことがある!」
悲鳴にも似たジャックの声に風馬はただ純粋に驚いているようだった。
それも当然だろう。風馬は今ジャックを朝食に誘いに来ただけなのである。
ところが風馬から返ってきたのはジャックの予想だにしない反応だった。
「……もしかして、立てない?」
「ッ!?」
「な」とも「え」ともつかない音がジャックの口をついていた。
思い当たる節が全く無いわけではないが、立てないと言う大げさなことではなく、ただ何となく身体が痛いと言うか…。
…具体的に言うと腰の辺りが痛むというのは否定出来ないというだけで。
そんなジャックの葛藤を知ってか知らずか、風馬はベッドの端に腰掛けると少しばかり顔を曇らせた。
「実はジャックに謝ろうと思ってたんだ」
唐突な謝罪にジャックはただ驚いた。
風馬とはそれなりの付き合いだが、風馬の性格を考えれば他人に迷惑をかけるような人間であるはずがない。
百歩譲って逆の立場なら有り得るとしても、風馬から謝りたいと言われる覚えが全くなかったからだ。
「な、何をだ…?」
「…昨日のこと。今考えると俺がジャックに無理強いしたみたいで…」
無理強い、という単語を聞いてジャックは息を呑んだ。
ジャックは風馬よりも年下だったが、体格的には風馬に引けをとるほど華奢ではないと思っている。
と言うことはそんなジャック相手でさえ、風馬に“無理を強いているのでは”と感じさせる程のことがあったというのだろうか。
しかしそれをあえて自分の口から問うのも、その答えを風馬の口から聞くというのも恥ずかしくて耐えがたいことは火を見るよりも明らかで。
だからなのか、風馬の方も直接的な表現を避けているように見える。
もしかすると本当に、オレは風馬と寝てしまったのか……?
「ではやはり…オレはお前と…」
ぽつりと口に出すと急に現実味が増していく。
酒が入っていたせいだろうか、昨夜のことだけ記憶からぽっかりと抜け落ちてしまったかのように全く覚えていない。
見てもいない己の醜態が目に浮かぶようでジャックは恥ずかしさのあまり昨夜の自分を蹴り倒しに行きたいとさえ思った。実際行けるものなら真っ先に向かっているだろう。
今この瞬間にもすまなかったと誠意を見せる風馬に自分は一体どんな醜態を晒したのかと考えるだけで今直ぐにでも走りだして風馬の前から消えてしまいたい衝動に駆られる。
一人で青くなったり赤くなったりするジャックの隣で風馬の言葉は続いた。
「ジャックと少しでも長く一緒にいたくて、休みを理由にジャックを引き止めたんだ。…すまない」
「風馬…」
風馬を責める気などさらさら無かった。
例え覚えていなくとも、それはきっと風馬とならそういう関係になっても良いと、他でもない自分自身が決断したことなのだ。
「…オレは恐らく、…嫌では無かった」
「え…」
「…だから、嫌ではなかったと言っているのだ!」
「ジャック…」
風馬の嬉しそうにはにかむ顔を見て、ジャックまでもどこかむず痒いような、くすぐったさを感じてしまう。
顔を見合わせた風馬がくすりと微苦笑を浮かべたのにつられて思わずジャックも笑みをこぼす。
お互いに気恥ずかしさを感じながらも、まるで肩の荷が下りたかのように気持ちが軽くなっていた。
「……なぁ、ジャック」
「何だ?」
「…正直に言うと、ジャックが初めてだって言うから、少し緊張してたんだ」
「…っ!?」
折角良い雰囲気だったのに風馬の爆弾発言で再びジャックは絶句する羽目になった。
それは兎も角として、オレはそんなことまで風馬に暴露してしまったのか!?
口をぱくぱくと開閉しながらジャックはふるふると肩を震わせる。最早言うまでも無く、羞恥と己自身に対する怒りから来るものだ。
一体昨日のオレはどこへ消え失せてしまったのだ!今すぐに出てこい!
「でもまさかジャックが途中で寝ちゃうとは思わなくて、こんなこと言うと怒られそうだけど、あの時はジャックが年相応に見えて可愛…──」
「も、もういい!それ以上喋るな!」
「…?」
出来ることならこのままサレンダーしてしまいたい衝動に駆られる。それでなくてももうオレのライフは風前の灯だ。
これ以上風馬の口から自分の醜態について聞かされては、この二人きりの狭い空間でどんな顔をして風馬を見ればいいのかわからなくなる。
こんな時、気心の知れた遊星やクロウならジャックの気持ちを汲んで何も言わずに部屋から出て行くなり距離を取ってくれるのだが。
顔を背けても尚覗き込んでくる風馬はジャックのそんな逃げを許してはくれない。
これが年上の余裕というやつなのだろうか。
「すまない。…少し、調子に乗り過ぎた」
風馬が身を寄せて来ると、心臓が早鐘のように響いた。
なんだこの反応は……!生娘でもあるまいに、今更何を恥ずかしがることがあるのだろう。
頭では理解出来ていてもどうしても身体が言うことをきかない。それがさらにジャックの羞恥を煽っていく。
ジャック。と呼びかけられているのにどうしても目を合わせることができず、肩を抱かれてようやく、上擦りながらも声を絞り出すことに成功した。
「か、風馬…ッ」
「うん…?」
「…お前と一緒にいるのは…悪くない」
「ジャック…!」
「オレとお前の仲だ。今更、詫びも遠慮も不要だ」
「…なら、またジャックを誘っても良いかな?」
「!」
──それは、つまり、そういうことだと解釈して良いのだろうか?
風馬が爽やかさを絵に描いたような人間だとはわかっていたが、こんなにさらりと自然に誘われるとは思いもしなかったオレに心の準備など出来ているはずもない。
「…お、お前…っ」
「だけど、辛かったら言ってくれ。こういうのはお互い楽しくないと駄目だ。慣れないうちは仕方が無いし、ジャックに無理して飲んでほしいわけじゃないんだ」
「あぁわかっ……え…?」
……飲む…?な、何をだ?
まさかとは思うが……あれのことなのか?
向けられた風馬の爽やかな笑顔と聞こえた言葉とのギャップに、ジャックの思考は混乱した。
どんなに考えても風馬の言動とは思えなくて、それに何となくだが、さっきから微妙に話が噛み合っていない気がする。
「…な、なんのことだ?」
「何って…どうしたんだ?」
訝しがるジャックに風馬もまたきょとんと、ただ純粋に不思議なのだと言わんばかりに顔を見合わせた。
ちょっと待て…これはやはり何かがおかしい。
そう感じたジャックはさっきまでまともに見れなかったはずの風馬の顔を真正面から凝視した。
「…風馬、今何の話をしている?」
「え、何のって言われても…」
「良いから話せ!」
「えっと…ビール?チューハイ?…とりあえず…昨日の酒のことだよな?」
「は……?」
「え?」
沈黙、そして静寂。
無言の空間にただ雀の鳴く音だけがちゅんちゅんと響いた。
やがて聞きづらそうに風馬が口を開く。
「ジャック…やっぱり昨日飲み過ぎて記憶が飛んでる?」
「…ま、待て。オレは昨日、風馬と…酒を…?」
「あぁ。ジャック成人したけど酒飲むの初めてだって言うから、俺今日非番だったし…って誘ったんだけど、やっぱり覚えてないのか」
「……」
確かに酒は飲んだ。酒を飲んだ記憶自体もかなり曖昧だが、記憶がないということは裏を返せばそういうことなのだろうか。
ということは風馬とはジャックが考えていたようなやましいことは何もなかったわけで、ただ友人として酒を飲んだだけで…。
それをオレは勝手に早合点して、風馬とそういう関係になったものとばかり思って一人で慌てて…。
「ジャック?」
「あ、あぁ!そ、そうだったな!……じ、じゃあオレはこれで…」
必死に誤魔化そうと試みながら、一刻も早くこの場から消えたい一心で立ち上がった瞬間、ぐらりと大きく視界が揺れた。
「……ッ」
ふらりと倒れかかったジャックを風馬の力強い腕が抱き留める。
「っと…大丈夫か?二日酔いかもしれないし、もう少しゆっくりして行けよ」
「…だが…」
これ以上恥の上塗りのような事態だけは避けたくて断るものの、対する風馬はそんなことは関係ないと真剣な表情を崩さない。
「駄目だ。帰るにしても、そんな状態じゃ一人でWOFに乗せるわけにはいかない」
ジャックは風馬にこういうもの言いをされると何故か弱いらしく、ぴしゃりと風馬に諌められるともうそれ以上反論の余地がない。
「わかった…」
大人しくベッドに戻ったジャックの頭を風馬が優しく撫でた。その手は、まるで親が子にするような手つきでジャックの髪に触れる。
「ちょっと待っててくれ。今水持ってくるから」
「すまん」
風馬の背中がドアの向こうへ消えたのを見送り、ジャックは思わず顔面を手で覆った。
ドクドクと心臓が跳ねている。自分以外にも聞こえてしまいそうな程騒がしいその鼓動は当の本人以上に正直だ。
風馬はただの友人だと、頭では理解している。少なくとも昨日までのジャックにはそれ以上の感情など全く無かったはずだ。
それなのに、勘違いと分かった今も、妙に意識してしまう。
友人である風馬と、それ以上の関係に……。
そこまで考えてジャックは愕然とした。これではまるで…オレが風馬を……。
「ジャック、お待たせ」
呼び声に顔を上げると、風馬がコップを持って戻って来たところだった。
「大丈夫か?」
「あ…いや……なんでもない。水、すまんな」
「どういたしまして」
冷たいコップを受け取ると、風馬は至極当然のようにジャックの隣に腰を下ろした。
これまでずっと年下ばかりを相手にしていたせいか、年上相手にリードを得るのは難しい。
特に苦手とするのが風馬やゴドウィンのようなどこか掴み所の無い人間で、勢いに任せると上手く躱され、言い淀むと上手く丸め込まれてしまうのだ。
「なあジャック」
「……なんだ」
これ以上墓穴を掘るわけにもいかずそっけなく答えると、ジャックの不機嫌そうな声に風馬は小さく苦笑を漏らした。
「さっきのことだけど、何だと思って話してたんだ?」
一見いつもと何ら変わらぬ優しげな笑みを浮かべているように見えるが、その表情はどこか悪戯っぽく楽しげな色を滲ませている。
風馬はよく気がつく男だ。口にしないだけで、もう凡その見当がついていることだって有り得ることだ。
そう考えれば考える程、何となく手玉に取られている気がして、面白くない。
半ば自棄になって「秘密だ」と突っぱねたジャックを見ても、風馬は相変わらずにこやかに笑みを浮かべたまま「それは残念だな」と笑っていた。




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cliche(クリシェ)とは仏語で『使い古された、定例句、フレーズ、お決まりの、王道の』という意味らしいです。
記憶が無くてまさか風馬と寝ちゃったのか!?とあわあわするジャックと、純粋に酒の話してる風馬とのちぐはぐな会話が書きたかったのです。
面影がサレンダーしました。私もサレンダーしたい_| ̄|○