年下の彼



大学進学のため親元を離れて暮らしていたジャックは何年ぶりとも知れない生まれ育った土地に降り立って、すっかり様変わりしながらもどこか面影を残した風景を眺めながらふと昔のことを思い出していた。
ジャックには小さな頃よく一緒に遊んでいた遊星という名の幼馴染がいた。
年は6つ程離れており弟のように可愛がっていたのを覚えている。
家が近所だったということもあったが、何よりお互いの父親の職場が一緒ということもあって、家族ぐるみの交流が盛んだったのが大きな要因だ。
そう言えばジャックが地元を離れたこの4年間。
会うことはもちろん電話で話すことすら無かったジャックも、遊星の噂については父からよく聞かされていた。どうやら元気にやっているらしい。
駅を出て真っ直ぐ懐かしい通りを歩く。
見覚えのある店や昔はこの辺りで見かけなかったチェーン店など、懐かしい中にもどこか目新しさを感じながら歩いていると、見覚えのある建物が見えてきた。
「相変わらずというか……変わり映えせんな」
懐かしの母校の校舎が視界に入り、思わず呟く。
それもそうだ。人間と違い建物は4年の月日程度でそうそう変わることはない。
母校を通り過ぎ、昔は通学路として何度も通った自宅への道を歩いて行く。
当時は自転車で通っていたためだろうか、徒歩で帰るとこんなに長い道程だったかと妙な感慨を覚えながら歩いていると、前方の緩やかな坂道から自転車が下って来た。
16になれば免許は取得出来るが、高校にバイク通学が出来るかと言うのはまた別の問題である。
実際にジャックの通っていた高校はバイク通学禁止であったため、移動手段は手軽な自転車が主流であった。
しかし何かと時間の欲しい高校生にとって自転車というのは便利な乗り物だったことに違いはない。
幸いにもこの辺りは急な傾斜の少ない比較的なだらかな土地なので、まさにお誂え向きというわけである。
自転車がジャックの横を走り去る。
黒髪の高校生がちらりとこちらを見たような気がして、直後、背後でブレーキ音が悲鳴を上げた。
何事かと振り返ったジャックの目線の先で、先ほど横を通り過ぎた自転車の少年が驚いたようにこちらを見ていた。
顔を確認すると言うよりガン見に近い視線にジャックは動揺した。
普段から目立つ容姿をしているジャックは他人よりも人目を引きやすいことは自覚していたが、ここまで無遠慮に顔を眺められたことはそうそう無い。
ほんの数秒の沈黙がそれ以上にも感じる。
よくもまあ他人の顔をここまで無表情で見続けられるものだと妙に感心しながら、ジャックはふと少年の黒髪に金色のラインが混じっていることに気が付いた。
それだけじゃない。釘でも打ち付けられたかのように真っ直ぐ、じっとこちらを見つめる青い瞳の深さに、どこか見覚えがあるような気がしたのだ。
お互いに一言も言葉を交わさず見つめ合っていると、不意に少年が口を開く。
「……ジャック?」
自分の名を呼ぶその声に、思い当たる節は無かった。
ジャックほどの低音ではなく、しかし深いところで響く心地の良い声。
それでいて少年の真摯さが伝わってくるような、頭の中にじんと来る声音だった。
昔これと似た感じの声で呼ばれたことがあったように思う。
もっと高く、変声期の少年特有の不安定さのそれを聞かなくなってどれほど経ったのだろうか。
まさか…。
半ば信じ難い思いで、記憶の奥底を探る。
長い間埋もれてしまっていたそれをついに探し当てた時、ジャックは息を呑んだ。
「……遊星、なのか?」
「ジャック。忘れてしまったのか?」
自転車を押しながら引き返して来たその人物を、ジャックは懐かしいような、それでもどこか別人を見るかのように眺めた。
「いや、覚えているぞ遊星。ただオレがここを離れた時お前はまだ小学生だったからな」
小さな頃から遊星は特徴的な髪型をしていた。一見寝癖のようにも見えるその強烈なインパクトに、ジャックは見間違えるはずなど無いと思っていたのだが。
改めて向き合った彼は、自分と6つも年が離れているとは言っても成長期の賜物であろう。
小柄で可愛かった遊星はもうジャックと頭一つ分しか違わない程大きく成長を遂げていた。
子供から青年に近づくにつれ、幼かった顔もなかなか精悍な顔立ちになり、彼の父親の面影を色濃く受け継いでいるのが良くわかる。
「驚いたな…。いつこっちに帰って来ていたんだ?」
「今戻ってきたばかりだ。オレだって、まさかこんな所でお前に会えるとは思っていなかったぞ」
積もる話はあったのだが、ひとつだけ気がかりでジャックは腕時計と遊星の顔を交互に眺めた。
「それはそうとお前、何か用事があるのではなかったのか?」
随分急いでいたようだからまた後で…と言いかけたジャックを遊星が制する。
暇な友達同士で適当に遊ぶ約束をしていただけらしく、ジャックの方が大事だから断りを入れると言ってごり押しされた。
そんなわけで。
つい先程遊星が勢い良く駆け下りてきた緩い坂道をジャックは徒歩、遊星は自転車を押してジャックの横を歩きながら再び登り始めていた。
暫くはカラカラという自転車の音を聞いているだけのジャックだったが、ぎこちない空気に耐え切れなくなったのだろう。思い切って、隣を歩いている遊星に声をかけてみた。
「元気そうだな。見違えたぞ」
その言葉に安心したように、遊星も顔を綻ばせる。
「ジャックは相変わらず綺麗だな。背もまだだいぶ高くて…まだ追いつけそうにない」
「当然だ。お前に追い抜かれるようなオレではないからな」
不思議なことに、一度堰を切ってしまうと次から次へと言葉が溢れてきた。
こうして昔のように他愛のない話をしていると、あの頃の記憶が鮮明に蘇って来る気がする。
2人の間に空白の数年間などまるで無かったかのように、遊星は真っ直ぐにジャックに話しかけてくれた。
ジャックは初めての友達が今も変わらず側にいてくれることに、他の何ものにも代え難い喜びを感じていた。
「ジャック、懐かしいな」
「あぁ。そう言えば久しぶりだ。オレは暫くこっちで暮らすから、よろしくな。遊星」
暫く…という言葉に、遊星が驚いたように目を見開く。
「本当か、また一緒にいられるんだな?」
久しぶりに再会した遊星に随分と寡黙になった印象を受けたジャックだったが、ここに来て考えを改めた。
彼の実直で素直な性分は昔と何一つ変わってはいない。都会暮らしに少し疲れていたジャックには、それがとてつもなく尊いもののように思えてならなかった。
「…嬉しい、ジャック」
「っ!!…な、なんだ!その程度のことではしゃぎおって、恥ずかしい奴だなあお前は!……ま、まぁお前の気持ちもわからんではないが…」
遊星のストレートな言葉が少し照れ臭かったのだろう。うっすらと耳を赤くしたジャックをこっそり横目で見ていた遊星の足が、自転車が、ピタリと歩みを止めた。
「どうした遊星?」
足を止めた遊星に気づいたジャックが振り返るのと、俯いていた遊星が、バッと顔を上げてジャックを射抜くのはほぼ同時であった。
「ジャック、付き合って欲しい」
「は……?」
ジャックは思わず手に持っていたボストンバッグを落とした。
ドサ…と、革製のバッグがアスファルトの海に沈んだ音がする。
落としたバッグを拾うことも忘れ、ジャックは唖然とした。
遊星は自分だけが何事もなかったかのように、相も変わらず平然と真っ直ぐな目を向けている。
冷静すぎる遊星を前に、ジャックは漸く我に返った。
何だ今のは、夢か?気のせいか?
あまりにも遊星の様子がいつも通りなので、ジャックは不安に駆られた。
付き合ってくれ、と言われたものだからてっきり告白か何かだと思ったのだが、もしかするとジャックが勝手に早合点して焦っているだけで、遊星は違うことを言ったつもりだったのかもしれない。
そう言えば昨夜は寝付けずついつい夜更かしをしてしまったのだった。
長旅の疲れが出て、先程の遊星の言葉を少し聞き逃していたかもしれない。
そうだ、きっと主語を聞き逃したんだ。
勉強に付き合えだとか、買い物に付き合えだとか。そういう文章だったに違いない。
「遊星、すまん。聞いていなかったようだ。…何と言った?」
「俺と付き合ってくれ、ジャック」
「…………」
残念ながら今度は聞こえなかったわけではない。
主語は聞こえた。「俺と」と、確かに遊星は言った。
だが、的確な答えが見つからなかったのだ。それと同時に、見つけてたまるものかとも思う。
不幸なことに、ジャックが想像してた勉強や買い物らしい単語は欠片すら見つからなかった。
字数にするととても短い簡潔な用件である。しかしそれの含む意味は果てしなく難解で、複雑極まりない。
「遊星。分かっているとは思うが…オレは男だぞ」
「そんなことは知っている。いつから一緒にいると思ってるんだ」
恐る恐るといった様子で訪ねたジャックの目論見は見事に玉砕し、逆に遊星から訝しげな目を向けられてしまった。
言っている意味がわからない。とでも言いたげな表情で遊星はジャックを見上げている。
正直言ってオレにもわからない。どういうことなのか誰か説明してくれ。
「ジャックが好きなんだ」
話があらぬ方向へ向かおうとしている空気を感じ、ジャックは頭を抱えたくなった。
しかも、目の前の少年はすっかり忘れているかもしれないが、よく思い出してみて欲しい。
ここはジャックの母校の近く、そして恐らく今現在遊星が通っている学校の近所である。
ジャックはともかく、遊星に至ってはいつ知り合いが通りかかるとも限らない。
周囲からの妙な視線を感じる前に、早めに切り上げてしまうべきだろう。
「遊星…お前の気持ちは嬉しいが……とりあえず帰ってから話さないか?」
「何故だ」
何故ってお前……。
ジャックは段々と頭が痛くなって来るのを感じた。
このまま意識を失ってしまえたらどんなに楽だろうか。
しかし生憎とジャックはそんなデリケートな作りをしていなかったので、仕方なく自分の頑丈さを恨んだ。
痛みのために思わず顔を顰めたくらいは許して欲しいとジャックは思う。
「ここでは話し難いだろう。…まさかとは思うが、日が暮れるまでここで駄弁っているつもりではないだろうな」
遊星はちらりと腕時計を一瞥し、「わかった」とだけ呟いた。
素直に従ってくれて良かった。
家に近づいたらあれこれと理由をつけて遊星を帰してしまえば良い。
遊星には悪いが、この話は聞かなかったことにしておこう。
気のない態度で接していれば、聡い遊星ならばきっとジャックの言わんとしていることを察してくれるに違い無い。
恐らく遊星は今とても多感な時期で、色々なことに興味を持ってしまうお年頃なのだ。
ジャックにも覚えが無いわけではない。
…無論、こういう方向に興味を持っていたわけでは断じて無いのだが。
一時の気の迷いとでも言うのだろうか。幼い頃の友情を、ふとした拍子に恋愛感情だと勘違いしてしまったのかもしれない。
昔は弟同然に可愛がっていた遊星だ。今だってそれは変わっていない。
だからこそオレが目を覚まさせてやらねばと、ジャックは妙な使命感に燃えてしまっていた。

それから自宅の近所に来るまでの凡そ十数分もの間、ジャックと遊星は一言も言葉を交わさなかった。
最初に話し難いと断ったせいか、遊星は気を遣ってくれているようだった。
少し可哀想な気もしたが、ジャックにとっては好都合である。
この流れで遊星と別れてしまえばもし今度顔を合わせたとしても、話を切り出すタイミングは失われているはずだ。
打開策を見つけたジャックは、ここで少し喉の渇きを覚えた。
ふと目の前を見ると団地の分かれ道に自販機が見える。この分かれ道の先がジャックと、そして遊星の実家だった。
「遊星、飲み物を買っても良いか?」
「あぁ」
一応遊星にも勧めてみたが、喉は渇いていないらしい。
ガコン…と、自販機内部から取り出し口へ向けて、缶コーヒーが転がり落ちてくる。ジャックは身を屈めてそれを手に取った。
「待たせたな」
「いや……。行こうか」
遊星がジャックの前を歩く。
左右の分かれ道はどちらへ行っても、最終的にはジャックと遊星の家の通りへ繋がっている。
遊星の背中を眺めながら、ジャックは缶コーヒーのプルトップを開けて、中身を飲み下した。

ジャックが地元を離れたのは高校を卒業して大学へ入る時だった。
その時遊星は小学校を卒業したばかりで、ジャックの通っていた中学校への入学を控えていた。
もう何年も前のことだ。
成長期で大分身長が伸びたようで、昔の遊星と比べると受ける印象はかなり変化した。
実際声を掛けられてもすぐには思い出せなかった。
成長した遊星の姿は、男のジャックから見ても格好良いと思う。
昔と変わらない大きな瞳も、寡黙な遊星のイメージと合わせればむしろ印象が良い。
久しぶりに再会してそのあまりの口数の少なさに驚きはしたものの、遊星の本質は変わっていないように見えた。
それでもあまり己を語らない分、同年代からは知的に見られがちだろう。
事実、遊星の父と今でも交流のあるジャックの父から聞いた話では、遊星の成績はかなり良いらしかった。
実はかなりモテているのではないだろうか。
6つも年上の、しかも男である自分なんかと付き合うよりも同年代の女子生徒と健全な付き合いをする方が本人のために決まっているのだ。
もちろんそれはジャック自身のためでもあるのだが。
「…ジャック、さっきの話なんだが…」
先程買ったコーヒーを飲み干すと、遊星がくるりとジャックを振り返った。
考え事をしながらついつい遊星の背中ばかり見ていたジャックが我に返るも、ぼうっとしていた為いまいち状況が理解できていない。
何事かと辺りを見渡し、気がつくとすぐ目の前に遊星の家の玄関が迫っていた。
「な…っ」
ジャックは手に持っていた空き缶を取り落としそうな自分を辛うじて制す。
それくらい、衝撃的だった。
通りに面した家々が整然と立ち並ぶ中。
ジャックを嘲笑うかのように、ジャックが逃げ込む算段をしていた懐かしの我が家は在った。
口元に軽く笑みを浮かべる遊星の…その、遥か後方に。
「……ゆ…」
「俺の部屋で話さないか」
そう言って、小さくて可愛かった昔の面影を残した年下の彼は、オレの全く見たことのない獣のような目でオレを捉えた。




++++++++++

続…く……かどうかは気分次第。
あんなに可愛かったオレの遊星が!と嘆くジャック(笑)