おきつねさまとお兄さん

■第三夜『かみさま拾いました』




夢を見ている。
とても気持ちの良い夢だ。
しゃらん…。
小さな鈴の音が聞こえて、ふわりと甘い香りが鼻先を掠めゆく。
『…風馬…』
誰かに名前を呼ばれた。
しかし声を出すことが出来ず、引きつった音だけが喉を鳴らす。
甘い香りが薄れてゆく。
しゃらん…と遠ざかって行く音に、風馬は腕を伸ばした。
「待……っ…」
気がつくと、まだ陽の上りきらない薄明るい中で風馬の腕は天井に向かい虚しく空を掴んでいた。
夢と現の境界をふらふらしていたせいなのか、直前までの記憶が嫌に鮮明に脳裏に焼き付いている。
掴んだ掌の頼りない虚無感を確かめてあれは現実ではなかったのだと思い至った途端、風馬は安堵とほんの少しの喪失感に息を吐いた。
「なんだ…夢、か……」
昨夜の寝苦しさは嘘のように一変、ひんやりとした冷気が覆う窓の外からは小鳥の囀りが聞こえている。
少し冷たい早朝の空気は眠気覚ましに丁度良い。
早起きは三文の得と言うし、久しぶりに良い夢を見れたこともあって気分はすっきりとしていた。
それにしても肌寒い。
まだ梅雨明け前で夏には程遠いとは言え、子供のように腹を出して寝ていたわけでもないのに腰のあたりがスースしている。
何となく気になって腹部に手を伸ばしたところで、風馬は驚きのあまり飛び上がりそうになった。
「うわっ!!」
情けない叫び声を上げながら慌てて布団を引っ剥がす。
ズボンが…しかも下着ごと、元々あるべき位置から離れたところにまでずり落ちていたのだ。
たかだか数センチ違うだけで本来の機能から考えればそれはもう何の意味も成さない位置である。
「…な、なんで……??」
とりあえずズボンと下着を引っ張り上げて身を起こした風馬の視界を更に驚くべき光景が襲った。
「だ…誰?」
風馬と同じ布団で、見たこともない子供が背中を丸めて気持ち良さそうにすぅすぅと寝息を立てているのだ。
その子供は白い小袖に目の覚めるような緋袴を履いていた。
神社などで巫女が着ているような…まさしくあの出で立ちである。
どうすることも出来ず固まっていた風馬の気配に気づいたのか、子供が小さく寝返りを打った。
「ん……」
身じろぎと同時に、髪飾りの鈴がしゃらん…と小さな音を立てる。
鈴の音に呼応するかのように金色の睫毛がふるりと揺れた。
瞼の下から現れた宝石のように輝く大きな瞳に映っていたのは、その瞳を覗き込んでいた風馬自身の姿だった。
「……おお、起きたのだな風馬」
「え…、…なんで俺の名前を…」
動揺する風馬を余所にその子供は欠伸をしながら「ん〜っ」と背筋を伸ばすと、神秘的な色をした目を瞬かせながら風馬の顔を見上げた。
「なんでって……貴様昨日のことを覚えておらんのか」
「…昨日?」
子供らしからぬ口調のそれに問い掛けられたものの、身に覚えがない。
考え込む風馬を見て子供は「あぁ」と声を漏らした。
「そうか貴様寝ていたな。…まぁ良い。昨夜のこと、一応礼を言っておこう」
子供は一人で勝手に自己解決したようで風馬の思考はおいてけぼりだ。
ぺらぺらと良く喋る子供の剣幕に押され、ただ瞬きを繰り返す風馬に子供は突然人が変わったような妖艶な笑みを浮かべた。
「…しかし随分としてなかったのか、貴様のは思いの外濃くて美味かったぞ。あれではさぞや気持ち良かっただろう?…お陰でオレも少し力が戻ったが…まぁ、会話が出来るようになっただけでもよしとしてやる」
小さな口が満足げに弧を描く。だが風馬は瞬間背筋が凍りついた。
直接的な表現は何一つしていないが…もしかすると下半身の奇妙な状態は目の前の子供が関わっているのではないだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「なんだ今更。飲んでしまったものを返せと言われても今さら返せんぞ。疲労感はあるだろうが、貴様も気持ち良くしてやったではないか」
「飲んだ…!?」
年端も行かぬ子供が目の前で淡々と子供らしからぬ単語を連発する異様な状況に風馬は目眩を覚えた。
最悪だ、よく覚えていないがどうやら自分は無意識の内にこんないたいけな子供と関係を持ってしまったらしい。
どうしたわけか子供に主導権を握られていたような口ぶりだが、目の前にいる姿はとても成人とは思えない。ことに及んでしまった時点で完全にアウトである。
「俺はなんてことをしてしまったんだ…」
「反応の面白いやつだな。気に入ったぞ」
打ちひしがれる風馬の様子が珍しかったのか、金髪の子供はにたにたと性質の悪い…それでいて見かけによらぬ艶やかな笑みを浮かべている。
「そう言えば昨日社に来ていたな。何か願いがあるならオレが手を貸してやらんこともないぞ?」
「え?……社、…願い…?」
何のことだか思い当たらず、風馬は目の前で誇らしげにふんぞり返る子供を見下ろした。
昨日と言ったが俺は昨日こんな子供に会った覚えはない。
金髪に紫の瞳なんて目立つ風貌の知り合いがいたら直ぐに思い出しているはずだ。
だが先程の物言いからすると、向こうは風馬のことを知っているようだった。
罪悪感から無意識の内に視線を反らしていた子供の様子をちらりと窺う。
子供ながらもキラキラと金色に輝く美しい髪の毛。
整えたかのようにさらりと後ろに流された髪の流れの中でも一際目立つ大きな三角形の耳は、時折ぴくんと音を拾うかのように揺れている。
……み、耳!?
風馬は見間違いかと起き抜けの眼を擦った。
確かに耳だった。ぴんと立った三角のそれに見覚えがあると思い出していると、朱色と白色のよく見る巫女姿に身を包んだその背後にふさふさとした黄金色の大きな何かが楽しげに揺れていた。
それは、どう見ても狐の尻尾で。
振り返って見れば唯一室内に存在した風馬以外のものの姿はなく、昨日設えた寝床は藻抜けの殻である。
まさかと信じられない面持ちで風馬は口を開いた。
「……まさかとは思うけど、昨日の狐…?」
「狐ではない。稲荷だ!」
ふん!と腰に手をあて威張る姿はなんだか可愛らしい。
こんな時に不謹慎だろうが、風馬は少し和んでしまった。