ファイブ




小さい頃はお小遣いで赤いカーネーションを2〜3本買って、母にありがとうなんて言って渡し
ていたけど。

小学校も高学年になると、何だか照れくさくなっていつの間にかしなくなった。


それが今年の春に何となく、毎年贈ってくれるバレンタインチョコのお返しを母にした。

本条先生の花籠を作るのを見ていて、ふと花好きな母を思い出したからかもしれない。

白いリンドウの花籠に、キャンディーを添えて宅配便で送った。

手作りの花籠に母はひどく喜んでくれて、翌日すぐメールが来た。

離れていると、気恥ずかしさもその距離で薄らぐのか。

それとも去年父と離婚してひとりになった
母を、守らなければという意識が僕に出て来たのか。

いずれにしても素直に、感謝の気持ちを母に表せるようになった。



五月の第二日曜日は母の日。

今度は赤いカーネーションの花籠を母に贈ろう。

もちろん手作りで・・・。







新学期が始まり新しいクラスになるも、入学時からの持ち上がりはほとんど見知った顔ばかりなのですぐ馴染む。

達彦とは中等部の三年間は寮が同室で、高等部は三年間とも同じクラスになった。


「守〜」

その達彦が後ろの席から僕を呼ぶ。

六時限が終わり10分間の待機時間も過ぎたので、部屋に帰ろうとしていたところだった。

最終学年の今年は大学入試が控えている。三年生になると、みんな大学受験を視野に置いて勉強に取りくむ。

唯一遊びの時間だった放課後さえも、今までとは違って貴重な勉強時間となる。



「守について行ってもらえばいいからさ」

僕を呼びつけた達彦が、池田の肩を叩きながら言っている。その顔は何故か得意げだ。

「ちょっと、達ちゃん・・・。用件を言えよ」

得意げの達彦の顔と、これも何故かほっとしている池田の顔が少し引っかかったけれど。

どうせ
たいした事でもないと思い、気軽に聞いた。


―池田 正弘(いけだ まさひろ)―


池田とは中・高等部の六年間で初めて同じクラスになった。

達彦は中等部で二度同じクラスになっている。

中等部で達彦とルームメイトだった僕は、達彦を通じて池田とはまんざら知らない仲でもなかった。

少々気が弱いけれど穏やかで誰にでも優しい奴。

僕と達彦の共通した池田の印象だった。


「ごめんね、急につき合わせちゃって。謹慎中の弟の様子が気になるって達彦に相談したら、
白瀬がいるから安心しろって言ってくれて」

その時の得意げな達彦の顔と、安心する池田の顔が浮かんだ。







池田を連れて達彦と本条先生のところへ行く。

確かにたいした事でもなかったけれど、先生のところへ行ってまともな時間に帰れたためしはなかった。


「でも白瀬すごいね。達彦の言う通りだ、指導部の先生の小間使いだなんて。僕なんか怖くて出来ない」

池田が真顔で言う。確かに小間使いのようなものだけど・・・。

しかも無難に学校生活を送っている生徒からすれば、ただでさえ先生という存在の厳しいこの学校で、さらに指導部と名のつく先生のところへ出入りするなんて考えられないことだ。

「池田・・・ばかっ、小間使いなんて俺言ってないだろ。守が気ぃ悪くするじゃん」

達彦が慌てて池田の腕を小突きながら言った。

「あっ、あっ・・・ごめん。達彦から白瀬、先生のところへ行くとなかなか帰って来ないとか、
すごく
疲れて帰ってくるとかって聞いてたもんだから・・・つい・・・」

三人で並んで歩く真ん中で、池田が左右に首を振りながらおろおろと口ごもる。

「気にしてないよ。ほんとほんと、小間使いのようなものだから」

僕がそう言っても、ムッと顔を歪める達彦に池田はばつが悪そうに俯いた。


「池田は弟思いなんだね」

達彦の機嫌をそこねてすっかりしょげ返る池田に、話題を変えて話しかけた。

「えっ、そうかな・・・。でも、うん・・・可愛いんだ」

少し照れながらも微笑んだ池田の表情は、まぎれもない兄としての顔だった。



通用門からいったん学校の外へ出て、花屋の店の方から入る。

何せ広大な敷地なので、学校側と先生側の宿舎に通じる道はいろいろとあるらしいけれど、行く手の樹木の群生がほとんど繋ぐ道を迷路の状態にしていた。


―六年近くもいて校内を覚えきれないんだね。
仕方ないな、通用門を通り抜けさせてもらえるよう
に守衛のおじさんに言っといてあげる―


仕方なさそうに言う先生だけど、実のところ仕方ないのは僕の方だった。

平日学校の外へ出る時は必ず先生の許可がいる。本条先生の用事なら本条先生から許可をセンターに申請してもらう。

その都度、先生が許可を申請さえしてくれたらいいだけのことだ・・・。



「こんにちは」

通用門のところで守衛の人に挨拶をして、名札を見せながら通る。

「はい、ご苦労さん」

返ってきた返事に達彦が驚いたように僕を見て、池田がテンション高く叫ぶ。


「すごい!すごいね白瀬、フリーパスだね!」




学校横、通用門から少し離れたところに小さな花屋がある。

狭い間口にはいつものように、バケツに無造作に入れられた花が置かれていた。

無造作に入れられてはいても行き届いた手入れの花々からはたおやかな匂いが立ちのぼり、花びらの繊細な色合いが道行く人の足を止める。


「あれ?誰かいる・・・」

花屋の間口の前で達彦が立ち止まった。

「花を貰いに来てるんだよ。けっこう来るみたいだよ」

二人連れの女性が、僕たちに気付いてこちらを見た。どちらも、僕たちより少し年上のお姉さんといった感じだった。


「こんにちは。あなたたちここの生徒さん?」

一方のショートカットの女性にいきなり声をかけられた達彦は、誰が見ても可愛いだろうと思うその笑顔にやや赤面しながらもそつなく言葉をつないだ。


「はい。たくさん持って帰って下さいね」

「ありがとう。ねっ、わかちゃん、ここの生徒さん達だって。渡してもらったら?」

「でも久美(くみ)・・・」

わかちゃんと呼ばれた女性は、肩にかかるストレートヘアが手に持った大振りの白ユリ、カサブランカの花と相まって清楚な雰囲気を感じた。


「斉藤 和花(さいとう わか)さん・・・ですよね」

まず間違いないだろうと、僕は思いきって声をかけた。

「そうだけど、どうして知ってるの?」

「白瀬です。本条先生から・・・」

「和花ちゃん、本条先生だって。ちょうど良かったじゃない」

ショートカットの久美さんが僕の言葉を絶妙のタイミングで遮った。

貰ったチョコレートにあなたのメッセージが入っていたので・・・なんて言えるわけがない。

「そうね。えっと・・・白瀬君、これ先生に渡して頂けないかしら。
クッキーなの、いつもお花を頂く
お礼に」

「ええ、いいですよ」

カサブランカを抱えているその下から、和花さんがクッキーの入った袋を差し出した。

受け取る際に、手を延ばしたカッターシャツの袖口にカサブランカの花粉がついてしまった。

花を抱えているので、早く受け取ってあげようと僕が少し慌てたからかも知れない。

「あっ!ごめんなさい、花粉が・・・取れるかしら、どうしよう・・・」

和花さんが片手にカサブランカを抱えなおし、ハンカチを取り出して僕の袖口を拭いた。

「気にしないで、花粉なんてしょっちゅう付きます。ハンカチが無駄になります」

僕は和花さんのハンカチを取り上げた。

「・・・ハンカチにも花粉ついちゃいましたね」

「ハンカチなんていいわ。袖口の花粉が・・・
ユリの花粉って取れにくいのではなかったかし
ら・・」

困ったように僕を見る和花さんは、5歳も年上という感じはしなかった。

「ハンカチ・・・いいことないでしょう。
いいなんて言われたら、このハンカチを返したくても返せな
くなる」

そう言って、和花さんの花粉のついたハンカチを顔のあたりまで上げて見せてからポケットにしまった。


「ちょっとぉ・・・少年、言うわね。まぁいいわ、若い子は楽しいし。
お姉さんたちに会いたければ
駅前のギャラリー 樹(いつき)≠ノいるからいつでもいらっしゃい。あっ、そこの少年達もね」

久美さんの明るく積極的な人柄とざっくばらんな対応に、達彦も池田も嬉しそうに返事をした。


別れ際、安心したように微笑んで手を振る和花さんが印象的だった。





花屋の奥の部屋を抜けて裏庭から宿舎へ向かう。


「この時間だと、どこにいるかな・・・」

宿舎に着いて先生のいそうなところを捜してみる。達彦と池田が緊張した面持ちで僕の後に続いた。

食堂からレストルームをまわって、スタディルームの前に差しかかった時、中から泣き声が聞こえた。


「うぁぁぁ〜んっ!」


幼い泣き声だった。声を聞き止めた池田が僕を押しのけて、叫びながら部屋のドアを開けた。


「健(けん)ちゃん!」

床にうずくまって泣いていた顔が、池田の呼ぶ声に跳ね上がった。


「お兄ちゃん!!」

大きな黒い瞳からポロポロと涙がこぼれるのを拭おうともしない。

それどころか池田を見ると、
それまで泣いていた顔が見る間に笑顔に変わる。

くるくると変わるまるで子供な表情のそれは、実際の年齢をずっと幼いものに見せた。

池田が心配していた弟、入学してまだ間がない新一年生。


―池田 健太(いけだ けんた)― 中等部一年生。


その側に本条先生が立っていた。

健太がズボンとパンツを上げながら、池田に駆け寄って抱きついた。


「健太、お前また何かいたずらして怒られてたんだろ」

そう言ったのは達彦だった。


池田は抱きつく健太のされるままになっている。

されるままになりながらも弟の乱れた服を整え
てやりながら、先生の方を見てやたらすみませんを連発していた。



スタディルームのテーブルで池田が先生と向き合う。少し離れてその隣に健太が座る。

池田が先生と話し合う間、自然と達彦が健太の面倒を見る格好になっていた。

「・・・先生、すみません。弟ちょっとわがままで・・・。
あっ、でも根は素直でいい奴なんです!・・・けど・・・
あのやんちゃで・・・」

どう言ってみても、池田には健太が可愛いくて仕方がないようだった。

「そうだね、いたずらのし放題だよ。いくらお尻を叩いても直らない」

言いながらも先生は怒っている様子はなかった。むしろ笑っている。

しかし池田は、また先生
の言葉に何度も頭を下げた。

「君が謝らなくてもいいんだよ」

先生はおかしそうに笑いながら言った。



健太の謹慎理由は僕と同じだった。クラスメイトを殴ってケガを負わせた。

ケガといっても鼻血程度のものだった。

普通なら、この程度のケンカなら謹慎処分にはならな
いはずだった。

ただ健太の場合は入学して間がないのに、何度もケンカやいざこざ果てはヒステリックに物を壊したりという行動が目立っていた。


「理由はわかっているんです」

池田が伏目がちにポツリポツリと話はじめた。その内容は、たぶんもう先生の知るところだろう。

しかし先生は黙って、池田が話すのを聞いていた


「母と・・・あの、父が去年再婚して・・・。いい人なんです。でも健太がなじまなくて」

池田はちらっと健太の方を見たが、また話を続けた。

「僕たちを産んでくれた母は、健太が三つの時に亡くなりました。
それからずっと父と僕と健太と
三人で生活して来たので。父も僕も、母がいない分どうしても健太には甘くなってしまって・・・」

池田が話す横で、当の健太は聞こえているのかいないのか知らん顔で達彦とふざけ合っている。


「君はどう思ってるの?健太が新しいお母さんになじまないのは」

それまで黙って聞いていた先生が、池田に健太の兄としての思いを尋ねた。

「・・・照れもあるのでしょうけど、父や僕を取られたって言うか・・・その気持ちが一番強いと思います。
健太には今まで以上に、父も僕も気をつけていたんですけど」


そこまで話して、池田はため息をついた。


「その他に、何か思い当たることはないかい?」

先生の目が真直ぐ池田を見る。話の間中、健太のことなのに、先生は健太を見ることはなかった。

「他ですか・・・、いいえ・・・別に」

きょとんと目を見開いて池田が答えた。

「そう」

池田の答えに短く先生は返事をした。


「ところで白瀬君、今度の日曜母の日だろ。花束を頼まれてるんだ。花摘み手伝ってよ」

池田との話を終えた先生が僕の方を見て言った。

「これからですか」

「うん。健太、日曜日家に帰るんだろう。
カーネーション摘んどいてあげるから、いっぱい持って
帰るといいよ」

先生が、今度は池田ではなく健太に言った。案の定健太はそのことについては無反応だった。

「健ちゃん、返事くらい出来るだろ」

池田が健太に注意しても、やはり健太は反応しない。

「すみません、先生。頂いて帰ります。母も喜びます」

池田が健太の代わりに答えた。


「先生!いらない!持ってなんて帰らない!!」


それまで無反応だった健太が、突然噛み付くように叫んだ。


「わかってる、健太はいらないんだろう。
お兄ちゃんがいるって言うからお兄ちゃんにあげるん
だけど」


先生の言葉に健太が悔しそうに唇をかんだ。


「健太、意地っ張り。照れくさいんだろ。
まっ、お前のそういうところも可愛いけど、もういい加減
素直になれよ」

先生の言葉には唇をかんだ健太が、達彦の言葉にはキレた。

「たつひこは関係ない!黙れ!!」


バンッ!ガシャンッ!


テーブルの上の筆箱やら本を達彦に投げつけた。


「うわっ!・・たっ・・こいつ・・・」


さらに健太は席を立って、後ろの本棚から本を手当たり次第に引き抜いて床にばら撒いた。


「健ちゃん!やめろ!」

ヒステリックに物にあたる健太の両腕を、池田があわてて掴み止めた。

兄の強い力に抑えられて、健太が思わず池田を見上げる。


「何でこんなことするの!だめだろ!!」

普段は優しいであろう池田の叱責は、健太には堪えるのかも知れない。

「・・・お兄ちゃん・・だって・・・」

健太が大きな目を潤ませながら、甘えるしぐさを池田に見せる。

「・・・健ちゃん。花はお兄ちゃんが渡しておくから。
だから日曜は一緒に帰れるようにい
い子でいろ」

いつもの穏やかな兄に戻ったのを感じたのか、健太はまた安心したように聞かん気な顔で掴まれていた手を振り払った。


「お兄ちゃんは優しいね。・・・よし!
お兄ちゃんにはカーネーションだけじゃなくて、特別にいろいろト
ッピングしてあげる」

「いえ・・・あの・・・そこまでは・・・」

池田が健太の手前、少し困ったような笑顔を先生に返した。


「・・・渡せっこないもん」

後ろのソファに座り足元に散らばる本を蹴りながら、健太がぼそっと呟いた。

「健ちゃん・・・?」

池田は健太の妙に落ち着いた言い方が気になったようだった。

「どうして渡せっこないんだい。
せっかくお兄ちゃんのお母さんに渡す特別仕立ての豪華花束な
のに」

先生が健太の気持ちを煽るように言った。

池田には先生がなぜそこまで健太を煽るのか理解出来ていなかった。

理解出来ていないことが、池田を困惑させた。

池田の困惑をよそに、健太はムキなって叫んだ。


「電話したもん!!今度の日曜日までに、僕たちが帰ってくるまでに出て行けって!!
出て行か
なきゃ僕が帰らないって言ってやったもん!!」

池田の健太を見る表情が凍りついた。いくら馴染んでないとはいえ、まさかそこまで言うとは思ってもみなかったようだった。

池田がはじめて健太を怒鳴った。


「健太!そんな酷いこと言う子はお兄ちゃん大嫌いだ!」


一瞬健太の黒い瞳が揺らいで、また甘えたそぶりを見せるのかと思った瞬間、キッと健太の目が池田を睨んだ。


「僕もお兄ちゃんなんて嫌いだ!嫌いだ!大嫌いだ!
お父さんも嫌い!みんな嫌い!嫌い!
嫌い!大嫌いだー!!」


池田にとっては、思いもかけない健太の言葉だった。

上目使いに睨む健太が池田には不思議だった。

「・・・健ちゃん、父さんやお兄ちゃんのどこが嫌いなの。」

冷静になった池田とは対照的に、健太はますます自分の気持ちを抑え切れなくなっていた。

池田の知らない、健太の心の闇が言葉となって現れた。

「お父さんも、お兄ちゃんもずるい。いつもあの人と三人で笑ってる!」

「・・・どうして、母さんは健ちゃんにだってちゃんと話かけてくれるだろ。
なのに健ちゃんがそっ
ぽ向くから・・・」

「だって、わかんないんだもん!知らないもん!知らない!知らないー!!」

健太は・・・母を知らない。三つの時に亡くなって顔も覚えていない、母そのものを知らなかった。


池田が健太の頭の上に左手を乗せて、そっと掌を頬まで撫で下ろした。



―健ちゃん、 おばちゃんのままなら、上手くつきあえたかもしれないね 。

少しくらい甘えることが出来たかもしれないね 。

父さんやお兄ちゃんと同じように 、

母さんとして接しようとしたから、わからなくなったんだね。

もう一度、おばちゃんから戻ってみようか・・・―



「健ちゃん、ごめんね。お兄ちゃんが気付いてあげられなかった・・・」

いつもの優しい兄の手が、健太の頬に当たる。頑なな健太の顔が綻んだ。


「お兄ちゃんは優しいね」

先生がまた池田に同じことを言った。しかし一度目とは違うニュアンスに、池田が振り返った。

振り返った池田に先生は言った。


「お兄ちゃん、優しさを取り違えるな」


少しの間、池田はぼうっとしたように先生を見ていた。

落ち着きを取り戻した健太が、頬に当たる兄の手を払おうとした時、

「健ちゃん、今度の日曜日、家に帰ってちゃんと謝ろうね」

池田がぐっとその手を取って握り締めた。

「・・・だって・・・もういないもん・・・」

健太は小声で、不服そうにそして少し不安そうに言った。

「そんなことないよ。ちゃんと居る。お母さんだからね」

「・・・お兄ちゃん、やぁだぁ・・わかんないもん〜・・・」

池田の言葉に安心した健太がまた甘えるそぶりを見せる。

いつもなら、これで許されるのを健
太はわかっている。

いつもなら・・・健太は手を取られたままソファに引き倒された。


いつもと違う状況が、健太にはとっさに飲み込めなかった。


「健ちゃん、わからないことはお兄ちゃんが教えてあげる」


パンッ!パン!パン!パン!パン!


健太のお尻に、いきなり池田の平手が降った。

ズボンの上からでも充分痛い連打に、健太は思わずお尻を手でかばった。

「痛い!痛ーい!お兄ちゃん!痛いぃぃ!」

「自分のしたことが悪いことだって、わからないんだろ。
だから健ちゃんがどれだけ悪い子か、お
兄ちゃんが教えてあげる」

池田が健太のズボンに手を掛けて下着ごと引き下げた。

さすがに健太もこの状況は理解出来たようだ。

ただ、まだ池田には甘えた。


喚きながら暴れた。


「やぁだー!やめて!やめて!お兄ちゃん、嫌いだぁ!!嫌いだぁ!!」

池田は暴れる弟の両腕をひとまとめにして、片手で背中に押さえ込んだ。

すでに薄く赤みを帯びている健太のお尻に、池田はためらうことなく平手を落とした。


パァンッ!


「ひっ・・・」


健太の動きが止まる。


パァンッ!パァンッ!パァンッ!・・・


「うわぁぁぁ―ん!!あぁぁ―ん!痛ぁい!痛ぁ―い!ぎゃぁぁん!!」


健太がヒステリックに泣き叫ぶ。


泣き叫ぶ健太の、それを戒めるようにさらに強く池田は健太のお尻を叩いた。


バシッ!バシッ!バシッ!バシッ!・・・
バシッ!バシッ!バシッ!バシッ!・・・


「えぇぇ・・んっっ・・・お兄ちゃん・・痛ぃぃ・・・うっ・・ひっく・・・」

暴れ疲れ喚き疲れたのか、健太はもう泣きじゃくるだけだった。


「お兄ちゃんの手も痛い。健ちゃんのお尻もお兄ちゃんの手も、痛いし真っ赤だ。
だけど母さん
の痛みはわからないだろ。心の傷は見えないからね。
健ちゃんの心の傷もお兄ちゃんわから
なかった。同じだろ、健ちゃんと母さんと」


池田が真っ赤な手を健太に見せながら、お兄ちゃんも健ちゃんの心を傷つけた罰だと言った。


「・・・・・・・ごめんなさい」


健太が涙に濡れた顔を上げて言った。



「誰に?」

「・・・・・・・」


「健ちゃん、誰に?」

池田は最後まで健太の甘えを許さなかった。


「・・・・・・お・・ばちゃん」

そう言うと、健太の目からまた涙がポロポロッとこぼれた。


「もういいんじゃねえの。ほら健太、こっちに来い」

達彦がソファでうつ伏せのままの健太を抱き起こした。


池田が少し気恥ずかしそうに先生を見た。


「・・・・・・先生?」



「何で黙ってるかな。普通なら言うと思うけど」

「・・・普通ならセンターから連絡が入れば取りに行くと思いますけど」

先生がバレンタインでもらったチョコレートを、中を改めることなく僕にくれた。

ひと目でわかった手作りの箱とチョコレート、その中に入っていたメッセージカードのことを、今さらながらに言っているのだ。


あの後、やはりメッセージカードは封筒に入れて翌日先生に渡してもらうよう、オフィスセンターに預けた。

チョコレートの時と同じに、そのまま取りに行ってないらしい。


「で、これがその人がくれたクッキー?」


「はい、二人とも二十歳くらいで。髪の短い女性と、彼女は肩までくらいの髪でした」

あぁ、あの子たち・・・と、言うように先生の顔が笑った。

「顔は知ってる。時々おばちゃんたちに混じって花をもらいに来てる」

その笑顔に水を差すつもりはなかったけれど、なぜか先生の余裕が気に入らなかった。


「久美さんと和花さん」


僕も笑顔を作る。



「・・・あの」

先生と僕と微妙に対抗する雰囲気に気を使いながら、池田が割って入ってきた。

「何?健太は?」

先生はもう池田は大丈夫と思ったのだろう。最後の方は池田に健太を預けていた。


健太は達彦に服を整えてもらっていた。

「・・・たつひこ兄ちゃん、ごめんなさぃ」

上目遣いに健太が達彦に謝った。

「そんな顔で謝んなよ。だぁ、もう・・・タオル濡らして来るから顔拭けよ」


「健太、クッキー食べるかい」


先生が封を開けてひとつだけ自分の口に入れると、後は袋ごと健太に渡した。


「白瀬君、何してるんだい。早く花摘みの準備してよ」


たった今まで誰の話を聴かされていたのだろうと思う・・・。


「お兄ちゃんは、江川君と掃除」

「はっ?」

まさか弟に会いに来て掃除をさせられるとは思っていなかったらしい。



「池田ー!健太もう一回お仕置き!!」

タオルを濡らして来た達彦が、部屋のドアを開けるなり言った。


「はっ?」

「はっ?じゃねーよ。洗面所とレストルームの壁、落書きだらけだ!」

「あとね、そこら中の花瓶に活けてある花みんな切っちゃてるから。
それも回収しておいてくれ
るかい。入れかえるから」

「・・・ごめんね、達彦・・・」

申し訳なさそうな池田に、達彦はげんなりした顔を向けて呟いた。

「俺も手伝うの・・・」


当の健太はソファに腹ばいになってクッキーを美味しそうに食べていた。







花屋の奥の部屋で花摘みの準備をする。


僕は花籠にしますというと、先生も健太には花籠の方がいいねと言って、嬉しそうにどれで作ろうかと籠をテーブルの上に並べた。

それまで母のいなかった池田の家では、毎年母の日には白いカーネーションを飾っていたという。


―今年は赤いカーネーションにしようと思うけど、健ちゃんにしてみれば赤い方が変だって言うんだ―


と、池田は言っていた。


夕闇がもうすぐ訪れようとしている。

太陽が西の空にその姿を隠す僅かの間に、花摘みをした。

金色に差し込む西陽を受けながら、先生と背を合わせながら手早く摘んで行く。

ふと見ると、先生はピンクのカーネーションを摘んでいる。


「ピンク色ですか・・・」


「うん。健太の心の色さ。白と赤が優しく混じり合えばいいじゃないか」



五月の第二日曜日。ピンクのカーネーションの花籠を抱えた健太が、池田と一緒に家に帰る。

池田の手が健太の背に添えられて、母を知らない弟の心を支える。


―健ちゃん。もう一度、おばちゃんから戻ってみようか・・・―







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