ディブレイク



―あいつと会った?あれで良くこの学校に入れたよ。まぁ、面接じゃ夜泣きはわからないからな―

―中学生で夜泣き・・・―


渡瀬の寝不足の原因。

宿舎の三階が生徒たちの部屋だった。

生徒指導室は今回の渡瀬たちのように謹慎処分の生徒が多いが、僕のように病欠で単位が足りない分を補習で受けるために入ることもある。

全部で三部屋。


先生からポピーの花籠を渡された翌日、渡瀬は食堂で流苛を紹介された。


『立木 流苛。面倒見てやってね。三浦と谷口には風邪が治ったら紹介してやって』


―上目使いに窺がうようなしぐさは、その風貌と加味して神経質そうな一面を垣間見るようだった―




「流苛は誰にでも、最初は人見知りが激しいんだ」

先生の膝の上で甘えるしぐさの流苛を見ながら、渡瀬はポツリポツリと語った。


「聡、入院中よく夜泣き聞いたって言ってたよな」

「うん・・・夜眠れなくて屋上に行くんだけど、行くまでに小児科の前を通るんだ。
消灯時間をずいぶん過ぎているのに、泣き声の聞こえない日はなかったよ」



幼子(おさなご)が 薄明かりの中

大きな瞳を見開いて

おとうさぁん・・・

おかあさぁん・・・

どんなに灯かりを照らそうとも

全体を覆う夜の暗闇には適わない

白衣の天使が差し出す優しい手も

親の手の温もりには適わない



「屋上には出られないけど、そこの病院は最上階が展望になっているんだ。
椅子に腰掛けて窓越しに夜景をずっと見てた」



綺麗だけれど人工の灯かりは寂しく


月の明かりはよけい夜の暗さを引き立たせる

暗闇の中から湧き上がる思い どうして僕だけが

ああ・・・だけど 聞こえる幼子たちの泣き声に

僕は気付かされる あの日の言葉の意味を


―君の人生だからだよ。君だけの試練だ―


皆それぞれに 人生の数だけ試練はある 



「僕は気を紛らわせることも出来たけど、夜は・・・小さい子には残酷だよ」



幼いがゆえの試練も また人生

生を受けた瞬間から 人は試練の道を歩く



「聡・・・」

「・・・何?そんな顔しないでよ。でもね、夜が明けるだろ。
そうすると笑い声やケンカする声が聞
こえてくるんだ。たくましいよ、やっぱり子供だね」



けれど 明けぬ夜はない

陽が昇り 陽射しが柔らかに変わる頃

嬉々として 弾む声

おとうさぁん!

おかあさぁん!

幼子の 背負う荷が少し軽くなるひと時



「親が恋しいって泣いても、夜が明けたら会えるんだ。そうか・・・流苛は反対だな・・・」

「・・・渡瀬」


流苛は夜になると、親が怖いと泣いていたと言う。

夜になっていったんは寝るものの、寝言のようなうわごとが泣き声に変わり毎晩それが続いた。


「最初は無視したんだ。あんまりそういうのに係わり合いになりたくないしね」


風邪の治った三浦や谷口も、流苛に対する態度は渡瀬と同じだった。

ただでさえ人見知りの激
しい流苛が、彼らに懐くわけは無かった。

流苛は何かあると、すぐ先生のところへ行った。そしてその度に、渡瀬たちは先生から注意を受けた。


「一緒に食事に連れて行ってやれだの、遊び相手になってやれだの・・。
・流苛はああ見えても中
学生だぜ」


先生は流苛には何も言わなかったのだろうか。


「言うどころか、ネコ可愛がりだ」


そう言って眉をひそめる渡瀬も、いつの間にか流苛をネコ可愛がりしていた。


「・・・それを言うなよ。あれだけ面倒見てりゃ、情も湧くさ。
三浦なんて顔合わせただけで流苛
に泣かれていたのに、今じゃ一番懐かれてる」


先生はほとんど流苛のことは、渡瀬たちに任せていたと言う。


「勉強もだぜ・・・」



―どうして僕たちが流苛の勉強まで見るのですか?―

―君たちが学んで来たことだろう。教えてやればいいじゃないか―

―・・・それでは先生、僕たちの勉強は誰が見てくれるのですか?―

―僕―

―見てくれたことがありますか―

―君たちは言われなきゃ勉強が出来ないのかい。それじゃ流苛と同じだよ。
わからないところ
は、いつでも聞きにくればいいじゃないか―



「三年生の教科書だぜ、わからないところだらけだろ。
まあでも・・・聞きに行くどころか教科書開く以前
の問題だった。そんな時間すらなかったよ」


風邪の看病、花の世話、そして流苛。


「流苛の夜泣きのことでも、こっちが相談しようと思っていたのに・・・」



―渡瀬、いつまで流苛を泣かせておくんだい。下の階まで聞こえて来て、寝られないんだ―

―・・・先生、僕はもっと寝られません―

―同室なんだから、君がちゃんと見てやらなきゃ他に誰がいるんだい。とにかく流苛を泣かさないようにね―


先生が流苛の夜泣きことで渡瀬に言ったのはそれだけだった。


―他に誰がいるんだい―

―それは僕の仕事ですか―


と、喉まで出かかったが、言っても無駄という何度も学習した思いがその言葉を飲み込ませた。

渡瀬は委員長を歴任していたことで、人の面倒見はよかった。

しかしそれはあくまでクラスをま
とめるという委員長としての役割の意識が強かった。

そんな渡瀬にとって、一個人として接する流苛のような下級生の面倒は、まったく勝手がわからなかった。

一人にすればすぐ先生のところに駆け込む流苛を、仕方なく花の世話の時も連れて回った。



温室のバラ園 洋蘭 胡蝶蘭

広い花畑の中 多彩な種類を誇るチューリップ

並走するように ラナンキュラス

遠くに見えるマーガレットの群生 その向こうにデージー

花々が敷き詰めた絨毯柄のように色を織り成す

自然の創造物は人の手には遠く及ばない



―流苛、このスイッチが水撒きで、こっちが天窓の開く・・・流苛!―

―どうして・・?先生に持って帰ってあげるんだもん。僕も花を摘むんだもん―

―お前のは摘んでるんじゃないだろ、引きちぎってるんだ。そんな乱暴に・・・―


  ( 足をどけろ、渡瀬 )


「俺も流苛のことを言えた義理じゃないけどな、聡」

慈しむ心。渡瀬はもう足元の花を踏み付けるようなことはないだろう。


―ちゃんとハサミでカットしてやらなくちゃな―

―何で?―

―何でって・・・そりゃ、花だって引きちぎられたら痛いだろ―

―痛いわけない!花とかは痛いとかないんだよ―

―・・・なら持って帰って見比べてみろ。先生の摘んだ花と流苛の摘んだ花―


夜はひとつしかないベッドを流苛に譲り、渡瀬はソファで寝た。



「簡易ベッドの申請をしたけど、申請者は先生でないとだめなんだ。
センターを通して書類三枚
書き込んでメールに添付して・・・・・・諦めた」



―流苛、流苛、目を覚ませ。ほら、体を起こして―

―・・っく・・ひっく・・腕が痛いの―

―腕?こっちか・・・ここか?―


薄っすらと痣のような跡。さすってやると泣き止んで、暫くすると寝息を立てる。


―ぁぁん・・・いやっ・・来ないで・・―

―流苛、どうした?誰が来るんだ?・・・流苛―

―・・・お父さん・・何もしないのに叩くの・・ふぇぇっ・・・―

―来ないよ。流苛、ここに居るのは誰だ?―

―・・・お兄ちゃん・・・―

―流苛の周りに居るのは誰だ?―

―・・先生と・・・お兄ちゃんたち・・・―

―安心だろ?―


流苛はやっと安心した顔を見せて、眠りにつく。





「聡、流苛の母親はあいつを置いて母国のフランスへ帰って行ったんだぜ」

三浦がボロボロにされた教科書を握り締めながら言った。

「その母親の方に似たのが流苛にしてみれば災難だったんだ。父親の恰好の的さ」

父親の暴力。腕の痣。谷口にはそれ以上強く、流苛の腕を掴み続けることは出来なかったのだ。


親に甘えることが出来ない分を、先生の膝の上で存分に甘える流苛。

流苛が見つけた安寧の場。

だけど―。




「流苛、どうして三浦の教科書を破いたの?明日からの授業で使えないじゃないか」

「・・・帰るなんて言ったから。先生、お兄ちゃんたちはずっと僕と居るって言ったのに」

「居ないよ。渡瀬も三浦も谷口も明日には帰るし、流苛もいつまでもここには居られないよ」

先生は拗ねる流苛の頭を撫でながら、しかし何一つ流苛を庇うようなことは言わなかった。

「やだ!先生!僕は帰らないもん!お兄ちゃんたちも帰さない!!降ろして!!」

流苛はすぐ癇癪を起こした。そして頭を撫でる先生の手を振り払い、膝から降りようとした。

「まだ降りなくていい。流苛、君は自分がされたことと同じことを相手にしているんだよ。わかるかい?」

「そんなの・・・わかんないもん!!」

それまで首を曲げて先生の方を見ていた視線が逸れたかと思うと、流苛は微妙に言葉を詰まらせながらもヒステリックに叫んだ。

「流苛!」

先生の叱責に小さな流苛の体が、ビクンと大きく跳ねた。


パシ――ンッ!!


「うわぁぁっ!!」


声を上げたのは三浦だった。

先生が流苛のお腹あたりに手を廻して持ち上げ、浮いた尻を思いっ切りの平手で叩いた。

そしてそのまま抱えるようにして、流苛を膝の上にうつ伏せにした。

「・・ひっ・・・ぅっ・・・」

流苛は言葉が出ないようだった。小刻みに震えているのが遠目でもわかった。


「あっ!三浦!」

谷口の声がしたかと思うと、三浦が先生に駆け寄っていた。

「言って聞かせりゃ済むことだろ!流苛を叩くなよ!!」

三浦が先生から引き離そうと流苛の体に触れようとしたその時、


バシィィン――ッ!!バキィッ!!ガタ――ン!!・・ガシャ・・ン・・・


横に払った先生の腕が三浦のみぞおちに炸裂し、その勢いで三浦は食堂のテーブルに激突した。

「大丈夫か!三浦!」

渡瀬が驚きと心配の入り混じった声で叫んだ。

「・・あの野郎・・やり過ぎじゃねぇの・・・」

今度は谷口が低い声で呟きながら、先生に向かおうとした。


―先生が誰かと対峙している時は、何を言っても無駄だよ。手を出そうものならとんでもない目に合うよ―


白瀬さんの言葉が頭を過(よ)ぎる。

薄っすらと記憶に残る光景と、今目の前で起こっている光景が重なり合う。



「谷口、手を出すな。それより三浦を見てやれ」

「渡瀬!でも・・・」

渡瀬が谷口を止めた。

「・・・聡、信用していいんだな」

僕に訊くと言うよりも、自分に言い聞かすような渡瀬だった。


「ウェェッ・・・ゲホ、ゲホッ・・ッ痛テェ・・・」

みぞおちを押さえながら、三浦は谷口に支えてもらって上半身を起こした。


渡瀬が、三浦が、谷口が、包み込むように守ってきた流苛の心の闇を、先生が剥き出しにする。


その手で救うために。


安心なはずの先生の膝の上で、ガタガタと震える流苛。

「流苛、何もしないのにいきなり物を投げつけられたら痛いだろう?」

「大切なものをぐちゃぐちゃにされても痛いだろう?・・・心が。流苛はどうなんだい?」

流苛は先生の問い掛けに答えるでもなく、そうかと言って泣き声を上げるわけでもなかった。

「流苛?」

先生はお尻を軽くポンポンと叩いて促した。

「・・・・・・・・」

流苛は口を閉ざしたままだった。

「流苛!」

ただその間も流苛の震えは止まらなかった。ぎゅっと握り締める両手はなおもブルブルと震えていた。

しかし先生は震える流苛はそのままに、ためらうことなくその身からズボンと下着を抜き取った。

その途端、流苛は激しい泣き声を上げて暴れた。

「いやぁ!・・・いや!いや!いやあぁぁ――っ!!」


パァンッ!


「あぅっ!!・・・」


パンッ! パンッ! パンッ!・・・

パンッ! パンッ! パンッ!・・・


容赦ない先生の平手が、幾つも幾つも流苛のお尻を打つ。


「流苛!」

さらに大きく先生の右手が振り上がった。


ピシャーン!!


「うわぁぁんっ!いたぃぃ・・・。やめて、お父・・さ・ん・・」

「流苛、お父さんはここには居ないよ」

流苛、流苛と、何度も先生は名前を呼ぶ。

お父さんはここには居ないと、繰り返し言い聞かす。

「・・・うっ・・ひっく・・・先生・・?・・・」

初めて流苛が顔を上げて先生を見た。

「流苛、何もしないのに叩かれるのは痛いだろう?悪いことをして叩かれるのも痛いかい?」

「・・・・・どっちも痛ぃ・・・」

「そうだね、だからどっちもしてはけないことなんだよ」




―先生、流苛を見ているとつい手を上げてしまうのです。あまりにも容姿が母親に似ていて。
年を重ねるごとに、より母親の色が濃く出て一時は本当に私の子かと疑ったほどです―


―それは流苛の容姿うんぬんが問題ではなく、単にあなた方夫婦の愛憎の問題ではないですか。
ご自分のやり場の無い思いを流苛にぶつけているだけでしょう―



―・・・先生のおっしゃる通りかも知れません。しかし、けして私は流苛が憎いわけではないのです。
ただ流苛を手元において置けば、エスカレートして行く私自身の弱さが怖かったのです―



―流苛はうちの学校で六年間を過ごします。その間、もしくは卒業後、あなたに会うかどうかは流苛次第です。
あなたが流苛に愛情があるというのなら、それはご了解いただきたい―





流苛が涙に濡れた色素の薄い瞳を僕の方に向けた。

「ごめんなさい・・・」

先生が流苛の体を抱き起こした。

「渡瀬、バスタオル」

「あっ・・はい」

渡瀬はハッとしたように、急いでバスタオルを取りに行った。


「先生・・・僕も帰るの・・・。僕はどこに居たらいいの」


―先生、立木君何だかおかしいです。夜、泣いてます。先生、かわいそうです―


「学校に居たらいいじゃないか。流苛のルームメイトは何ていう名前の子だい?」

「・・・竹原君」

「竹原君が心配して、流苛のことを担任の先生に教えてくれたんだよ。
学校にはみんな居る。
みんなと一緒に居ればいいじゃないか」


明けぬ夜はない。――――流苛の夜が明ける。




「学校で六年間しっかり勉強して、十八歳になったらフランスに留学してもいいんじゃないか。
大きくなった流苛をお母さんに見てもらうのはどうだい?」

「お母さん会ってくれるの?・・・先生」

「お母さんだけじゃないよ、お父さんにもだ。
会いたいと思えば流苛が会いに行けばいいさ。選
択は流苛にある」


渡瀬が、持って来たバスタオルを広げて流苛の下半身を包(くる)んだ。

先生はバスタオルに包(くる)まれた流苛を抱き上げて、床に座り込んでいる三浦のところへ行った。

「三浦、流苛をお風呂へ入れてやって」

流苛は両手を広げて、三浦の首に抱きついた。

「ごめんなさい」

「流苛・・・・・!痛ってぇぇ〜!!そこ触んなぁ!」

ふいに手が髪の毛に掛かり・・・・・クシャッ―


「何だ・・・あいつ!」

「・・・お前、顔真っ赤だけど」

谷口が笑いを噛み殺したような表情で、三浦に言った。

「当たり前だ!俺は流苛じゃねぇ!それよりも、大丈夫かのひと言くらいないのか・・・」

先生は三浦の頭をクシャクシャッと撫でて、食堂を出て行った。



抜き取られた流苛のズボンを片付けながら、渡瀬が三浦と谷口に連れて行かれる流苛に声を掛けた。

「流苛、もう一人で寝られるな。俺たちは明日から居なくてもいいな」

「・・・うん。僕も・・・もうすぐしたら帰るもん」

小さい声だが、はっきりと流苛は言った。

「おぅ、えらいぞ!流苛!いつまでも長居は無用だぜ、こんなとこ」

「何言ってるの、三浦。一ヶ月も居たら充分長居だっての。
じゃ、渡瀬、俺たち先に部屋に帰っ
てるから。聡、次会う時は学校だな」

谷口の零れる笑顔。三浦の流苛を見る安心の笑顔。流苛のはにかんだ笑顔。



僕と渡瀬が最後に食堂に残った。

渡瀬は丸めた流苛のズボンをナイロン袋に入れ、ズボンの落ちていた場所をモップで拭き始めた。


「・・・濡れてるんだ。怖かったんだな、失禁してた。・・・けど、その怖さを越えないとわからないんだな」



―皆それぞれに 人生の数だけ試練はある― 



「先生を信用して良かっただろ、渡瀬」

モップを動かす手を止め、ぐっと背筋を伸ばして僕の方を見た渡瀬は、とても穏やかな笑顔で言った。

「まあね・・・」



明日から渡瀬たちは高等部三年生に帰る。

渡瀬たちがここを出たら、僕ももうあまりここに来ることはないだろう。

結局、先生から和泉のことは一度も話に出なかった。

和泉を思い出したことで、またかなり時間が過ぎていることに気が付いた。

「渡瀬、僕も帰るよ。谷口の言う通り、今度は学校でね。もう変な所では会いたくないよ」

拭き掃除が終わって、渡瀬も帰るつもりだったのだろう。椅子に腰掛けるでもなく立ったままだった。

だが、渡瀬の顔からは穏やかさが消えていた。


「・・・気を悪くした?ごめんね、冗談だよ、渡瀬?」

「聡、そう言えば先生に大事なもの取り上げられたままなんだけどな・・・」

「大事なもの?」

渡瀬は視線を僕の胸元に向けて、ひと言呟いた。


「名札」


「あっ!・・・忘れてないと思うよ。後で返してもらえるよ・・・と思うよ。・・・たぶん」

「・・・・・・前言撤回。俺は絶対忘れてると思う」


はぁぁ・・・と、溜息をつく渡瀬に、先生は全く信用されていなかった。







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