リライアンス




二週間の短縮授業が終わり、夏休みに入った。


夏休み期間の学校は冬休みとは違って、入れ代わり立ち代り生徒が出入りするのでむしろ普段より賑やかだ。

一ヶ月半の休みをずっと親元で過ごす生徒の方が少ない。


高等部にもなると、大抵ニ、三週間で学校に戻って来る。何より勉強に不自由のない環境が、特に受験を控えている三年生には一番の理由だった。





高等部 寮―。

部屋のドアにはめ込まれた名前プレート。

【二年Aclass 本条 和泉】


「あー、疲れたっ!・・・ちょっと休憩!」

「・・・和泉、さっきから休憩ばかりしてない?」

「そんなこと言ったって、休みに入ってまだ三日目だぜ。おれたち三年生じゃないんだからさぁ・・・」

「和泉の方から言い出したんだよ。僕のところでは休み中の課題なんかしたくないって」

「言ったけど!・・・おれは、聡のところから帰ってきてからするつもりだったのにさ」

和泉はまるでやる気がなさそうに、コンコンコンコンとシャープペンシルの先を机に打ち付けた。


「でも帰ってきてからじゃ、休み明けの実力考査の試験勉強が課題に追われて出来なくなるよ」

「・・・実力考査は普段の実力なんだから、別にその為の勉強なんてしなくていいじゃん」

コンコンコンコン・・・尚も、やる気のない音が響く。

「和泉は実力があるからね、僕は勉強しておかなきゃ不安なんだ。
とにかく課題をいつするか
は和泉の自由だけど、後で間に合わないって慌てても僕は手伝えないよ」

ピタッと音が止んだ。

「えっ″!?それは困る!」

「もう!最初から、当てにしてたんだ!」

「へへっ、ばれたら仕方ない。よーし、頑張るかぁ!・・・・・・はあぁ〜っ」

気合を入れ直したと思ったら、また大きくため息を吐いた。

和泉が勉強に集中出来ない理由はわかっている。

それは僕も同じだった。

務めて集中しようとしていただけで、どうしても渡瀬のことが頭から離
れなかった。



あの後、流苛から渡瀬のことを聞いて、暫くして和泉の携帯に三浦から連絡が入った。

和泉が僕の部屋に流苛が来ていることを告げると、すぐ三浦はやって来た。


―どういうこと!?三浦!渡瀬が、またタバコだなんて・・・―

―聡は信じるのか―

―信じないよ!でも・・・―

―でも?―

言葉が出なかった。

信じないと思う心の端で、かつての喫煙の事実が影を落とす。

いつもなら強面で睨みつける三浦が、穏やかにそしてきっぱりと言った。


―聡、それが俺たちの失ったものだ。でも、もう裏切らない。渡瀬を待っていてやってくれよ―


―三浦・・・うん!もちろんだよ!―

―和泉も、悪りぃな。バスケ出来なくなって―

―何で出来ないんだよ、渡瀬が戻って来たら出来るじゃん。おれも渡瀬を待ってる―

和泉の渡瀬に対する思いは、三浦を通して少しずつ変化しているようだった。

いつか渡瀬にも和泉の思いは伝わるだろう。

和泉の言葉に三浦が黙って微笑んだように。


広がる友達の輪。


こうして人は人と、係わって行くのだろう。







「何だか落ち着かないんだよなぁ・・・。三浦も全然連絡くれないしさぁ・・・」

和泉は携帯を弄りながら、恨めしそうに呟いた。

「落ち着かないのは僕も同じだよ。だけど今は三浦の言葉を信じて、待っていようと思うんだ」


―もう裏切らない―


「聡ってさ、やっぱり委員長の器だよ」

「なっ、何、急に!?やめてよ、ここは教室じゃないよ・・・」

「照れんなよ。水島のときもそうだったけど、浮足立つおれを宥めて落ち着かせてくれただろ」

そんな大真面目な顔で言われると、僕こそどんな顔をしていいのか困ってしまう・・・。


「そうだっけ?ん〜・・・そうだね、僕は優等生の委員長だからね」

「聡っ!ちぇっ!最近は自分で言うんだもんなぁ!」

「あはは。ねっ、たいしたことないだろ」

僕が笑ったら、和泉も笑い声を上げた。

笑いの効果は抜群で、一発で鬱々としていた雰囲気を取り払った。


「あー、笑ったらすっきりしたっ!わからないことを考えていても、わかるわけがないのにさ」

「本当だね」

それからは和泉も課題に集中するようになった。




「・・・あれっ、コンパスがない。聡、使ってる?」

「コンパス?使ってないよ」

「おっかしいなぁ?さっきまであったのに・・・」

和泉の机の上は必要のない教科書や参考書が、出しっ放しのまま山積みになっていた。

「・・・和泉、少し片付けたら?」

「ん〜・・・片付けても、すぐ散らかるんだよなぁ・・・ああ、あった、あった」

探し物は見つかったものの、ガサッと持ち上げた本は右から左へ移動しただけだった。

その後も消しゴムだの定規だの、使う度ごとに「あれ?あれ?」を繰り返す中、


〜♪・☆☆〜♪♯〜♭・☆☆〜♪♪〜



和泉の携帯が鳴った。

「あっ!もしもしー!」

・・・携帯だけは、紛れることがないようだった。


「聡、兄貴からだけど、今なら宿舎の食堂にいるから来ていいよってさ」

「先生から!?それじゃ、すぐ行かなきゃ」



課題は一時中断して、和泉を招待する許可を頂いたお礼と挨拶に先生の宿舎へ向かった。

ギラギラと照りつける夏の太陽も、青々と生い茂る樹木の葉影の中では、柔らかい木漏れ日となって降り注ぐ。


道すがら、

「この間学期末の席次表見せに兄貴のところへ行ったけど、渡瀬の姿は見かけなかったなぁ・・・」

「宿舎っていっても、基本的に寮と同じ造りだから広いしね。会う確率の方が少ないよ」

何もなければ帰省の話になるのだろうけれど、やはり口をついて出るのは渡瀬のことだった。

「兄貴に聞いたって、どうせ教えてくれないもんな」

和泉の愚痴は黙って聞き流し、沙羅の木々を通り抜け椿の垣根を過ぎて宿舎の入り口に到着した。


玄関ホールでマスクを取ると、館内に漂う花の匂いがふわっと鼻孔をくすぐった。

花台には夏の花の代名詞のような向日葵が、他の花々に彩られながら飾られていた。

和泉は花には目もくれず、食堂の中へ入っていった。


「兄貴ー、聡、連れて来たよ」

急いで後に続いた。


「やぁ、聡君。久し振りだね、元気にしてたかい」

食堂のいつもの席に、先生はいた・・・。


「何だい?どうしたの、二人とも?」


それはこっちのセリフだよねと、和泉と顔を見合わせた。


「渡瀬っ!!」


先に声を上げたのは和泉だった。

あからさまに渡瀬の眉間にしわが寄る。

和泉の呼び捨てに反応するする様子は、いつもと全く変わっていなかった。


「渡瀬!和泉も僕も心配していたんだよ!」

「心配・・・ああ、タバコのことか?」

渡瀬は不快な表情はそのままに、あっさりその言葉を口にした。

僕と和泉が驚いたのは言うまでもなかった。

ただストレートな性格の和泉には、渡瀬の物言いはカンに触るようだった。

「タバコって・・・渡瀬!お前、よくそんなに平然と言えるよな!聡がどれだけ・・・」

「ああもうっ!うるせぇな!お前は黙ってろ!本条!!・・・いや・・・い・いず・・・和泉・・」

「本条!!」と怒鳴った瞬間先生に振り向かれて、和泉の方とわかってはいてもなんとなく具合が悪い。

咄嗟に名前で呼び直した渡瀬だったが、それもまた気の毒なほど言いにくそうだった。

しかし頭に血が上っている和泉には、名字で呼ばれようが名前で呼ばれようが関係なかった。

「うるせぇって、何だ!!おれだってお前のせいで、三浦と約束してたバスケが延期のままなんだぜ!!」

「バスケ!?勝手にやってろ!俺をいちいち巻き込むなっ!」

喰って掛かる勢いは、すでに言い争いの様相を呈している。

慌てて割って入った。

「和泉も渡瀬もやめて!どうしてそうケンカ腰なの!普通に話ができないの!?」

それでなくても和泉はせっかく三浦を通して渡瀬に歩み寄っていたのに、またこれで拗れてしまった。


先生はそんな僕たちを、ニコニコと実に嬉しそうな笑顔で見ていた。


「そう言えば和泉は渡瀬たちとバスケしていたよね、聡君」

「・・・はい?」

「和泉も学年は一つ下だけど、年は渡瀬たちと同じだから仲良いんだね」

「・・・あっ!はい!」

大きく頷いた僕の返事に和泉は口を尖らせ、渡瀬はムッと口元を曲げた。


「渡瀬、ごめんね。和泉は勉強よりバスケだから、怒りっぽい弟だけどこれからも仲良くしてやってね」

先生はまるで小さな子供に言うように、しかし渡瀬は小さな子供ではないので先生の言わんとすることまでちゃんと理解ができる。

半分諦めたような表情で、返事をした。

「・・・はい」


三浦の時もそうだったけれど、先生の保護者モードはどこか毒気を抜かれるようだった。


「和泉、バスケもいいけど、そろそろ勉強にも本腰入れなきゃね」

先生に注意されて、こちらも小さな子供でもないのに拗ねて横を向いたままだった。

「・・・和泉、返事くらいし・・・」

「聡!兄貴の顔見たし、もういいよな!兄貴だって聡の両親とは面識あるんだしさ!」

元々僕の挨拶に付き合うだけで、まさかやぶへびを突かれる羽目になるとは思っていなかた和泉は、かなりの剣幕で食堂を出て行きかけた。

「ちょっと待ってよ!和泉!」

「ああ、聡君。わざわざ出向いてもらって悪かったね、こっちがお世話になるのに。和泉を宜しくお願いします」

「あ・・はいっ。両親も凄く喜んでくれています。それも面識のある本条先生の弟だと知って、両親の方が楽しみにしています」

「そうかい、ありがとう。和泉ー、良かったねー」

食堂の扉にもたれ掛かっている和泉に、先生はさっき注意した時にはなかった笑顔で呼び掛けた。


「・・・ったく、保護者MAXだな」

独り言のような、小さな呟きが渡瀬から聞こえた。

「何か言った?」

白々しく先生が聞き返す。

「いえ、何も」

耳をそば立てるほどでもない半分聞こえよがしなのは、渡瀬のせめてもの抵抗のような気がした。



「聡、早く行けよ。ほ・・ん、んっ・・和泉が待ってるぞ」

「渡瀬、今日ここで君に会えるなんて、本当に思わなかった。
だから和泉も驚いて、つい大きな
声が出てしまったんだよ、心配していたからね。流苛君だって・・・」

「わかってる。俺はタバコを吸っていないし、金輪際吸わない。流苛にも、直接電話で話したよ」

渡瀬はタバコの嫌疑をはっきり否定すると、ポケットから携帯を取り出した。

「それじゃ、どうしてここにいるの!?ここにいたら、余計に疑われるよ」

「余計に・・・そうだな、それが俺たちの失ったものだ」

取り出した携帯に目を落としながら、渡瀬も三浦と同じことを言った。

そして、


「信用と信頼は、勉強じゃ取り戻せないからな」


そう言って手の中の携帯を、僕の前に差し出した。


渡瀬から手渡された携帯の画面には、満面の笑みでVサインをしている流苛と三浦が映っていた。


「夏休みだろ。三浦が許可をもらって、自分の家に流苛を連れて帰ってるんだ。
昨日はテーマ
パーク、今日は庭でバーベキューだとさ」

「流苛君、いい笑顔だね。渡瀬のことを信じてなきゃ、こんな笑顔は出来ないよ」

渡瀬からの直接の言葉は、流苛にとって何よりの安心となったのだろう。

渡瀬を信じ、三浦たちを信じて、流苛のいい笑顔は、信頼の証。

「ふっ・・・まあ流苛のことだから、ここに来られるとまたややこしくなるからな。三浦に連れ出してもらったんだ」

携帯の中の流苛の笑顔が、渡瀬にも笑顔をもたらす。


携帯を渡瀬に返して、もう一度率直に聞いた。


「流苛君を遠く離してまで、どうして君はここにいるの?」

「ここに、先生がいるからさ。俺は待っているだけだ」


先生・・・本条志信の指導を受けなければならない人物。

渡瀬はそれを知っていて、待っている。

また先生もそれが誰なのか、知っていないはずがない。

知っている上で、渡瀬に任せているんだ。


誰を―


れ以上聞き返せば、僕も流苛と同じになる。


「渡瀬、罰を受けるのは簡単だけど、受け入れるのは難しいね。でも君なら大丈夫だと、僕は信じているから」


渡瀬たちに与えられた罰は一か月の謹慎だけだったけれど、本当の罰はその後から始まる。

それを受け入れるのは、犯した罪の自覚と自分を律する心。

あえて疑惑の目に晒されながら、静かに待っている渡瀬の姿がそれを物語る。


渡瀬は携帯を持つ手を上げて、僕に応えてくれた。


「あーっ!!兄貴っ!!あれ!あれだって!!」

それまで拗ねてウロウロしていた和泉が、突然大声を上げて駆け寄って来た。

渡瀬の携帯を指差しながら、先生の袖口をぐいぐい引っ張っている。

「これだよ!これがスマホ!もうみんな持ってんだって!おれも欲しいー!!」

・・・みんな持っているかどうかは定かではないけど、和泉が著しく反応した渡瀬の携帯は最新のスマートフォンだった。

「どれ・・・ちょっと見せて、渡瀬。ふ〜ん・・・今の携帯はみんなこのタイプなの?聡君も?」

「え・・いえ、僕のは従来の・・・」

「もう!聡も今度買い換えるならスマホだよな!」

「それじゃあ、和泉も今度買い換える時でいいだろ?」

「だーかーらぁ、その今度が今なんだってば!兄貴、おれも!見せて!見せて!いいなぁ・・・
機能だって今までの携帯とは全然違うんだぜ!なあ!渡瀬!」

「・・・どうでもいいから、返せ」

ケンカしていたことなどそっちのけで興奮している和泉に対して、渡瀬は諦めたような冷静さだった。


和泉と渡瀬の温度差は、だんだん先生と渡瀬の温度差に似てきている・・・。



「先生、そろそろ失礼します。挨拶に来たのに、つい渡瀬と話し込んでしまってすみませんでした」

「挨拶は顔を見ただけで十分だよ。
渡瀬は謹慎しているわけじゃないから、連絡さえすればい
つでも会いに来て良いよ」

「そうなんですか?」

「うん。和泉も高等部になってからは帰って来てくれなくなったし、渡瀬には夏休み中ずっといてもいいよって言ってるんだ」

和泉から引っ手繰るように携帯を取り戻したと思ったら、今度は意としない先生の言葉が追い打ちをかける。

二人とも全く他意も悪意もないだけに、結局いつも僕が睨まれる羽目になる・・・。


「それじゃ聡君、ご両親とお姉さんに宜しく。お姉さんは、確か今年大学生だったよね」

「・・・あっ!はい!」

先生の口から姉さんの話が出て、もうひとつ大事な用件を思い出した。

それと、少しでも渡瀬の気が逸れるように・・・都合の良い期待も込めて聞いてみた。

「渡瀬!渡瀬も僕の姉さん、知ってるだろ?以前、夜道は危ないからって送ってくれたことがあったよね。
覚えてる?僕のお見舞いに来てくれた時だよ」


「ん?・・・ああ、それがどうした」

楽しかった出来事を思い出すように、渡瀬の表情が綻んだ。

「この間姉さんと電話で帰省の話や友達の話をしていたんだけど、
姉さんが渡瀬にお礼が言え
ていないことをずっと気にしていたみたいなんだ」

「礼だなんて、そんなたいしたことじゃないだろ」

「でもあの時は本当に助かったよ。姉さんには、ちゃんと伝えておくって言ったから。今更だけど・・・ありがとう、渡瀬」

「姉弟揃って、律儀だな」

呆れられながらも、ようやくささやかな笑みが渡瀬から零れた。


「・・・でね、今の携帯はカメラ機能が悪くてさ、おれ、恵梨さんとツーショット撮りてぇの!
渡瀬の
スマホはすっげ画像が綺麗なんだぜ!ねっ、ねっ、兄貴!お願い!」

「え〜っと・・・スマホ?だったね、また後で渡瀬に聞いておくから。
さてと、これから花に水やり
に行かなくちゃ。それじゃね、和泉。渡瀬、行くよー」

「もうーっ!渡瀬!ちゃんと兄貴に説明しておいてくれよー!」


「渡瀬ー?」

「渡瀬ー!」


・・・・・・ささやかな笑みが、かき消された。







「渡瀬さぁ、誰かを庇ってんのかな・・・。それって、タバコしてなくても同罪になるんじゃねぇの?」

先生の宿舎からの帰り道、和泉は渡瀬や先生の前では見せなかった不安を口にした。

確かに和泉の言うように、再犯の疑惑に晒されながらも渡瀬が先生のところにいるということは、別の見方をすればそう思われても仕方がないのかも知れない。


でも、先生は・・・


―先生はひとりひとりの心の内を見ているように

あるべき未来の姿を願うように―


渡瀬を信じて、見守っている。


「先生が言っていただろ?渡瀬は謹慎しているわけじゃないって。同罪ならその時点でそんな言葉は出てこないよ」


コマ送りのように和泉の表情が和らぎ、その後ゆっくり頭(かぶり)が縦に振れた。







Flowers 花の宴

咲く花びらも 散る花びらも

大いなる自然の 美しき営み

そこに聳え立つ 鉄の門

ぴたりと閉ざされた門扉の向こう

中を窺い見れば制服に身を包んだ少年たち

思春期の匂いが花の芳香に包まれて

厳かに漂う




学校の正門はよほどのことが無い限りぴたりと閉ざされているので、外の出入りにはその横の通用門を利用する。


「3年Aclass加藤御幸と2年Aclass村上聡・・・はい、連絡来てるよ。気を付けて時間までには帰って来て下さいね」


今日は、夏休み前に御幸と約束していた街へ出掛ける予定だった。

普段平日の外出許可は、担任もしくは関係する先生からオフィスセンターに申請してもらう。

夏休みなど長期休暇の帰省や外出は、事前にセンターから用紙を取り寄せて外出予定日を申請しておく。

尚、緊急時を含む当日の外出・外泊については、当直の各学年担当教師経由でセンターに申請となる。

本人確認についても制服の時は名札、私服の時は生徒手帳の提示が義務付けられている。

細かに定められた外出に関する規則は、全寮制の中で学ぶ僕たち生徒の安全責任を学校側が一切負っているという表れでもある。



「聡・・・まだマスク取れないんだね」

「うん。あ、体は元気なんだよ?川上先生の許可がなかなか出ないんだ」

「川上は慎重だからね、僕もかなりしつこく言われたよ。
しょっちゅう風邪を引いたり治りが遅か
ったりするのは、食生活に問題があるってさ」

「川上先生は、食べることには厳しいよ」

「大げさだよ、僕にはうるさく感じるね。うるさいのは真幸だけで十分・・・あ、来た、来た」


街は駅を中心に商業地・市街地・郊外へと広がっている。

郊外に位置する学校からは、駅までバスで約三十分。

事前に時刻表を調べているので、真夏の日差しの中、待つこともなくバスに乗って街へ向かった。



街に着いて、僕たちが大抵最初に足を運ぶのが大型電気店だった。

展示されているパソコンやiPodなど関連商品も含めて、目移りするデザインと機能性はどれも興味が尽きない。

それからやはり目に付くのが、多機能携帯電話のスマートフォン。

和泉には目の毒だろうなと思うほど、各メーカーの最新型がズラリと並べられていた。


「聡は、携帯スマホに変えたの?」

「いや、まだだよ。携帯は今ので充分足りてるって思ってたけど、これ見てたら欲しくなるね」

「そうかな?僕は真幸がスマホ、スマホってあんまり騒ぐから、この間の学期末試験が終わった後に機種変したんだけど。
あいつ騒いでいた割に、未だに使いこなせてないんだから」


「あはっ。でもその方が、楽しみが長く続くんじゃない」

「慣れの問題だよ。携帯なんて、結局どれも同じなのにさ」

御幸は昔から、パソコンや携帯が機種代わりしても難なく使いこなしていた。

むしろ飽きるから≠ニ、同じメーカーの製品を続けて使うよりも、違うメーカーの製品を選ぶことが多かった。


「御幸はパソコンが得意だから、そんな風に言えるんだよ。僕は真幸の方が普通だと思うけど」

「聡は、真幸擁護派だからね」

「そうだよ。僕もスマホに変えたら、きっと真幸みたいに使いこなせないで説明書と首っ引きになりそうだもん」

「その時は僕が教えてあげるよ。聡ならいつでも」

「ありがとうって言いたいけど、真幸擁護派の僕が、真幸を差し置いて?」

「あはは、それもそうだね」

「真幸、今頃くしゃみしているかもね」

御幸と二人で大笑いした。



しばらく電気店で時間を過ごした後、書店、雑貨などを見て回った。

駅前周辺のショッピング街は、平日でも学生たちが夏休みの時期なのでそれなりに賑わっていた。


「聡、疲れてない?」

「全然!・・・何だかさ、うちの学校って迷子になるくらい広いと思うんだけど。
やっぱりこうして
街へ出ると、開放感があるんだ」

「どんなに広くても内と外、遮断されている事実を知っているからね。
それはある意味守られて
いるっていう安心感でもある。閉塞感と安心感、あの鉄の正門がその象徴だね」

僕が上手く話せなかったことを、御幸は整然と理論立てて話した。

「そう!それだよ、閉塞感と安心感。御幸も感じていたんだね」

「当たり前だろ、どこの生徒だと思ってるんだよ」

そう言って、

【三年Aclass 加藤 御幸】

学年色(オレンジ=名札紐)と同じ色の生徒手帳を手にかざした。




ショッピング街をだいたい一周して、数点の雑貨と本を買った。

御幸も僕もあまり衝動買いはしないので、お互い買ったものを見比べながら小市民だねと笑いあった。

「・・・もうこんな時間、あっと言う間だね」

「ほんとだ。・・・帰りのバスの時刻からだと、あと一時間程大丈夫だよ。聡が言ってたギャラリー行こうよ」

「うん。駅前だし、帰りもすぐバスに乗れるしね」



ギャラリー樹≠ヘ、主に画家の卵と呼ばれる人やアマチュアの人たちの絵画の展示と販売を取り扱っている画廊で、駅前の小さなビルの1Fにあった。

奥のコーナーには、カウンターのみの喫茶も設けられていた。

カランとドアを開けると、入り口付近に受付を兼ねた四人掛けの丸テーブルが置いてあり、バラの花が活けられていた。

バラは小振りの黄色でパステルカラーの柔らかい色合いが、透明なカット細工の花瓶と調和していてとても涼しげだった。


「いらっしゃいませ」

奥の方から和花さんの声がして、小走りに出迎えてくれた。

「こんにちは」

「あら!こんにちは、村上君。今日はお友達も一緒なのね」


白瀬さんから聞いていた和花さんのこと。

学校横の花屋で偶然知り合うことが出来て、後日街へ出掛けた折に一人でギャラリーを訪れた。

和花さんは少し姉と雰囲気が似ていて、そんなところも足を向かせた要因のひとつだった。


そこで見つけた先生の絵。

思わず目を見張った。

キャンパスいっぱいに描かれたこの風景は・・・・・・。


「こんにちは、三年の加藤です」

「三年生・・・だったら、渡瀬君と同級生ね!」

「・・・渡瀬とは、同じクラスです」

「まあ!みなさん、お友達なのね!」

「和花ー?どうしたの?大きな声出して、珍しい・・・あーっ!少年たち!!」

「久美が一番大きな声だわ」

和花さんの呆れ顔とテヘッと舌を出した久美さんの可愛い仕草が、和やかな笑い声を誘った。


「御幸、白瀬さん知ってるだろ?」

「もちろんだよ。卒業生代表だし委員会でも会ったことがあるけど、
何事にも落ち着いていて、
年がひとつしか違わないなんてとても思えない」

「和花さんは、その白瀬さんが指導部の本条先生と張り合って負けた人なんだよ」

「指導部の・・・」

先生の彼女と紹介したつもりが指導部の・・・≠フところで、御幸の表情が強張ってしまった。

つい冗談交じりに話してしまったけれど、係わりのない生徒が指導部の先生と聞くと、およそ御幸のような反応になる。


「加藤君、冗談よ。白瀬君には言ってあるのよ、あまり年上をからかうものじゃないわよって。村上君にも、言ったわよね?」

固まってしまった御幸を気遣うように、和花さんは柔らかな語り口調で僕を諌めた。

「驚かせるつもりはなかったんだよ。前に御幸から先生のことを聞かれた時は上手く伝えられなかったけど、
和花さんやここにある絵を見てもらえれば説明なんていらないと思ったんだ」



「・・・思い出したよ。本条先生は・・・僕たち一人一人に、きちんと向き合ってくれる人だって」


「御幸、こっちに来て・・・これだよ」


中央から幾分離れたところに、それは飾られていた。


―8月 向日葵― 本条志信(ほんじょう しのぶ)


「・・・絵を、描かれるんだね」


キャンバスいっぱいに描かれた向日葵の群生が、雄々しく8月の空に向かって咲き誇る。


御幸はすぐさま、言った。

「学校の向日葵畑の風景だね」

「そうだよ!わかるの!」

「・・・これで二回目、どこの生徒だと思ってるんだよ」

「ほんと、見たままだよね!何も目印になる建物とかが描かれているわけじゃないのに、学校の向日葵畑ってわかるんだ!」

余分な線も色もない。見たままの情景がそのまま伝わる、そんな絵だった。

「季節によってコントラスト(色彩の対比)は変わっても、
全体の風景位置・・・向日葵畑とかその
奥に広がる森林とかは変わらないだろ。
とても力強い絵なのに、全体の構成には繊細さを感じ
るね」


力強さと繊細さ。

御幸は先生の絵を、そう評価した。


「先生の弟の、和泉は知っているよね。二人のご両親が事故で亡くなって、和泉はその事故のせいで一年遅れて入学してるんだ」

唐突に切り出した僕の話に、御幸は無表情のまま小さく呟いた。

「ああ、あいつ・・・」

鉢合わせするたびに険悪な雰囲気になる相手なので、仕方のないことなのかもしれない。

だけど知っておいてもらいたかった。

僕の友達である以上、和泉とも係わってくる。

先生の絵を見て、力強さと繊細さの中で、和泉がどのように育まれて来たのかを。


「単純で怒りっぽくて、うるさそうだよね。・・・だけどあいつ、真幸と似てるだろ。
僕なんかよりず
っと正直で、いい奴だってわかってるから」


いつの間にか、目を細めて微笑む御幸がいた。


「ありがとう、御幸」



「少年たちー、紅茶とクッキーですよー。さあ、召し上がれ」

久美さんが、丸テーブルの方に運んで来た。

「ありがとうございます。でもここ受付用のテーブルですよね?邪魔になりますから、奥のカウンターでいいです」

「何言ってるの!駅前の小さなギャラリー、丸テーブルにバラの花。
そして!優雅にお茶を飲
みながら歓談する少年たち、いいシチュエーションだわぁ!これこそ欠けていた風景よ!」

遠慮して奥のカウンターへ移動しようとした御幸は、かなり妄想の入った久美さんに引き留められた。


「ふふっ、喫茶の方はお代金を頂かなくてはいけなくなるので、こちらでごめんなさいね」

「すみません、気を遣っていただいて」

「いいえ、どういたしまして。・・・前に学校横の花屋さんで村上君と一緒にいたお友達、ほらヤマユリを選んでくれた・・・」

「水島ですか?」

「そう、そう、水島君。元気にされているのかしら」

「はいっ!」


勢いよく返した返事と共に、和花さんの肩にかかるくらいのストレートヘアが、その肩先で揺れた。



御幸は僕が和花さんと話をしている間に、絵を見て回っていた。

ゆっくり歩きながらの鑑賞のようだったが、途中一枚の絵の前で歩みが止まった。

じっと見入っている様子だった。


「あら、少年!その絵の作者、結構人気高いのよ。なかなか見る目があるじゃない」

「あー・・・いえ、そんなんじゃないです、懐かしかっただけです。
この絵の犬、前に飼っていた犬
と同じ種類で毛並もそっくりなんです」

久美さんの褒め言葉に、御幸は照れながら否定した。

絵は大型犬のラブラドールをモチーフにした作品だった。

「あ、そ。でも少年の郷愁を誘ったってことは、やっぱりこの絵の作者は良い画家なのよ」

「そうですね。この犬の視線・・・それだけでこの犬の幸せを感じます」


久美さんも和花さんも店の仕事の合間に僕たちの相手をするといった感じなので、気を遣うことなく店内での時間を過ごすことが出来た。



「少年たちー、またねー!」

帰りは久美さんが喫茶の方から声をかけてくれて、和花さんが戸口のところで見送ってくれた。

「またいらしてね」

「はい、今日はありがとうございました。今度は和泉も連れて来ましょうか」

「和泉君は先生と一度来てくれたけれど、紅茶とお菓子を食べたらすぐ帰ってしまったわ」

くすくすと、和花さんは口元を抑えた。

和泉が花や絵に興味のないことは、すっかりわかっているようだった。

「そらみろ、聡。僕の言った通りだろ、真幸と同じだ」

御幸も含み笑いで、そっと耳打ちした。





駅前から予定時刻通りのバスに乗って、学校へ戻る。

御幸と久し振りに一緒の時間は、帰路の車中でも話が尽きない。


「聡、疲れてない?」

「・・・御幸も二回目だよ。そうだね、あえて言うなら、心地よい疲れならある」

「それなら僕もある!」

これは何回目だろう、お互い顔を見合わせて笑った。

御幸は時折咳払いする程度で、風邪は治っているようだったが、顔色は相変わらず悪かった。


「今日は本当に楽しかったよ。誘ってくれてありがとう、聡」

「それじゃあ、もう一回誘ってもいい?夕食も付き合ってよ。食堂の夏季限定特別スペシャル、食べたいんだ」

「えーっ、あれステーキ定食だよ。真幸が言ってたけど200gくらいはありそうだって・・・・・・あいつは、いいの?」

「あいつって、和泉のこと?」

「食堂で一緒のところ、よく見かけたから・・・」

「僕は留年してるだろ。一つ年上っていうこともあって、クラスメイトたちから遠慮されているんだけど。
同じ年の和泉だけは普通に接してくれるんだ」


僕の話に、御幸は黙って聞き入った。

「だからって、いつも一緒にいるわけじゃないよ。
和泉だって僕以外に友達はたくさんいるから
ね・・・むしろその中に僕が混ぜてもらっている、みたいな感じだよ」


「・・・聡、ごめんね」

聞きたくなかった言葉が、胸に突き刺さる。

これほど、謝られることが心苦しいと思ったことはない。


「谷口に伝言をしなかったのも、聡にいろいろ絡んだのも、みんな僕の・・・」


御幸

言わなくてもわかる

いまの僕には見えるよ

僕たちの景色が


「御幸!全ては僕が御幸に作らせてしまった、蟠りだったんだよ
(わだかま/り=心の中に解消
されないで残っている不信や不満など、また、そのためにすっきりしない気持ちのこと)」


謝るべきは

君の心の景色を

忘れてしまっていた・・・




「だけど御幸はちゃんと消してくれた。そうだろ?そうでなきゃ、僕はこんな風に楽しめていないよ」


バスの車窓から映る風景が、街ビルや戸建ての家並から雑木林に囲まれた郊外の緑へと変わる。


「・・・うん、楽しかったね。本当に、楽しかった」

そう言って穏やかな眼差しを僕に向ける御幸に、もうかつての密やかな笑みはどこにも見ることはなかった。



約30分後、バスは時刻通り学校前バス停に到着した。

そこから数百メートル先の深い緑の奥の向こうに、高く聳える鉄の門が見える。


「はい、お帰り。・・・時間ぎりぎりだねぇ。まぁ時間内だけど、何事にも余裕は大事だよ」


通用門で生徒手帳を提示してそのまま通過しようとしたら、守衛さんに少しお小言をもらってしまった。

でもそんなお小言さえも、僕たちには楽しさのひとつでしかなかった。



「御幸、夕食はどうする?このまま食堂に直行してもいいけど、真幸はどうしてるの?」

「ああ、真幸はたぶん谷口といるんじゃないかな。スマホの使い方教えてもらってるみたいだよ」

「御幸たちはいつ帰省するの?」

「ん〜・・・真幸は早く帰りたがっているけど、家は両親共働きだしさ。
どうせ帰っても真幸と二人
だしね・・・・・・」

真幸との兼ね合いもあるようで、まだ帰省の予定は立っていない様子だった。


取り敢えず食堂に行くか寮に戻るか、中間地点に差し掛かったところで御幸の足が止まった。


「・・・聡。食堂に行く前に、少し付き合ってもらいたいところがあるんだ、いいかな?
お腹空いて
いたら、夕食の後でもいいけど・・・」

躊躇いがちに口籠る御幸は、珍しかった。

「夕食は200gのステーキだからね、もっとお腹をペコペコにしておかなきゃ。いまからでいいよ、どこへ行くの?」

「・・・ん、僕の部屋」

「何だ、もう!寮に戻るんじゃない」

「はは。聡に怒られちゃった」





先に僕の部屋に寄って荷物を置いてから、御幸の部屋へ向かった。

三年生の領域は夏休みでも多くの生徒が残っているはずなのに、非常に静かだった。

「前に来た時も感じたけど、三年生の方が顔見知りも多いのに、こっちの領域は違和感を覚えるんだ・・・不思議だね」

「それは聡の生活の場が二年生にあるからだよ、ちっとも不思議じゃないさ。
前に来た時っ
て・・・渡瀬のところ?」

御幸と僕の間に、蟠りと呼ぶものはもう何もないと確信できる。

即答した。

「そうだよ」


「・・・渡瀬のことは、聡なら知ってるよね」

「うん。でも僕は信じていないよ」

御幸はそれには答えず、自室のドアを開けた。

「どうぞ、入って」

渡瀬の部屋と同じくらい、御幸の部屋も整理整頓されていた。

「相変わらず、綺麗な部屋だね」

「掃除は面倒だから、余分な物は置かないようにしているだけさ」

そう言いつつ、御幸は街で買った品物をそこらに置くことはぜず、きちんと仕舞った。

「御幸のそういうところ、渡瀬と似てる。二人とも典型的な委員長タイプだしね」

「僕は代理程度さ。渡瀬が謹慎していた間と・・・今と」

「今?」

「夏休み前だっただろ、渡瀬が指導部に行ったのは」


まだはっきりしないことを部外者の僕が話すことは、混乱を招きかねないので控えていたけど・・・。


「御幸・・・僕を部屋に呼んだのは渡瀬のこと?」

「うん」

「・・・渡瀬の何を?」


「渡瀬って、あんなにおせっかいだったかな?」


御幸に問われた言葉は、どこかで聞き覚えがあった。



あれは・・・・・・学期末考査の試験前日、本を返しに行った図書室で御幸に会った。

あれほど嫌がっていたマスクを、きちんと着用して・・・。


―・・・渡瀬がね、風邪が移ると大変だから、ちゃんと治るまで人前ではマスクしろってさ―



「御幸がそう思うんだったら、きっとそうだよ。罪の自覚と自分を律する心。前に言ったよね、
人と係わる中で時にそんな姿は、とても不器用に見えるほど一生懸命・・・・・・みゆ・・き・・・」


男子にしては長い睫毛が濡れていて、瞬くと透明な水滴が真珠のように転がり落ちた。

静かに机の引き出しを開けて、手に取った小さな箱と・・・ライター。


「聡、僕を・・・本条先生のところへ連れて行って。渡瀬が・・・待ってる・・・」







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